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深夜の廊下は暗く、人の息の混ざらない冷たい空気がすでに満ちていた。アーチ型の天井からところどころ下がるトーチライトだけが、温かみのある色で石壁を照らしている。
石造りの建物は、気温が上がる夏の日中はいいが、日没後は冷え込んでしまう。夫婦喧嘩の夜ともなればなおさらで、そこここに布物が垂れ下がっているのは見映えや見栄もあるが、それ以上に防寒のためであった。
この暗闇と寒々しさのせいで、子供の頃は夜にお手洗いに行くことがたいそう苦痛だった。加えて精巧すぎる壁や柱の彫刻、絵画、不可解な模様がのたくる壁掛け絨毯なども幼心には恐ろしく、「悪さをすると、夜に怖い精霊に連れて行かれるよ」と大人たちがまことしやかに語るおとぎ話も、あの頃の自分には真実だった。
――その恐怖が、愛しさに変わったのはいつ頃からだろう。
緻密に彫られた精霊たちはいつも愛嬌たっぷりに柱の上からこちらを見下ろし、偉人や神話の住人も、額という変わらぬ時の中で今なお息づいている。歴代の女性使用人たちが織り上げ刺繍を施してきた布たちも、いずれそこに自分の創ったものが並ぶと思えば、同志の偉大さや頼もしささえ感じられる。
その時代時代を生きた多くの人間が心を尽くして作り上げ、連綿と守ってきた歴史の中に、今自分は生きている。
この――〝トルテュフォレ〟と呼ばれる古く歴史ある小城が、エレノアの住まいだった。
その城勤めの使用人たちが住む居住棟の一階は、使用人専用の厨房と食堂になっている。朝晩は皆そろって食事を摂り各々の仕事に向かい、あるいは寝支度に取り掛かる。
食堂の角の壁には石積みの囲炉裏があり、その前の小さな空間が、談話室と呼ばれる場所だった。何代か前のメイドたちが古くなった絨毯やテーブルを持ち込んだのが始まりらしいが、それが代々引き継がれ、定着していったのだ。
囲炉裏には石窯のようにドームが取り付けられており、そこから伸びる鎖に鍋やポットを引っ掛ければ簡単に湯が沸かせる。またドームの縁に沿って細い飾り棚が取り付けられていたため、今では駄菓子やドライフルーツ、茶葉の詰まった瓶がぎゅっと並べられ、メイドたちのお茶会の場となっていた。
――が、それだけで済んでいればまだよかった。
年々、壁に花輪や乾燥ハーブ、パッチワークキルトやマクラメのガーランドが増えていき、オープンシェルフにはティーセットや可愛らしい陶器の置き物、ぬいぐるみや観葉植物などが好き勝手に詰め込まれ――最後に、淑女向けと謳われた濃密な恋愛小説や風俗雑誌が並んだ頃、執事長のヘンドリックが雷を落とした。
すべてを撤去する案も出たが、そこで仕事に支障がなく息抜きになるのならと、エレノアがある程度は許可したのだった。
もちろん後には、エレノアが怒られた。主に品位というものについての話だったが、しかしほんの少し、
(ちょっとだけ……)
興味があったのだから、仕方ない。
・◆・◆・◆・
自身の居室がある三階から一階へ降りると、空気がほんのり変わっているのが肌で感じられた。甘い蜜酒の香りもほのかに漂っている。子供が飲めるほど甘い酒だが、体がぽかぽかとするし、心も和らぐ。
エレノアが食堂に入ると、皆やはり囲炉裏前のテーブルに集まっていた。まずヘンドリックと一人のメイドが姿勢を正し、それで何かに気付いたように、見慣れぬ青年が遅れて立ち上がる。そしてガウンのように巻きつけていた毛布を取ると、深々とお辞儀をしてきた。
年齢は自分と同じくらい。赤毛混じりの金髪で、身に着けているものは決して華美ではなかったが、ヘンドリックの見立てどおりそもそもの物が良かった。丈の長いチュニックは濃緑に染められ、襟ぐりや袖口、裾に沿って色糸で刺繍されたリボンが縫い付けられている。緑に染めるには黄と青の染料が必要だが、相反する色を同時に扱う工房は王都でさえ数少なく、また重ね染めをしないといけないので工程も増える。刺繍だって、一朝一夕でできるものではない。それは主に女性の仕事だったが、そのぶん、人手も予算もかかるのだ。
織り目の詰まったズボンも緩やかに生地を余らせており、ブーツはシンプルなデザインながら履き口にフルオーダーメイカーの刻印。チュニックから覗くベルトも布ではなく革でできており、金のリング状のバックルには花の透かし彫りが施され、何よりそこには――希少な花蜜石の中でもとりわけ珍しい、バイカラーの石が一粒埋められていた。
ベリンダが付き添う少女もさらに遅れて青年に倣おうとするが、動きが緩慢で、体を動かすこと自体が辛そうだった。エレノアはそれを視線と手の動きでベリンダに止めてもらうと、改めて自身も姿勢を正した。
「遅くなってしまい申し訳ございません。ようこそ、トルテュフォレ城へ。わたくしはこちらで家令を任されております、エレノア=レコンフォールと申します」
「レコンフォール様――」
顔を上げた青年は一瞬驚いたように声を詰まらせ、しかしすぐにもう一度頭を下げ、続ける。
「この度は、夜分遅くに城中をお騒がせしてしまい、まことに申し訳ございません。にも関わらずこのような温情を頂戴し、感謝の言葉もございません。私は――フィオレロ=エスタシオンと申します」
「エスタシオン……」
聞き覚えのある姓ではあったが、それを問う前にベリンダが口を開く。
「待て、積もる話は後にしてくれ。彼女がどうしても二人で城のあるじにご挨拶とお詫びをしたいと言うので待っていたのだが、もういいだろう。彼女だけでも先に休ませてやってくれ」
「まあ――そうだったんですね。それは逆に、申し訳ないことをしてしまいました」
エレノアが少女に近づき膝を折ると、少女はゆっくり顔を上げた。自分よりかは幾分か幼く見える顔立ち。聞いていたとおり顔色は悪かったが、ここまで随分と難儀したのだろう。
「お辛い中、ありがとうございます。年も近いようですので、わたくしのことは、どうぞエレノアとお呼びください」
「……エレノア、様」
エレノアが声を掛けると、少女は安心したようにほほえむ。ぼんやりとしていた鳶色の瞳に光が戻り、そのとき、かすかに花の香りが漂った気がした。
(これは――)
「エレノア様。お部屋の準備も整っております」
「あ――ええ」
少女の後ろで自信を孕ませて笑むメイドに、エレノアは慌てて頷き応える。今はとにかく、休養が先だ。メイドもまだ年若くはあるが最古参のベテラン、メイド長の肩書きを持つ。彼女に任せておけば、少女の方は大丈夫だろう。
「それでは、客間までこちらのメリッサに送らせます。ベリンダ医師、よろしいでしょうか?」
「ああ。診察の結果は心身の疲労と軽い風邪。治療法は美味いものを食べて体を温め、面倒事を忘れてとっととぐっすり眠ることだ。私も寒いのは嫌いだ、一緒に引っ込むことにするよ。――ああメイド、何かあったらまた呼んでくれ。悪くなるようなら薬を出す。家令、時間外労働の礼はいつもの酒でいいぞ」
「はい、承りました」
ベリンダはそれだけ一気に言うと、先ほどエレノアが断念したひっつめ髪を手で払い、木底のパンプスを鳴らしながら颯爽と去っていく。
「ではリリアン様、こちらへどうぞ」
「……はい、申し訳ありません……」
メリッサとヘンドリックに支えられるようにして、女性――リリアンというらしい――は椅子から立ち上がる。か細い声にフィオレロも心配そうに手を貸し、メリッサにも頭を下げて二人を見送っていた。
「――大変です、ヘンドリック様!」
夜警の男が駆け込んできたのは、そのすぐ後のことだった。




