6・アンダンテ
乾いた鐘の音がする。
それは心地よい音色となって耳にこだまする。
色にたとえると瑠璃色。いや、灰色かもしれない。 白く光る灰色。
昼下がり。窓の外から覗くその世界は、暖かそうでやさしくて。
薄汚れた自分が入ることは、許されないような気がして。
また雑踏の中へと立ち去った。
「すみません、そこの方」
声をかけられたのが自分だということを認識した男は、座ったまま少しけだるそうに振り向いた。
声の主は女だった。黄緑色のワンピースに白のエプロン姿。
少し不安そうな顔で、ドアから顔をのぞかせている。
こわがらせては悪いと思ったのか、男は出来るだけ穏やかな声で返事をした。
すると大変言いにくそうに、エプロンの女は自分を指差しつつ小声でつぶやく。
「看板の前に腰をおろさないでください」
男は不思議そうに首をひねった。
自分が今こうして座っているのは一体どこなのだろうかと。なぜこの女は自分に声をかけているのだろうと。
そこでもう一度よくあたりを見渡してみると、自分は喫茶店の前に腰をおろしているのだということがようやく理解できた。
あたりは真っ暗で、目の前にある道路にも人はおろか車すら走っていない。点在する街灯は少なく、一番近くにある光はバチバチと音を立て、自分の寿命が少ない事を知らせていた。
こんなに寂しい通りに、喫茶店が?
一瞬疑問を抱きつつも、さて自分はなぜこんなところにいるのだろうかと考える。
「どうなされましたか?」
「えーと、僕は……」
なぜ自分がここにいるのか、まったくわからなかった。
それどころか、今までのことが何一つ思い出せない。頭を叩いてみても、腕組みして考えてみても、どうやら思い出せそうに無い。
記憶の扉にがっちりと鍵がかかっている。まるで締め出しを食らった気分だ。
自分の家は目の前にあるのに、どうやっても入れない。もどかしい気持ちが膨らむ。
「あの……まだ喫茶店は営業中ですか」
「ええ、大丈夫ですけど。それよりあなた、顔色が悪いようですが」
女が自分の顔を覗き込んできた。
その瞬間、記憶の扉の向こうから誰かが返事をしてくれたような感覚に見舞われる。
不確かだが、今なら何かわかるかもしれないという期待がこみあげてくる。
ためしに口を少し開いた。
だが、何も言葉は出てきてくれなかった。
「そこでは居心地が悪いでしょう。さぁお入りください」
店員が扉を開けた時、カラン、カランと鐘の音がした。
それは心地よい音色となって耳にこだまする。
色にたとえると瑠璃色。いや、灰色かもしれない。白く光る灰色。
途端に、頭の中を駆け抜けた沢山の映像。記憶の扉が、当たり前のように開いたのだ。
月が見えた。星が見えた。顔が見えた。猫の顔だ。灰色の猫──
「そうだ……猫だったんだ。僕は猫だったんだ」
「お客様? 何言ってるんですか」
目の前の店員に、見覚えがあるように思えてきた。
「あの、僕のことわかりませんか」
「いえ、今日初めてお会いするかと……」
「いつも窓の外から、あなたのことを見ていたんです」
猫の集会所。その晩はやけに静まり返っていた。
「今日のお話はここまで」
灰色の猫を輪になって取り囲んでいた猫たちから、うっとりするようなため息が漏れた。
「いつ聴いてもいいよなぁ、アンダンテ物語」
「話の続きはいつできるんですか」
「この後どうなるんですか、アンダンテの運命は!?」
「どこかの出版社に応募してみなよ」
「そうだよ、やってみたらどうだい。きっと小説家になれるよ」
周囲の盛り上がりをよそに、灰色の猫は困ったような顔をした。
「あのさ、皆忘れてると思うけど……僕達は猫だよ。出版とか、人間がやることじゃん。猫に文字はいらないでしょ」
だよなー。
しらけたように誰かが言うと、皆あっという間に立ち去ってしまった。