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王都エクランの秋も、一番の深まりを見せている。この時期は一年を通し、クローマチェスト人がもっとも好む過ごしやすい季節であった。
空気も爽やかで空もからりと晴れ上がり、そんな日は景色もずっと遠くまで見渡せる。遙か彼方の山々まで薄青の輪郭をもって空の上に波打ち、小国といえど、人ひとりには果てなく感じられる。
市場にも多くの実りが並び、店ごとに丸く肥えた果物や野菜がうずたかく積まれ、暖かみのある色の布や織物が出回っている。人々は季節の恩恵にあずかり、目前に迫った冬に備えるべく、こぞって街に繰り出していた。
その人の間を、一陣の風が駆け抜ける。小石が跳ね、歩道の石畳に落ち始めていた街路樹の葉が、くしゃりと形を変える。
人々は気付かない。たまに動物に威嚇されることがあったが、その他には誰も何も気にしない。
風は、都市部と旧市街地の中ほどにあるうらぶれた雰囲気の酒場の前で止まる。スイングドア越しに中を覗けば、客はいなかったが、奥のカウンターでマスターがグラスを磨いたり料理人が下ごしらえをしているのが見えた。
実は昼日中から酒を飲むような人間は、この酒場を選ばない。建物こそ古く寂れているが、オーナーは没落貴族の元紳士であり非常にマナーにうるさく、騒ぎを起こすような客を端から出入り禁止にしてしまったからだ。
その結果、安全に酒と論議が嗜める酒場だと噂になり、今では分野や身分、性別を問わず、知識人たちが集まる社交場となっている。平民になり商売として始めた酒場ではあったが、オーナーは今の方が面白い人生を送れていると豪語する強者でもあった。
カウンターの横には二階へ続く階段があり、風はマスターの目を盗むとスイングドアの下をくぐり、ホールを抜けると、素早く階段を駆け上った。
二階の入り口の黒ずんだ木の扉には、チョークで「UTSS」と殴り書きされている。
・◆・◆・◆・
王都に戻ったアーノルドは、新しい眼鏡も得て、仕事に没頭する日常の生活に戻り始めていた。
しかし、一度得てしまった感覚はなかなか日常生活には紛れない。今までの生活には異質であったからこそ、逆に意識してあの北の地に佇む城と、そこで出逢った人々のことを思い出してしまう。
そして今は、アリーチェというつながりもある。母や弟妹はもちろんだが、父すらもう縁を薄れさせつつある妹が存在する彼の地を想うのに、自宅ではふさわしくない気がして、ことあるごとにこの石造りの古びた酒場に訪れていた。
――Club・UTSS。
今現在アーノルドが会計を担い、おもには新聞や学術的にマニアックな小冊子の編集出版を行う、秘密裏の知識人クラブである。
イラーリア家が携わる監査の最中であるというのに、呑気にスクラップ帳を持ち出してきた若き女主人。アーノルドはここを訪れるたびにそれを思い出し、紙の束に埋もれるようにして、城の執事から預かった手紙をもう何度も何度も、何度も読み返していた。
知らず知らず、息が漏れる。
「うるさい」
すると室内一番の幅と高さを持つ紙と本が乗ったテーブルの向こうから、クラブの室長が不愉快そうな声だけを投げつけてきた。
「失敬な、私は何も話していませんよ」
「違う、気配がうるさいんだ。うっとうしい。しばらく姿を見せないと思ったら、今度は入り浸ってなんなんだ。財務省はそんなに暇なのかね」
「暇というならあなたの方では。王宮魔術師の肩書きが泣きそうなほど、こちらに入り浸りでしょう」
「失敬なのは君の方だよ、アーノルド君。ただでさえこの時期は燃料用花蜜の精製に駆り出されているというのに、私は自分の職務はさっさと終えた上で、自らの知見を広め深めるための読書をし、さらに世に広めるための書き物を終え、ここに来ているんだ。暇ではない」
「ああ、奇遇なことに私もまったく同じです。それより、私がいない間に溜め込まれたこの証書や伝票の山は何です。日付順かつ品目別に分けて置いておくよう申し伝えておいたはずですが」
「それは君の仕事を取っておいてあげたのだよ。君が女性よりも愛してやまない紙切れだからね」
「あなたも、女性よりも愛してやまない本と紙に随分と経費を使ってくれたようですね」
「君と一緒にしないでくれたまえよ、人聞きの悪い。それに、それは必要経費というものだ。どうせ君も読むのだから問題ないだろう」
反論はできない。結局は同じ穴の狢だ。アーノルドが自嘲気味に笑んだところで、扉が勢いよく開かれた。
「おーっす! ――おおっ、アーノルド!? 久しぶりだな! なんか仕事で、すごい遠くの城に行ってたって?」
「ああ――」
耳の奥まで突き抜けそうな、大きな声。ソルオータの花のように明るく、人懐っこい笑顔。贅沢に布地を余らせたキャンディスリーブのシャツに刺繍が施されたベストと前開きのブリオーを重ね、肩から腰から足までベルトを巻きつけて、いくつもの鞄や物入れを提げている。
何より特徴的なのは、様々な布地の端切れを滝のように縫い合わせた、派手なロングタッセルが下がる三角帽子だ。年齢はアーノルドと同じだが、王都には珍しい日焼けした浅黒い肌と、がっちりと筋肉のついた体が、二人の生活の違いを表している。
「――久しぶりだな、ワーグテール」
見た目だけならば海賊を想起させる精悍な青年。彼は、長い年月を経て各地に貿易網を広げ、ある意味どの貴族たちよりも巨大な版図を持つ渡り鳥商会の――その一族と集団を率いる宗家の、長男坊であった。
「君も家業で王都から離れていたんだろう」
「そうなんだよ、今回は船旅が多くてな。俺、船に乗ると酔っちまうからものすごく大変だったんだよ……。かみさんと坊主たちは平気なんだけどなあ。あ、思い出すだけでも……ちょっと待って」
「吐くならよそへ行きたまえ」
長い手足を折りたたんで床にうずくまるワーグテールにアーノルドが嫌そうに告げれば、ワーグテールは飛び跳ねんばかりに勢いよく起き上がる。
「そういうこと言ってっと、アーノルドには土産やんねーぞ! つっても、みんなで食えるようにと思って箱ごと買ってきた干菓子だけどな。まあお前いるならちょうどよかったわ――そうそう、室長にもなんか珍しそうなからくりと、頼まれてたものも手に入ったぞ!」
「……その対応の差はなんなんだ。君は、私には菓子だけ与えておけばいいと思っているだろう」
「違うのか? いらないなら俺が食う」
「いらないとは言っていない」
肩から提げられた鞄から取り出される菓子箱を受け取りながら、アーノルドは続ける。
「そういえば――私も出張先で珍しい果物を食したぞ」
「へー、城のお貴族様が庭に温室でも作ってたか?」
「いや、ずいぶん昔に庭師が取り寄せて植えたものらしい。コクワの実とかいったか。庭の方も、門外漢の私から見ても美しさが伝わってくる庭だったからな。優秀な庭師だったのだろう。というより――メイドの一人に至るまで、使用人たちの実務能力が高かった」
「コクワってーと、極東の扶桑国だな。そりゃたしかに珍しい、エスタシオン家も潰れちまったし、下手すりゃクローマチェスト中を探してもそこしか植わってねーんじゃねえか。しかしお前がそこまで言うってことは、相当ちゃんとしたとこだったんだな――もしかしたら、ウチとも取引あるかなあ」
「帳簿にあったぞ。あとお前に負けず劣らず、巨大な緑の羽根か何か、房のようなものを頭から生やして歩いている恰幅のいい男を見た」
「あー! それでどこかわかったわ。ていうかこの帽子のフサフサも、ずっと昔にそのオッサンの提案から生まれたものだしな。目立ちたがり屋の親父が負けてたまるかってんで、即決で採用した」
「そうだったのか。それでお前の家はなぜ、その散らかった工房のようなタッセルになったんだ」
「これは自分が実際に行った国や都市で手に入れた布だよ。素材も色も模様も、その地域ごとに風土や文化があって根付いてきたものだからな。でも栄枯盛衰っていうんかなあ……俺や親父のフサフサには、今はもうなくなっちまった国や都市のものもある」
「……そうか」
ワーグテールはタッセルをつかんでもさもさと揺らす。言われてみれば、たしかに見慣れない紋様や文字のようなものが描かれているものがある。今まで気にしたこともなかった。
早々に菓子を取り出したアーノルドは、促されるままにワーグテールに一つ、本の山の向こうに一つ投げる。薄紙をめくれば、刻まれたドライフルーツが白い粉か何かで四角く固められていた。彩りは悪くない。口に含めば、濃厚な甘みとスパイスの刺激が組み合わさった、不思議な味が広がる。ティーパーティーで振る舞われた、花の茶の風味に似ているかもしれない。
「しかし……そう考えると、やはり歴史というのは、いろいろな場所でいろいろな人間たちのいとなみが重なって形作られているものなのだな。私は今まで歴史というものは一方的に上から下へ流れる大河のようなものだと思っていたが、本当は、個々人を起点にして膨張していく、渦のようなものなのだと感じた。その広がり具合と、中心にいる人間がどちらを向くかで、交わりも見え方も変わっていく――不思議な感覚だ」
「ほう。平面上の数字にしか興味がなかった君の口から、そんな台詞が出てくるとは。なかなか真理をついているぞ」
「たしかに……なんかお前、雰囲気変わったか? 昔のお前なら、素直に他人を褒めることもなかったし。えっらい皮肉屋で、ひねくれてたもんな!」
「君たちは今まで私をなんだと思っていたんだ」
眉間にしわを寄せながら、アーノルドは二つ目の包みを開き口に入れる。
(これは、アリーチェなら一晩で平らげてしまうだろうな)
しかし他人から見てもわかるくらい、そんなに何かが変わったのだろうか――と頭の中で自問自答し、再び手紙に目を落とす。
「ていうかこの菓子あっま! いや保存性優先で買ってきたから甘いだろうなとは思ったけど、なんでお前は普通に食べてんだよ! ちょ、下で水か甘くない茶、もらってくる」
「私も頼む。だいたい彼は、紅茶に蜜砂糖をぶち込む程度には味覚のおかしい人間だからな」
「ちゃんとスパイスやドライフルーツの風味も感じられるだろう。むしろ繊細な舌を持っていると自負している」
「自己の認識というものは、たいてい他人からのものと大幅なズレがあるものだよ。――それで帰ってきてからというもの、君がうっとうしく思い悩むほどに君の人生観を変えたその城は、何という名の城なのかね」
「それは――」
部屋を出かかったワーグテールが声を上げる。
「トルテュフォレだろ!」
「トルテュフォレだと?」
そのワーグテールの一声の直後、室長の怪訝そうな声が割り込んだ。
「たしかにそうだが、私より先に言うな」
「北の隅っこまで行ってきたんだなー、お前。たしかそこのちっこいお姫様がでっかい緑の羽根のドレスを作ろうと思って、あっちの支部会長にねだってたんだと。その約束を忘れないよう羽根飾りを付けてるうちに、どんどんでかくなってったらしいぞ」
「あそこには姫など――いや待て、見ようによってはいたかもしれない」
「なんだそりゃ」
言いかけて、新しいものを見つけたときのぱっと明るんだ声や、わくわくしたような声が頭に浮かぶ。幼い頃の彼女なら、そんな阿呆らしい発想もしていたかもしれない。
どかどかとワーグテールが階段を下っていく音がして、それが消えるとアーノルドは三つ目を飲み込み、本と紙の山に話しかける。
「それはともかく、室長――まさかあなたも、その城を知っていたのですか」
だがしかし、
「――はい。そのお城でしたら、僕も存じ上げていますよ」
「!」
答えはまったく別の方向から、別の声でもたらされた。
驚いたアーノルドが思わず立ち上がって振り返ると、背景の一部がめくれるように割れ、そこから伸びた手が菓子をつまみ上げる。その手が流れのまま背景をつかみ脱ぎ捨てると、実物の背景はそのままに、一人の少年が姿を現した。
「お帰りなさい、アーノルドさん」
「……ッ!」
少年は端整な顔立ちに優美な笑みを浮かべ、秋の夕陽のような、深い緋色の瞳でアーノルドを見上げる。
アーノルドは取り乱しながらも慌てて少年が脱ぎ捨てたロングマントを拾い、眼鏡を直すと、少年に向き直って声を上げた。
「また城を抜け出していらしたのですね――アレスティア殿下!」




