2ー9
私は王宮図書室へ行くと、辺りにいた人を捕まえて教えて貰い、古代文字の参考書を手に取り閲覧席についた。
ただでさえこちらの字を読むのに時間がかかるので、朝から調べ始めたにも関わらず腕環に刻まれた全ての文字を解読し終わる頃には昼になっていた。
疲れた。
私は書き出した文字を眺めた。
《つうじみちをひらきよびよせるなはかがやき》
暫し頭を捻り、文頭を探し当てる。
《名は輝き通じ道を開き呼び寄せる》
なんだろう。特段呪いらしき言葉では無い。なんだか中世の古城に掛けられたタペストリーに刺繍されたスローガンみたいな響きではないか。試しに小声で読み上げたが何事も起こらない。
「エリは勉強熱心なんだね。ここに来れば必ず会えるんだね。」
当たりの良い柔らかな声にギクリと顔を上げると、降り注ぐ陽の光を浴びた金髪で、後光の差した爽やかな王子様がいた。今日は銀色のボタンがこれでもかと配置され、イルミネーションばりに輝いている濃紫色の衣装をオシャレに着込んでいる。
「一昨日は大変失礼をしました。私、殿下が王子様だとは気付かずに…」
「私の事はウィンゼルと呼んで欲しいな。街を案内出来なかったのは残念だったよ。君は我が国の宮廷魔導師のせいでこちらにいるのだから、何も私に畏まる必要は無いんじゃないかな。」
いや、それはそうかも知れないけど流石に呼び捨てにしたら周囲からどう思われるか。郷に入っては郷に従え、とも言う。
「エリに少しでも我が国の生活を楽しんで貰いたくてね。知っているかな?今度大きな舞踏会が王宮であるんだ。年に一度しかない、下級貴族まで参加出来る舞踏会だよ。どうだろう。エリをそれに招待したい。」
「舞踏会、ですか。あの、私踊りを知らないんです。それに知り合いもいませんし…」
私が難色を示すと王子はキラキラと笑った。青い目から星が散った気がするのは目の錯覚か。
「とても大きな舞踏会なんだ。ダンスに参加するのは一部で、食べて飲んで話す人ばかりだから心配は御無用だよ。遠方からも大勢来るからね。初対面の人も多いし、何より無礼講な仮面舞踏会だ。顔を見られずに交流できる。」
なんだか楽しそうではないか。お城で仮面舞踏会。乙女なら誰もが一度は夢見る、少女漫画の世界を堪能出来そうだ。それに何より仮面着用なら、王宮では注目を引くこの平たい顔を隠匿出来る。
「それは楽しそうですね。華やかなんでしょうね。」
「乗り気になってくれたかな?では今度招待状を送るよ。」
それから数日でトンプル宮に招待状が届いた。
一緒に大きな包みも送られて来たので、私はサハラとなんだろう、と言い合いながら包装を解いた。
「まあ!なんて素敵な仮面でしょう!」
中に入っていたのはキラキラ輝く石がたくさん埋め込まれた豪華な白い仮面だった。耳に掛ける紐まで色鮮やかで手が混んでいた。
「ウィンゼル殿下はお優しいと専らの噂でしたけど、本当なんですね。私、腕によりをかけてエリ様に似合う御衣装を用意致しますわ!」
午前中は王宮図書室で勉強し、午後はサハラと庭園を散策したり、夜は王太子とおしゃべりし、トンプル宮での滞在は思いの外充実していたが、暫くケインの音沙汰が無い事が気がかりになった。
私はカイと王宮をぶらつく度に、目を皿にしてケインとすれ違わないか捜すようになった。その様にして一月ほど経過した頃、ようやく私は廊下でケインを発見し、にじり寄った。
突進してきた私に気づき、彼は曖昧な愛想笑いを顔に浮かべた。
「お久しぶりです。その後研究の進捗具合は如何ですか?」
「研究?」
「私を元の場所に戻してくれる研究ですよ!……この世界で二ヶ月足らずが過ぎてて、もうあっちじゃ間違いなく捜索願い出されてますよ。親は発狂してるかもしれないし、仕事も首になりかねません。時間とか巻き戻して帰して頂けると嬉しいんですけど。」
するとケインはやっと話が分かった様子で、あ、ああ、もう少し待ってて、と慌てて言った。
怪しい。
これでは私は彼が本当に私をどうにかしてくれる気があるのか心配にならざるを得ない。私が更にその方法を追求すると、彼はのらりくらりと質問をかわし、多忙を言い訳にそそくさと私が入れない王宮の執務エリアへ逃げてしまった。
少し後ろに控えて一部始終を見ていたカイに、ケインの態度について意見を求めると彼は言い難そうに口を開いた。
「そもそも、私にはエリ様が又世界を渡られるのは難しい気がするのですが。長い歴史のなかで唯一の例ですし、ケイン様も全くの偶然で出来た様ですし。」
思い遣りの塊だったカイに珍しく辛辣な現実を突き付けられ、私が言葉を失っているとカイは失言に気づき、慌てて慰めてくれたが後の祭りだった。
そうだ。
私は考え無い様にしていたのだ。
帰れないという恐ろしい可能性があり、客観的に考えればそちらの方が遥かに現実味を帯びている事をーーー。
でも。
もし、今すぐ帰れるとケインに言われたら、私は手放しで喜べるだろうか?
私は横を歩くカイを見た。カイは私と目が合うとその精悍な顔にそっと小さな笑みを浮かべて会釈してくれた。
日本に帰ればこの世界の人達とは二度と会えない。それはそれで嫌だ、と強く感じる様になっていた。私はここの人達と離れ難い人間関係を築きつつあったのだ。
私は王太子に日本の菓子を作ってあげたいと計画していたが、リサーチしたところ、材料がどうにも揃いそうになかった。米がこの国には無いのだ。
材料が揃うけれどこの国で全然お目にかからないのが、所謂菓子パンだった。木の実やドライフルーツを混ぜたパンならあったが、それ以上の物がないのだ。
そこでまず私はパン生地の作り方をトンプル宮のコックに教えて貰った。パン生地をマスターすると次は具である。
こちらの滞在で私は無性にアンパンが食べたくなっていた。そこで私は色んな種類の豆を砂糖で煮て見て、一番日本のあんこに近いと感じた豆を選び、パン生地に詰めて焼いた。パン生地にも餡を混ぜ、甘味のあるパンにするのも忘れない。
出来上がったなんちゃってアンパンを試しに食べてみると、思わず自画自賛してしまう出来栄えだった。
サハラとカイに食べて貰うと、最初は変な顔をしたものの、すぐに美味しさに気付いたのか、感心して喜んでくれた。
トンプル宮の迷惑にならない様に、厨房をコックが使わない時間帯を選んで料理していた為、なんちゃってアンパンが出来上がったのは夜だったが、私は焼きたてを味わって欲しいと思う欲張りな気持ちから、カゴになんちゃってアンパンを入れて、宮の中を王太子を探し歩いた。
王太子は最上階にある大きなバルコニーにいた。宮の中で最も眺望の良い場所だ。時間が遅いからか、王太子はゆったりとした白い部屋着の様な上下を纏っていた。
私が声を掛けながらバルコニーに出ると、王太子は意外にも沈痛な面持ちで遠く夜の闇に沈む街の小さな明かりを見ていた。その横顔は泣き出しそうにすら見えた。王太子殿下、とそっと呼び掛けると王太子ははっと私の方を向き、瞬間その瞳が驚いて揺れた。僅かな後、王太子の長い腕が私の方へ伸びたかと思ったら、次の瞬間私の顔は王太子の胸にギュッと押しつけられていた。
何が起きたのか分かるまでに少し時間がかかった。私は王太子に抱きしめられていた。
「で、殿下?」
王太子は私を抱きしめたまま、ふうっと長い溜息を吐き、私の耳をその呼気が掠める。柔らかな布地越しに王太子の体温が伝わる。
そっとその腕の中からすり抜けようとした矢先、私は王太子が小刻みに、微かに震えている事に気が付いた。
どうしたのだろう。何かあったのか。
私は、ここで王太子が無為に日々を過ごしているわけではない、という事を知っていた。彼はトンプル宮の使用人に集めさせた資料や、この国の新聞の様な物に、毎日時間をかけてきちんと目を通していた。
また、実際には王太子としての彼は完全に孤立無援な訳ではなく、トンプル宮に彼を訪ねてくる貴族や官吏らしき者たちの姿を私はしばし目撃する事があった。そんな時、彼らは王太子と長い時間真剣に話をしていくのだ。
王太子は毎日出かけられる私などより余程、王宮に通じる太く確かなパイプを持ち、中枢で起きている事柄について正確な情報を得ていた。
私は王太子の震えから、唐突に悟った。
何か王太子に極めて不利な事が起きたのだ。
でも、何が?
「…王太子殿下、教えて下さい。何かあったのですか?」
王太子は私を腕の中に入れたまま、長い時間沈黙した。私に話すべきか葛藤していたのだろう。
私を抱きしめる腕に微かに緊張が走った後、王太子は苦しみで凝り固まった胸の内から絞り出す様に呟いた。
「弟の第二王子の婚約者選びが開始された。…最有力候補はカナヤ王国の長姫メルティニア姫だそうだ。………俺の婚約者だった姫だ。」
他国の長姫を伴侶とするのは次期国王である事を意味する。
「エリ。俺は何の為にここにいるんだろうな。」
声が小さく震えていた。
何か言わなくては。何を。
「……私は殿下にお会いできて良かったです。家族や友人と会えなくても、今、殿下のおかげであまり辛くないです。」
「……エリ。」
王太子は私からゆっくり体を離すと、私の頬を両手でそっと触れた。そのまま片方の指先を滑らせ私の顎先に触れ、私を上向かせた。
しまった、と思う頃には王太子の顔が私に迫り、彼の唇が私のそれに押しつけられていた。
一旦唇が解放されてホッとしたのも束の間、再びそれは迫って来て、どうしよう、と私が焦っている内に次第に熱烈なキスへと変わっていった。王太子の口づけの勢いに押されて私はじりじり後退り、気付くと私の背中はバルコニーの手すりにぶつかり、それ以上逃げ場は無くなっていた。
王太子の貪る様な口づけを浴び、私はどうしたら良いのかわからず、けれど不思議と決して嫌では無く、抵抗する事もできず私は痺れた様にされるがままになっていた。
やがて私の唇を割って温かくぬるぬるとした物が滑りこんで来た。それは展開に怯えてじっとしていた私の舌を探り当てると絡み付いて踊った。口腔を味わい尽くそうとする王太子の激しい舌の動きに、みるみる私の口の中に互いの唾液が溜まり、上向かされている私が身じろぎする毎にそれはトクトクと喉を流れて行った。
果てしなく長く感じられたそのキスが終わると、王太子は私の耳元に囁いた。
「エリ………好きだ。」
そのまま唇が私の耳から首筋へと滑っていく。同時に王太子の手が流れる様に私の胸元へ滑り、私は胸をまさぐられるその感覚にはっと我に返った。慌ててそっと、だが確実に王太子を遠ざける。
私に抵抗されて王太子もようやく行き過ぎた事に気付いたらしく、両手をぱっと開き、体を私から離した。
「済まない…止まらなかった。」
気まずい雰囲気の中、王太子は私の左肘からぶら下がったままのカゴの存在に気付いた。
「何か…俺に用があったんだろう?」
私は大変気まずい空気が漂う中、なんちゃってアンパンを紹介する羽目になった。




