1ー1
金曜日の夜。
最高に幸せな時間のはずだった。
最近仕事が忙しく睡眠不足の連続だったが、ようやく抱えていた案件も一山越え、来週からは少しゆっくりできそうな気配だった。
そこそこ名のしれた会社に勤めてはいたが、地味な仕事が続き、『寝ること』が今一番の楽しみだった。
24歳の女性が着るには若干子どもっぽいかもしれないけれど、お気に入りのピンクのシマシマ模様のパジャマに着替えると、私は幸せのあまり顔をほころばせてベッドにダイブした。
ああ、至福の瞬間。
仕事の疲れから、心地よく意識が遠のいて行き、バラ色睡眠タイムに身を委ねようとした、その時。
(―――ん?)
私はちょっとした違和感を覚えた。
――手だ。
手が、私の手首を掴んでいる。
そのあり得ない感覚に幸せモードもマッハで吹っ飛び、慌てて目を開けたのと、正体不明の手が私の手首を掴んだまま急に足もとの方向へ引かれたのはほぼ同時だった。布団の中に引っ張られ、視界が真っ暗になったと思うと次の瞬間には勢い余ってベッドから転がり落ち、両膝を強打した。
「いったっ!」
なぜこんなに痛いのか、と自分が這いつくばっている床を見れば、視界に入ったのはなぜか見覚えのない石畳。
わけがわからないまま目線を上げると、私の手首を掴んでいる手の持ち主と目が合った。
直後、私は声を限りに叫んでいた。
「ぎゃぁあああああああっっっ!!」
茶髪に青い瞳の見知らぬ外国人男性が、私の部屋にいる!
しかも私の手首を掴み、こちらを凝視している。着ているものまで不審な男で、黒いマントの様な服に全身スッポリ包まれている。
隣の部屋で寝ているはずの両親を呼ぼうと男から視線をはずし、再び叫ぼうとした私の口は驚愕の余り顎が外れんばかりに開かれた。
私は見知らぬ石造りの部屋にいた。石を積み重ねた壁に蝋燭が掛けられ、辺りを薄ぼんやりと照らしていた。前方に木の扉が二つあるが、窓は見当たらない。
幸せタイムを提供してくれていた筈のベッドは消え、大小様々な木箱が並んでおり、デカい納戸を連想させる。
薄いパジャマの布地を通して感じるのは初冬ばりの寒さであり、堅い石の床は裸足のいたいけな乙女の足を凍傷にしてしまえそうなほどの冷たさだった。
マント男は私に理解不能な言語で必死に話しかけてきた。
ふいに後ろからも話しかけられた。驚きの余り心臓が口から飛び出るかと思った。眼前に広がる光景に狼狽する余り、背後を確認していなかったのだ。似た様な格好をした外人マント男が、更に二人も私の後ろにいるではないか。
「あ、あなたたち何ですか…こ、ここはどこ、私は誰!?」
超が付くほど古典的なセリフを震える声で私が吐き出すと、男達に困惑の色が走った。先ほどまで私の手首を掴んでいた男は、あからさまに困惑した表情で頭を抱えだした。慌てた様子で何事か三人がヒソヒソ話し合っている間、私は自分の置かれた状況を理解しようと必死になった。
これは夢の中だろうか。
だがそれにしては、寒さ硬さといった感覚があまりにリアルだ。足の爪先だけは寒過ぎて最早感覚が無いが。
もしや寝ている間に誘拐されたのだろうか。
しかしなぜ、しがない会社員の私が? しかも彼らの話す言語は私がこれまで耳にした事のあるどれとも違う。
観察すればするほど、えも言われぬ違和感が私を支配していった。場所がおかしい。そして、男達の顔立ちも、一見ヨーロッパ系の人々に思えたが、なぜか全く異なる集団に属する人々なのでは、という予感がジワジワとしてくるのだ。
突然男達の間に緊張が走った。
遠くから複数の人々の話し声が聞こえ、こちらへ近づいてきている様だった。
密談を休止したマント男達は、突如私に飛びかかってきた。
「いやーーっ、何、何!?」
そのまま私を抱え上げたかと思うと、手近にあった棺桶大の木箱に私を放り込む。
こんなゴミ並みの扱いを受けるのは人生初であった。唖然としつつも木箱の床に手をつき上体を起こすと、バン!と蓋が閉められ、真っ暗になった。
危ないところだった。危うく蓋で頭蓋骨が陥没するところだった。
蓋を押し上げようにも、上に他の木箱でも積まれたのか開かない。
あれっ…どういうこと。何してくれたの。
抗議の声をあげたが、マント男達が走り去り、代わりにバタバタと別の集団が部屋に入って来たのが気配で分かる。
怖くなった私は、木箱の隅で息を殺して耳をそば立て、様子をうかがった。
入って来た者達の一部はまたどこかへ出て行き、一部は残って何か話しながら部屋の中を彷徨いているようだ。
ガタン、ガタン。
何やら大きな物音が、次々と聞こえてくる。
察するに、木箱をかたはしから開け始めたようだ。
どうしよう、と焦っていると頭上の蓋が勢い良く開けられた。
次の瞬間、一人の男が箱の中で震える私を覗き込んだ。
スラリとした長身に、長い金色の髪を三つ編みにし後ろに流したその男は、浮世離れした美貌をしていた。
私を助けてくれる正義の味方かという微かな期待を粉々にすべく、男は冷たい灰色の瞳で私を胡散臭そうに睨むと、流れる様な動きで私の首筋に剣を当てた。
既に自分の置かれた状況は理解を軽く越えていたが、どうやら事態が悪化したらしいことは分かった。
金髪男は何か苛立った様子で、しかしやたらにイイ声で私に話しかけてくるのだが、さっぱり理解できない。
逆らう意思がないことだけは主張しようと、その間私は剣を向けられながら木箱の隅にしゃがみ込み、必死に両腕を上げていた。
なかなか情けない構図だ。
やにわに別の腕が木箱に差し込まれ、私はズルリと引きずり出された。
青い布地に、袖や裾部分に白い細かな刺繍が入った上下。そこに白い帯をしめ、ジャラジャラバッジみたいなものを肩に付け、かなり気合いの入った揃いの衣装を着こなした十人ほどの男達が、一様にこちらに剣を向けて私を取り囲む。
事態は悪化の一途を辿っていると理解して間違いない。
あまりに非現実的過ぎる出来事に、私は咄嗟に現実逃避をした。
夢だ。これは夢に違いない。
目を閉じてみる。
開けたらきっと、ベッドの中だ。
思い切って目を開けると、目の前の床になんと光る円陣が出現しており、金髪男がそこに向けて手を伸ばして何か呟いていた。
「えぇ、やだ、何コレ。やめてやめて」
これはもしや魔法陣とかいうやつか。
ゲームではこの中から魔物がわいて出てくるではないか。
目を閉じなければ良かったと激しく後悔する。
金髪男は私の背中を剣で押した。何をするのか、と狼狽しながら振り返る。男は様子から察するに、理解不能な言語で恐らく
『円陣の中に入らなきゃ背中に穴が空くぞ』
と言っていた。
仕方なく円陣の中に立つと、一瞬私の身体の中心が暖かくなり、何事もなかったかの様に円陣は消え去った。
呆然と立ちつくしていると、金髪男が口を開いた。
「これで私の言葉が分かるだろう。私の言語知識を今お前に与えたのだ。感謝しろ」
なんと、言葉がわかるではないか!
恩着せがましいことを言われた気がするが、感激のあまり、軽く受け流す。
「こ、ここはどこですか? あなた達は誰なんですか?」
私は日本語ではない言葉を話していた。
「王宮の地下で何をしている。その顔立ち、お前は南の民なのか?」
「私はニホン人です。南の民とやらではありません」
ザワザワと男達が騒ぐ。
バン、扉が開くと隣の部屋から先ほどのマント男三人組が、縄で縛られた状態で、剣を持った男達に引っばられてきた。
「逃げて行った者達を捕えました!」
「ぶ、無礼者!離せ!僕を誰だと思っている」
暴れるマント男を確認すると、金髪男は意外そうに片眉を上げ、呟いた。
「これはこれは。ケイン=ドーンズウィル殿。……王妃様の弟君がこんな地下倉庫で何をされていたのでしょう」
金髪男は続けて剣呑な瞳を私に向けると、言った。
「この娘は何者です」
「は、はあ、あ、…何のことですかな。ぼ、僕に聞かれましても、、」
マント男その1改め、ケインの返答はあまりに不自然だった。
「王宮内で非常に強い術が使われた気配がありましたので、我々はそれを辿ってこちらへ来たまでです。…先ほど空間を捻じ曲げる様な、尋常でない力を感知したのですが」
金髪男はゆっくりとケインに近づきながら続けた。ケインの口は水面でパクパク酸素を吸おうとしている観賞用の魚を思わせる動きを繰り返していた。つく嘘が思いつかず、困っているのだろう。
ケインは急に泣きそうな顔になるとこう言った。
「こんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、……夜勤が寂しくて、ちょっと出来心で恋人を術で連れて来ようとしただけなんだ」
「ではこの娘はケイン殿の恋人なのですか?」
「ち、違う!その娘は断じて僕の恋人ではないよ!」
こんな状況であれだが、そこまで不愉快そうに否定されると、傷つくではないか。
「……僕は空間の曲げ方に失敗した様だ。この娘は異空間から―――この地とは全く違う世界から間違えて連れて来てしまったんだ」
嘘を諦め、懸命に伝えようと身振り手振り交え、説明するケインを金髪男は目を細めて怪訝そうに見つめた。
「にわかには信じ難い話ですね」
ごもっともです。でも私も、もう夢だろうとは思えなくなってきた。こんなに寒いのに起きれないなんておかしい。
「そもそも移動術を人体に施すのは禁止されています。申し開きは国王陛下になさってください」