花火標本
人類は考えることを辞めてしまった。
それはとても愚かなことだと僕は思う。だけど僕だけがそう思ったって、時代の流れは変わらない。それも心得ている。
すべては祖父の発明がきっかけだった。
そして今の僕の生活があるのも祖父の発明という遺産のおかげであるから、なんとも複雑でもある。
今年も夏がきた。
僕は冷房の効いた豪華な部屋の中央で椅子に腰かけ、本を読みふける。いや、夏でなくても僕にはそれしかすることがない。書庫の本はあらかた読み尽くしてしまい、今はただ文字の羅列を再び追っているのみだった。
町ではうだる暑さに耐えながらも人々が働いていることだろう。
じりりり、とベルが鳴る。
「はい」
『エマーソンさん、<花火標本>の使用許可を求める青年が来ております』
「お通ししてください」
暫くして部屋にやって来たのは執事と、一目で見て労働者と判る粗末な身なりの、ひょろっと背の高い黒髪の青年だった。青年はにこにこしながら言った。
「はじめまして、私はトムと言います。<花火標本>を貸してください」
「貴方に莫大な使用料が払えるとは到底思えませんが」
「いえ、お金なら小さい頃からこつこつと貯めてきました」
トムと名乗った青年は袋に詰まった金貨を見せてきた。それでも足りると確信することはできなかった。
「これでは足りません。出直してきてください」
「いいえ、私は今夜<花火標本>を借りたいのです」
「トムさん。僕が何故、祖父の発明のなかでも<花火標本>だけは使用を制限しているかご存じですか」
「さあ」
「美しくないからですよ。ではさようなら」
僕の言葉に反応して執事がトムを部屋から追い出す。
「待ってくださいエマーソンさん、話を聞いてください」
扉が閉まる瞬間、トムの叫び声が聞こえた。
「お嬢さま、よいのですか」
「なにが」
僕は執事を睨みつける。
「あの者、実は1ヶ月も前から屋敷の門の前でお嬢さまに面会を求めていたのです」
「だったら何だっていうんだい」
わざとらしく溜息をついてみせると、恭しく一礼をして、執事もまた退室した。
<花火標本>は祖父の発明のなかで僕が最も忌み嫌うものだ。
幼い頃異国で見た打ち上げ花火は、それはそれは美しい芸術の光だった。祖父はあろうことかそれを科学の力で閉じ込めて、望む時間だけ空に輝きを貼りつけることに成功した。
人々は本物の花火よりも、消えないからという理由だけで<花火標本>に夢中になった。夏になると各地でデートのオプションとして<花火標本>が選択されて、夜空に消えない花火が無数に現れた。滑稽だった。今思い出しても吐き気がするほど、滑稽だった。
だから僕は祖父の唯一の遺族として、<花火標本>を人々から取り上げたのだ。
「……くだらない」
読みかけの本を閉じる。
これであの青年が町で吹聴すれば、また「エマーソン博士の孫娘は意地が悪い」と言われるようになるだろう。でも、物事について深く考えるようなことをしない奴らに何を思われたって、どうでもいい。
夜になった。
こん、と何かがガラス窓に当たる音がした。鳥だろうか。窓を開けて確認する。
「エマーソンさん!」
声がした。目の前の大木の太い枝に、トムが座っていた。反射的に窓を閉めようとすると、青年は慌てて叫んだ。
「あ、ちょっと!」
「……何の用ですか」
不快感を露わにしたまま問う。しかしトムは僕の気持ちを推し量ることなく答えた。
「僕、祖父母が日本の出なのです。それで幼い頃から本物の花火がいかに美しいかを聞かされて育ってきて、どうしても花火を見てみたかったんです。<花火標本>でいいから、夜空に光が散る様は、どんなに美しいのかと思って」
「美しくなんかありません」
「え?」
「本物の花火に比べれば、<花火標本>は失敗作です」
「どうしてそんなことが言えるんですか」
「見たからです。両方とも」
トムが目を丸くする。
「本当ですか!」
「はい。だから、<花火標本>はお貸ししません」
これで諦めるだろう、と思ったら。予想外にも、トムは熱を帯びたまま話を続けてきた。
「もしよろしければ、本物の花火の話を聞かせてもらえませんか!?」
「は?」
「色んなひとから花火について聞きたいんです。お願いします!」
――なんなんだ、このトムとかいう男? 僕のなかには、いつしか不快感と同時に好奇心も生まれてきていた。
「でしたら、とっておきの映像をお見せしましょう」
僕は部屋にスクリーンを呼び出す。
祖父の研究資料のなかで眠っていたのを発見した過去の映像は、僕のお気に入りだ。
「これは誰にも見せたことがありません」
部屋の壁一面、音と共に本物の花火が映し出される。ぱ……ん、どぉぉぉぉん。一瞬だけ、この世に存在しているとは思えないほどの激しい輝きを残し、そして――跡形もなく消える。
なんて潔い。だからこそ美しい。ぱっと光って夜空に留まる<花火標本>とは違う。
トムは呆然と、真っ黒のスクリーンを見つめていた。
そして小さな声で呟いた。
「一瞬だから、綺麗なんですね」
今度は僕が目を丸くする番だった。
この青年は、自分と同じことを思ってくれた。今までこれを見せた誰ひとりとして、「やっぱり<花火標本>の方がいい」としか言わなかったのに。
「……よかったら、また見に来てください。君なら歓迎します」
「本当ですか! ありがとうございます――うわぁっ」
トムが勢いよく頭を下げ、そしてバランスを崩してどさりと地面に落ちた。僕は慌てて窓の下を覗き込む。幸いなことに、植木の中央に落ちて即死は免れていた。
「大丈夫ですかー?」
「はい、どこも痛くありませんー! では今夜はこれで帰ります。おやすみなさいー!」
執事以外に「おやすみ」と言われるのは初めてだった。
僕は何だか嬉しくなって、叫び返す。
「おやすみなさいー!」