2ー10
私達は寒さにやっと気付いてバルコニーから中に入った。
「私の国のパンを焼いてみたんです。」
折角わざわざ焼きたてを持って来たのに、先程の行為が恥ずかしくてまともに顔を上げられない。
十代の若い子じゃ無いんだから、しっかりしろ、と自分を叱咤するが、上手くいかない。
「エリ。…怖がらせるつもりじゃなかったんだ。本当に、悪かった。」
私はカゴの中に視線を落としたままぶるぶると首を横に振った。私だって全然抵抗する素振りを見せなかったんだから、王太子がそんなに自分を責める事はない。
「エリが嫌がる事は二度としない。約束する。…だから…顔を上げてくれないか。」
後の方が泣きそうに震えた声色になっている。思わず私は王太子を見上げた。
「俺を軽蔑するか…?」
私は急に不思議な気持ちになった。
王太子は私に嫌われる事を恐れて、悪さをして叱られている小さな子供の様に不安で一杯の目をしていた。こんなに綺麗な顔をしているのに、彼が置かれている状況が自信という物を奪っているのだろう。
異世界から拾われてきた厄介者の女なんて本来どうでも良いはずなのに。
私は王太子の緑の瞳をしっかり見据えて答えた。
「王太子殿下は凄く素敵な方だと思います。軽蔑なんてしません。少し驚いただけです。でも私みたいな怪しい人間に、手を出さない方が御身の為だと思います。」
「…その素敵ってところ、良く聞こえなかったな。そこだけもう一度言ってくれ。」
聞こえてるだろ、とツッコミたい気持ちを抑え、いつもの王太子らしくなってくれた事に私は少しホッとした。
手にしていたカゴを差し出す。
「結構、我ながら会心の出来栄えなんですけど。」
王太子は物珍しそうにパンを一つ掴むと、その場で食べ始めた。咀嚼を開始するなり眉をひそめる。
「なんだこれは、パンが甘いじゃないか。砂糖と塩を間違えたのか?」
言葉を飾らない人だ、と私は若干呆れた。
王太子は更に食べ進め、実に珍妙な物体を眺める様にパンに詰まった餡を見て言った。
「パンに何か入ってるじゃないか。変わってるな。……凄く甘いぞ。甘いパンにもっと甘い物を入れたのか。」
おかしいな。サハラとカイは喜んでくれたのに。あっ、あれは彼等なりの優しさだったのだろうか!?カイならパンに角砂糖を詰めても笑顔で食べてくれかねない。
私の中で不安が膨張し出す中、王太子は険しい顔を少しずつ緩めた。
「菓子だと思えば、食べれない事はないな。」
「あまりお口に合わなかったみたいですね。」
「そんな事は無い。食えと言われれば食うぞ!」
な、なんて感想だ……!私の女心はズタズタに引き裂かれた。
「食えなんて言いません!いいです。じゃ残りは他の人にあげますから。」
すると王太子は大きな一口で手の中のパンを頬張ると、私が持っていたカゴを取ろうとした。
「見ろ、食べたぞ!だからそっちのも全部寄越せ。」
「そんな食べ方で喜ぶ訳ないでしょう!無理しなくて結構です。他の人に…」
「他って誰だ!アレヴィアンか!?」
なぜ大佐の名前がここで登場するのか。
こんななんちゃってアンパンなどという正体不明の代物をあの大佐に『どうぞ召し上がれ』なんて言えるほど私の心臓に毛は生えていない。『私を殺す気か』と凄まれるのがオチじゃないか。
「大佐にこんな物あげる筈ないでしょう。」
「こんな物とはどういう意味だ。じゃあ、あいつに何ならあげるんだ?」
変なあげ足を取らないで欲しい。
どうも王太子は大佐の事があまり好きではないらしい。もっとも、その心情には深く理解を示したいが、妙なところで話に出す傾向がある。
私が答えかねていると王太子は私からカゴを引ったくり、そのまま私から遠ざけた。
「これは俺が全部貰う。食ってやるから、又作ったら持って来い!分かったな?」
横暴ぶりに仰天して返す言葉も無い。
私の目の前に立っている男は腐っても王太子だった。
私は毎日の努力の甲斐あって、サハラの文字表が無くてもこの国の字が読める様になった。
そうなると図書室での読書も実のあるものへと変貌を遂げた。この世界の歴史や地理だけでなく、魔導師と呼ばれる人々の使える術についてもその知識を得る事が可能になった。
私は意外と術が使えたりはしないかと、入門書を紐解き、試してみたりもしたが、世の中そう甘くは無かった。どうやら私には術を使う力は皆無らしかった。
第二王子の婚約者についても、どこかにそろそろ情報が出てこないか調べるようにしていたが、まだ正式に決定していないのか、発表を控えているのか分からないが何の情報も出てこなかった。もしくは、王太子の入手した情報が間違いだった可能性もある、と期待した。
カナヤ王国はイルドアの西に位置し、メルティニアは唯一の王女だった。イルドアはこの大陸のなかで最も大きな国であったが、カナヤは資源の豊富な国だった。この二か国が手を組めば、怖いものなどなくなるのではないか、と言われていた。




