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――直後、二人の間を割るようにすーっと光る糸と蒼白い蜘蛛が降りてきて、エレノアは途端に現実に引き戻される。
『いやはや、エレノア様も隅に置けませんなあ。早速、新米執事君とよい仲におなりで? ああ、あの画家様もお気の毒に』
そのあからさまに面白がっているような芝居じみた口調に、エレノアは蜘蛛を半目で睨み、指先でつついた。
「――アレックス。まったく、いつから覗き見していたのですか? あなたという人は」
『出歯亀なんてとんでもない。私も一度、新しい城の住人にご挨拶をと思いましてね』
「蜘蛛が……喋ってる……?」
目を丸くして固まるソワレに、エレノアは蜘蛛を手のひらに乗せ、そっと差し出す。蜘蛛はその間にまん丸のひよこになって、あざといくらいつぶらな、真黒い瞳でソワレを見上げた。ひどく既視感のあるシチュエーションに、エレノアはクロシェットを思い出しながらアレックスを紹介する。
「ごめんなさいね。こちらは城勤めの魔術師、アレックス――の使い魔、図鑑さんです。今は中に、アレックスがいるみたいだけど。図鑑さんは、本で見たものなら何でも姿を変えられるの。朝礼や食事には出てこないから、ここで紹介してしまいますね」
「……あ、ええと、なんというか……すごい、ですね。魔術師ということは……魔法、なのでしょうか」
『まあそんなものだ、ひよっこ執事君。――ふむ、あまり私とは相性がよろしくないようだ。まあなんだ、そのうちに慣れるだろう』
「あ、はい……」
一歩退いたように接するソワレに、エレノアはその手を取りひよこを乗せてみる。ふかふかとした生き物ならば多少慣れやすいかと思ったのだが、ソワレはそのまま微動だにしなかった。
「もし城内で迷ったときは、図鑑さんを呼んでみてください。道案内してくれますから」
「はい、ええと……よろしくお願いします。アレックス様と……図鑑さん?」
『図鑑さんだ。さんが大事だぞ』
「はい……」
やはり一般の人間には馴染みがないものなのか、得体のしれないものなのか。幼い頃から図鑑さんを遊び相手にしていたエレノアには、よくわからない。
――アレックスは魔法使いでしょ、魔法で出して!
猫が飼いたかったのに祖父に反対されて、アレックスにそう泣きついたのも懐かしい思い出だ。
・◆・◆・◆・
大体の城の案内を終えたエレノアは、最後に聖堂へと赴いた。今日は正規の道のりで、正面から向かう。そしてアレックスはひよこの姿のまま、意地悪くソワレの肩に乗っていた。
城内から聖堂へは小規模な回廊で繋がっており、雨天でも濡れずに通えるようになっている。今よりさらに宗教が尊ばれていた頃は、天気に関係なく、城の住人もこうして毎日通っていたのだろう。
回廊の中心には煉瓦で階段状に組まれた四角い花壇が一つ造られており、黄葉樹が植えられている。傍らには同じく煉瓦造りの立水栓があり、中庭と比べるとややシンプルな造りになっていた。
秋晴れの、清々しい日差しと空気が肌に心地よい。濃い黄色の葉も、ますますその色を深めている。エレノアはソワレを伴い、一度その庭に降りた。
「この樹には、毎年春になると大きな玉冠鷲のつがいが来てくれるのだけれど――ソワレ、来て」
「はい」
階段状になった花壇を登り、樹の根元をソワレに示す。樹の根元には小さなうろができており、エレノアは花壇の中に落ちていた葉をひとつかみすると、そこにふさふさと蓄えた。中には同じように、落ち葉や木の実が重ねられている。
「このうろは、この樹の精霊の寝床と言われているの。冬支度をしてあげると、お礼に美味しい木の実をならせてくれるのです」
「では、私もお手伝いいたします。たしか――この種類の樹は、甘酸っぱい青い実がなるんですよね」
「よく知っていますね。はるか極東の国の人々が好む濃藍の服の色から、オリエンスブルーといって、そのまま食べてもいいし漬けてもいい。乾燥させれば保存食になるので、重宝しますよ。でもスープは向かないわね。美味しいのだけど、食べるのにとても躊躇する見た目になるの」
「青い……ですからね」
ソワレもエレノアを倣い、アレックスの指図を受けながら綺麗な葉を選んでうろに並べる。立水栓で手を洗いながら、エレノアは言葉を続けた。
「昔はこちらで聖職者の方が瞑想したりお祈りをしたり、ときには教義について、論戦を交わしたりしていたそうです。その頃の司祭様の日記にも、このうろの話があるのですよ。今はほとんど、司祭のリュカ様や医師のベリンダ先生が花壇に座って読書をなさっているだけだけど」
「そういえば、今日は聖堂で何かあるとか」
「ええ――」
ソワレもエレノアに続き、手を清める。なるほど、親鳥になった気がして、エレノアはつい笑んでしまった。
「――トルテュフォレではこういった地道な活動も大切に行っているので、それも知っていただきたくて」
回廊を抜け聖堂の前まで来ると、ソワレは途端に声を上げた。
「うわあ……こちらも、すごい彫刻ですね」
「そうでしょう? わたくしも見慣れているはずなのに、ついつい見上げてしまいます」
「石なのに、蔓や葡萄がみずみずしく見えて……美味しそうですね」
「ふふ、わたくしも毎回そう思います」
「本当ですか? ……よかったです」
少し照れくさそうに言うソワレに、エレノアもほほえむ。同じように思ってくれる感性は、純粋に嬉しい。
その笑顔のまま扉を開けると、中にいた人間の視線が一気に集まった。
「あ、エレノアさま!」
「エレノアさまだー!」
一瞬の静寂の後、ノート代わりの石版とチョークを投げ出し、何人かが席を離れ駆け寄ってくる。聖堂内にいたのはリュカとベリンダを除けばすべてが小さな子供たちで、皆、身なりは貧しいが、楽しそうに机に向かっていた。
「皆さん、おはようございます。今日もしっかりお勉強していますか?」
「してるよ!」
「ねえ、またお手本書いて。エレノアさまの字がいちばんキレイ」
「――エレノアさま、うしろのお兄ちゃんだれ? あたらしいヒツジさん?」
「王子さまみたい!」
「お兄ちゃん、お名前はー?」
「図鑑さんもいる! ねえ、ライオンになってー!」
「クジラ、クジラがいい!」
「こら、お前たちうるさいぞ! こっちは健康診断中だ、静かにしろ! 大人しく学べ!」
「わー、魔女せんせいが怒った!」
「まずいクスリのまされるー!」
「へんなクスリのまされるー!」
「実験台にされるー!」
ひとしきり騒いだ子供たちは、ベリンダの一喝で蜘蛛の子を散らすように去り、各々の席に戻っていく。それを笑顔で見守っていたリュカが、改めて二人を迎えた。
「エレノア様、お越しいただきありがとうございます。ソワレ君も、よく来てくれましたね」
「あ……いえ。すごいですね……あまりの元気のよさに、圧倒されてしまいました」
くすくすと幼い忍び笑いが聞こえる。
「ソワレだって!」
「かっこいいよね」
「でもまだしたっぱだろ?」
リュカが振り向けば、子供たちは慌てて手元の石版に視線を戻した。本当に怒ったとき、誰が一番怖いのかをすでに理解しているらしい。
「この子たちは街の子供たちです。普段は家業を手伝っていたり働きに出ている子たちなのですが、月に何回かこうして通っていただき、読み書きや計算を学んでもらっているのです。それと健康診断ですね」
リュカの視線を追うと、祭壇横の角に木と布のパーテーションで隠されたエリアがあった。ちょうど小さな女の子が出てきて、別の子の肩を叩いて呼び出すと、その子は入れ替わりにパーテーションの方へ向かっていく。
「子供たちにもいろいろな事情で病院に通えない子や悩みがある子もいるので、ああしてベリンダ医師にお願いして順番で面談してもらっているのです」
「……魔女先生というのは?」
「子供たちが使う、ベリンダ先生のあだ名です。よく薬の調合で、いろいろ混ぜ合わせているので」
「ああ、そういうことなんですね」
エレノアの言葉に、ソワレも納得したように頷く。混ぜるという行為は、古来より不可思議な力を呼ぶと言われているからだ。心も混ぜるってこと――と、愛らしい鈴のような声が過る。
リュカが続けて言う。
「隣が施療院となっているのですが、体調のよくない子や怪我をしている子は、そのまま施療院で治療もしていただいています。長期間顔を見せない子には、自ら訪ねていくことも――」
「そうなんですね……素晴らしい活動だと思います」
「いいえ、私の力ではありませんよ。学びたいというこの子たちの意欲があってこその、この時間ですから」
「――だってウィシュカおじちゃんがおいしいお菓子やパンくれるもん!」
「まあ」
ひょうきんな性格の男の子の言葉に、エレノアとリュカは笑う。ソワレは複雑そうに曖昧な笑みを浮かべていたが、リュカは優しく言葉を紡いだ。
「今はそれでいいのです。しかし――いずれ成長したときに、ここで学んだことは必ずこの子たちの人生の糧になります。残念ながら、今のクローマチェストでは学び舎もそこに通える子も限られています。だからこそ、学べなかったという負い目は、きっと生涯つきまとう――そんな重荷を若い可能性に背負わせるのは、大人としてあってはならないことですからね」
「しかし……それではあまりに、長い道のりなのでは……」
「ソワレ君。人の子の成長などあっという間ですよ。そして願わくは、次代を継ぐこの子たちにも――このトルテュフォレが愛しい場所でありますようにと、そんな願いもこめているのです」
「……わかりました。これも、お城を守る一つの方法なのですね」
頷くリュカに、ソワレも真剣なまなざしを返す。エレノアはそんな二人からそっと離れると、少しの間、子供たちの間を回りながらねだられるままに字の手本を書いたり計算の答え合わせをしたりして、彼らとの時間を過ごしたのだった。




