「ただのゴミ塗り」と追放された古文書修復師、翌日国宝を粉々にされた王国から「戻ってきてくれ」と泣きつかれる
『パキッ……』
静まり返った大聖堂に、乾いた亀裂の音が響いた。
壇上の展示ケースの中で、300年の歴史を持つ国宝《初代国王の誓約書》の表面に、一筋の裂け目が走る。
――私は今、その光景を、二階のテラス席から見下ろしている。
三日前まで、私はあの羊皮紙を毎日欠かさず手入れしていた修復技師だった。今は、ただの傍観者だ。
なぜこんなことになったのか。答えは簡単だ。
私は、昨日、クビになったのだから。
※
王国の中央歴史館、最奥の第三執務室。
私――リネット・ヴァールは、代々「古文献の保存と修復」を家業とする職人の家に生まれた。派手な攻撃魔法も剣技も使えない。けれど幼い頃から、紙や羊皮紙の性質、インクの酸化、保存魔法陣のわずかな乱れを見抜くことに時間を費やしてきた。
3年前、前歴史館長の老伯爵に請われてこの編纂室に入り、以来毎日、地下の保管庫にこもって古文書を守り続けてきた。中でも一番気を遣っていたのが、明日、貴族と隣国の使節団の前で開帳される国宝――《初代国王の誓約書》だ。
300年前、初代国王が魔王との平定条約を結んだ際に記されたというこの羊皮紙は、乾ききってガラスのように脆くなっていた。少しの衝撃や急な湿度変化、生の魔法力を浴びただけで、粉々に砕けかねない状態だった。
私が毎日していたのは、薬草から抽出した特殊な油と、わずかな魔力を帯びた保護塗料を、ごく薄く羊皮紙に染み込ませる作業だ。生きた化石に人工呼吸をさせ続けるような、繊細な仕事だった。
しかし先月、前館長が病で退任し、後任としてやってきたのが、公爵家の三男マルクスだった。
「おい、リネット! これが読めないのか」
卓に叩きつけられた解雇通知書。マルクスの後ろでは、愛人のシルヴィアが扇子で口元を隠しながら笑っている。
「室長……私は明日の開帳式に向けて、誓約書の最終メンテナンスを行っている最中です。今、手を離せば――」
「黙れ、ネズミめ。薄暗い部屋で羊皮紙に液体を塗り、針でつついているだけの女が、偉そうにするな」
彼はガラス瓶を蹴飛ばした。床に散らばったのは、私が3ヶ月かけて精製した調合油だ。
「今日からこの部屋はシルヴィアのサロンだ。荷物をまとめて出ていけ」
私は静かに二人を見つめた。怒りより先に、呆れが来た。
(……本気で言っているの? あの誓約書が今どういう状態にあるか、本当に分かっていないの……?)
「……一つだけ確認させてください。明日、展示ケースを開けて、実際に羊皮紙を広げるおつもりですか」
「当たり前だ。シルヴィアがあの誓約書を掲げて見せる。我が公爵家の権威を示す機会だ」
「たかが紙一枚広げるのに、何を大げさな。破れたら糊で貼れば済む話だ」
マルクスは鼻で笑った。
――紙だから、破れたら糊で貼れば済む。
この人は何も分かっていない。あの誓約書が、今どれほど危うい均衡の上で「形」を保っているのかを。
「……分かりました。解雇、謹んでお受けいたします」
これ以上何を言っても無駄だ。言葉で分からない人間に、職人の技術の重みは伝わらない。私は私物だけを鞄に詰め、歴史館を後にした。
※
マルクスの嫌がらせは、解雇だけでは終わらなかった。
翌朝、街のカフェで身なりを整えていると、不穏な噂が飛び交っていた。
「中央歴史館の修復員だった女、予算を着服していたらしいぞ」
「国宝の保管庫に泥を持ち込んで汚していたって話だ。ギルドからも追放処分が決まったそうだ」
自腹で買っていた修復用の原材料を「着服」と偽り、特殊な保存剤を「泥」と決めつけ、ギルドに悪評を流したのだ。
街のギルド掲示板には、私の顔写真とともに「歴史的遺物を損壊・横領した不誠実な職人」として除名された告知が貼り出されていた。
「うわ、近づかないでおこう。国宝に不潔な手を触れていたなんて」
昨日まで「リネットさん、いつもありがとう」と声をかけてくれていた人たちまで、私を汚いものでも見るような目で見てくる。
職人にとって、ギルドからの除名は社会的な死を意味する。
私はただ、黙々と歴史を守ろうとしていただけなのに。指先が薬品で荒れ、夜遅くまで目と腰を痛めながら、文化財を未来へ残そうとしていただけなのに。
権力を持つ者のひとことで、私の3年間の努力も、職人としての誇りも、すべて踏みにじられた。
雨の降る軒下で、私は自分の手を握りしめた。寒さと悔しさで体が震える。
「……ひどい……どうして、そこまで……」
その時、大通りから賑やかなファンファーレが響いた。
『まもなく、中央大聖堂にて、我が王国の至宝――《初代国王の誓約書》の開帳式が挙行されます』
私は濡れた服の裾を拭い、静かに大聖堂の方角を見つめた。
(……マルクス室長。あなたは私を「ただのゴミを塗る女」と言いましたね)
職人として、何度も注意した。危険だと伝えた。それを「たかが紙」と嘲笑い、忠告を切り捨て、私からすべてを奪ったのは彼らだ。
「……もう、私には関係ありません」
私は呟き、鞄を抱え直した。
※
大聖堂へ向かう人波とは逆方向に歩き出した私に、不意に声がかかった。
「やあ、探したよ、リネット君」
振り向くと、深い藍色の外套を纏い、片眼鏡を光らせた老紳士が立っていた。
「……クリストフ様!?」
隣国・レオンハルト帝国の「帝国立中央図書館」総裁であり、文献修復技師の頂点に立つ《黄金の筆》の異名を持つマスター・クリストフだった。
「ひどい顔をしているね。前館長のフレデリック伯爵から、君が受けていた不当な扱いは報告を受けている。あの若い室長が君の仕事を『ゴミ塗り』と呼んでいたこともね」
馬車に招き入れられ、温かい茶を一口飲む。少しだけ気持ちがほぐれた。
「『アルヴの涙』――失われた古代の修復調合法を再現できるのは、今や大陸中で君一人だ。君がこの3年間してきた仕事は、芸術と言っていい」
クリストフ様は帝国皇室の紋章が入った封筒を取り出した。
「我が国が保有する古代大図書館の総責任者――『最高特命修復監』として、君を迎えたい。給与は今の十倍。専用の調合ラボと研究予算を保証する」
私を評価し、必要としてくれる人がここにいる。息が詰まるほどの安堵と、それでも消えない不安があった。
「……ですが、今日の開帳式は。マルクス室長たちは、何の準備もなしに展示ケースを開けて、手で広げようとしています」
「君は、去り際にケースの維持魔力を切ったのかい」
「いいえ。解雇された時点までの定期メンテナンスは終えて立ち去りました。……ですが、それが限界なんです。『アルヴの涙』は毎日補充しなければ24時間で効果が切れ、急激に乾燥が進みます。展示ケースの結界は定温定湿でこそ機能する。大聖堂のような場所で開け、揮発性アルコールを含んだ空気が触れれば……」
「シルヴィア嬢は強い香水を纏っていたね」
クリストフ様は目を見開き、その後、低く笑った。
「なるほど。『アルヴの涙』はアルコールと反応すると結合が分解される。もし彼女がそのまま誓約書に触れれば――」
「言わなくていいよ、リネット君。自分の無知と傲慢で至宝を壊す。これ以上の自業自得はない。さあ、高みの見物といこう。特別観覧席は、もう手配してある」
※
中央大聖堂の一階は、国王陛下をはじめ王国の高位貴族、諸外国からの使節団で埋め尽くされていた。壇上には胸を張るマルクスと、派手なドレスを着たシルヴィアが立っている。
「前館長の時代には、無能な平民技師が意味のない『修復作業』とやらで予算を貪っておりました。私が室長に就任するや、そのような雑用係を即刻排除いたしました」
拍手が湧くが、歴史に詳しい老貴族たちは不審げな顔をしていた。
「さあ、シルヴィア。その手で誓約書を広げて見せよ」
シルヴィアは香水の匂いを漂わせながら、展示ケースへ歩み寄った。私はテラス席から、その様子を見ていた。
(……あと数秒で、ケース内の結界が完全に途切れる)
鍵が外され、蓋が開く。大聖堂内の暖かく湿った空気が、一気にケース内へ流れ込んだ。
『パキッ……』
小さな、しかし明確なひび割れの音。羊皮紙の表面に、一筋の亀裂が走った。
「な、なんだ今の音は……!?」
「し、シルヴィア。早く羊皮紙を出して広げろ」
「ちょっと待ちなさい」
諸外国の使節団から声が上がったが、遅かった。シルヴィアは両手で羊皮紙の両端を掴み、持ち上げた。
まだこの時点では、亀裂は一本だけだった。誰もが「ひびが入った程度だ」と思っていたはずだ。マルクスの顔にも、まだ余裕があった。
――だが、それで済むはずがなかった。
『パラパラパラ……ッ』
乾いた落ち葉が崩れるような音。シルヴィアが手にした瞬間、300年の国宝は、指の触れた両端を残して砂の城のように崩れ、壇上に粉々に崩れ落ちた。
「あ……あ……あ……」
壇上には、灰のような薄茶色の粉末の山が残された。大聖堂内が静まり返る。
「な……何が起きたのだ……!?」
国王陛下が立ち上がり、怒りに震える声で叫んだ。
「マルクス! シルヴィア! 国宝はどうなった」
マルクスは顔面蒼白になり、冷や汗を流しながら叫び返した。
「そ、そうだ。これは呪いです。あの追放した女――リネットです。あの女が解雇された腹いせに、誓約書に毒を塗って壊したに違いありません。警備兵、リネットを捕らえろ」
自分たちの無知を棚に上げ、すべてを私のせいにして逃れようとするマルクス。
その時――。
「見苦しいぞ、マルクス公爵令息」
凛とした声が大聖堂に響いた。二階のテラス席から、クリストフ様がゆっくりと降りてくる。その隣には、フードを外した私の姿があった。
「ま、マスター・クリストフ!? なぜあなたが……」
「国王陛下。今起きたことは、リネット君の仕業などではありません。そこの二人が、リネット君の施していた保存処理を全否定し、壊した結果です」
「なんだと……!?」
「《初代国王の誓約書》は、通常の羊皮紙としての寿命を数十年前に終えておりました。それを、このリネット君が知識と技術、そして『アルヴの涙』という古代の修復塗料を毎日塗ることで、かろうじて形を保たせていたのです」
「な……アルヴの涙だと!?」
歴史に詳しい老貴族たちがざわめいた。
「それは失われたとされる伝説の保護樹脂ではないか。それを彼女一人で調合し、毎日塗り続けていたというのか」
「その通りです。しかし、そこの新室長は、その繊細な修復作業を『ただのゴミ塗り』『無駄飯食いの雑用』と決めつけ、昨日、彼女を一方的に解雇した。さらに『アルヴの涙』はアルコールに非常に弱い。強い香水を浴びた令嬢が、保護手袋もつけずに触れれば、保護膜が分解され、乾燥によって砕け散る――それは修復界の常識です」
「な……なに……!?」
マルクスとシルヴィアの顔から血の気が引いた。
「つまり、国宝を壊したのは、リネット君のいたずらなどではなく、そこの二人の致命的な無知と増長による人災なのです」
※
「そ、そんな……嘘だ。こいつがそんな凄腕の技師だなんて聞いていない」
マルクスが地べたに這いつくばりながら叫ぶ。
「知らなかったで済むわけがなかろう」
国王陛下の一喝が大聖堂を揺らした。
「我が国300年の歴史の象徴を、貴様たちのくだらん虚栄心と無知で永遠に失わせたというのか。しかも、その国宝を唯一支えていた技師を、横領の濡れ衣を着せてギルドから追い出し、街で悪評を撒き散らしたというのか」
「あ、兄上……いや陛下。助けてください。私はただ、シルヴィアがサロンを作りたいと言うから……」
「責任を私になすりつけないでよ、マルクス様。あなたが『あんなゴミ塗り女、簡単に追い出せる』って言ったんじゃない。私は被害者よ」
「黙れ。貴様が香水などつけてくるから粉々になったんだろう」
「なんですって。あなたの加齢臭を消すために香水をつけろって言ったのはあなたでしょう」
責任のなすりつけ合いを始める二人。かつて私を「雑用係」「ゴミ塗り女」と見下していた姿は、今や見苦しいだけだった。
「見損なったぞ、公爵家……」「無能を室長に据えた挙げ句、国の至宝を壊すとは……」
使節団の冷ややかな言葉に、国王陛下は青ざめた。
「近衛兵。マルクス・ヴァン・公爵令息、並びにシルヴィア・ライラック令嬢を直ちに捕らえよ。罪状は『国家反逆罪に準ずる国宝損壊』および『職権乱用による冤罪の捏造』だ。地下牢へ入れよ」
「嫌だ! 助けてくれ、父上ぇぇ!」
「嫌よ! 私のドレスが汚れるわ!」
暴れる二人は鎖で縛られ、近衛兵たちに引きずられていった。二人が通った跡には、悲鳴の余韻と、シルヴィアの靴だけが残された。
※
静まり返った大聖堂で、国王陛下は粉末の山の前に歩み寄り、肩を落とした。
「……歴史が、途絶えてしまった……」
私は静かに壇上へ歩みを進めた。
「陛下。悲しまないでください。私が毎日塗っていた『アルヴの涙』には、もう一つ性質があります。……崩壊した羊皮紙の繊維とインクの微粒子を、磁石のように吸着・再結合させるという性質です」
「な……なに?」
「私が3年間、欠かさず塗り重ねていたのは、万が一紙が崩壊した際にも、その成分が空気中に飛散せず、床の上に留まるようにするための『保険』だったのです」
私は特殊な魔力集塵刷毛を取り出し、壇上の粉末を優しくなぞった。粉末は吸い寄せられるように刷毛に集まり、用意した半透明の羊皮紙の上へと吸着していく。指先から微小な温熱魔力を流し込むと、粉末たちが互いに結合し、文字の形、インクの濃淡、初代国王の親筆印章の形をそのまま再現しながら、一枚のシートとして再構成されていった。
「お……おお……!」「文字が戻っていく」
会場から、どよめきと感嘆の声が上がった。わずか数分の作業で、粉々だった誓約書は、以前よりも鮮明で丈夫な状態になって戻ってきた。
「これが、君が『ただのゴミ』と言われながら毎日積み重ねていた技術なのか……」
国王陛下の目から涙がこぼれ落ちた。
「完璧です。これで、あと100年は外気に触れても崩れることはありません」
「リネット殿。頼む、我が国に残ってくれ。今日から『宮廷特級文献保護卿』に任命する。予算も地位も、望むものをすべて与えよう」
「申し訳ございません、陛下」
私は首を横に振った。
「私の技術を『ただのゴミ塗り』と蔑み、実績ではなく家柄だけで人を評価するような環境では、誠実な仕事はできません。……それに、私は既に、私を正しく評価してくださる方と契約を結びました」
私は隣に立つクリストフ様を見つめた。
「そういうことです、国王陛下。リネット君は本日より、我がレオンハルト帝国の『最高特命修復監』です。引き抜きではありませんよ。貴国が彼女をゴミとして捨てたのを、私どもが拾っただけですから」
国王陛下は膝をつき、自分の不徳を呪うように頭を抱えた。
※
それから、一ヶ月が経った。
レオンハルト帝国の首都にある、陽光の差し込む大図書館。私は広々とした研究室で、白衣を纏い、新しい古代文書の修復作業に当たっていた。
「リネット様、新しい調合用のハーブが届きましたよ」
「ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」
ここには、私の技術を尊敬してくれる若い弟子たちと、どんな材料でも惜しみなく提供してくれる環境がある。毎日が充実していて、修復の手を動かすたびに、歴史の続きを感じることができる。
先日、帝国に届いた噂によると――。
公爵家は国家への賠償金のために爵位を落とされ、マルクスは鉱山での終身労働に送られたという。あの手が泥と岩でボロボロになるまで、一生炭鉱を掘り続けることになるだろう。
シルヴィアもまた、王室への不敬罪と国宝損壊の共犯として平民に落とされ、毎日重労働の洗濯作業員として働かされているそうだ。強い洗剤で肌は荒れ、嫌っていた泡の匂いに包まれる日々を送っているらしい。
私を失った王国の中央歴史館は、惨状を極めているという。私が施していた湿度調整結界とカビ防止塗料の効果が次々と切れ、保管されていた数千冊の古文書が一斉にカビと虫食いに侵され始めたそうだ。
慌てた王国は、高額な報酬を提示して私に「戻ってきてほしい」と何度も手紙を送ってきたが、クリストフ様がすべて受取拒否で送り返してくれている。
「一度捨てた宝物の価値に、失ってから気づいても遅いのだよ」
クリストフ様はそう言って、いつも楽しそうに笑っている。
「ふう……今日の作業はここまでね」
修復が終わった一冊の絵本を、私はそっと撫でた。300年前の子供が読んでいたとされる、色鮮やかなイラストが蘇った絵本だ。
私の手は、華やかな魔法を生み出す手ではない。地味で、地道な時間を重ねる手だ。
けれど、この手がある限り。
大切な歴史も、誰かの想いも、途絶えることはない。
窓から差し込む光を受けながら、私は新しい修復筆を手に取り、静かな笑みを浮かべた。
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