1
満月を包む夜空のような青藍のインクに、月待鳥の羽根をあしらったつけペンを浸す。
そんな婚姻にも似た儀式を経て、一日の出来事を振り返りながらゆっくりと日記をしたためる――それがエレノアの、ナイトルーティンだった。
竜胆の花の蜜から作られたインクと希少な月待鳥の羽根ペンは、数少ないエレノアの私物だ。特に羽根ペンは、ある特別な謂れとともに、亡き祖父から贈られた特別なものだった。
羽柄から羽弁に向けて濃くなっていく青のグラデーションは、時を経て今なお美しく、先端は淡く煌めく月の色に染まっている。その羽色が月待鳥の名の所以だ。祖父と同じように老いた金古美の装飾も、ランプの下では夕暮れ色に揺らめいている。
黄昏時、冥色に落ち行く山から顔を覗かせる月は、旅人たちの慰めの光でもあっただろう。
そんなことを思いながら昨晩の日記をちらりと見、新しいページに終わりかけの日付を書き込む。
――しゃり、しゃり。
ペンと紙から生み出されるその音は、子供の頃に踏んで遊んだ霜柱の音と似ていた。
そんな昔の思い出と、たったの今日の出来事が混ざる。その不思議な夜の時間が、エレノアは好きだった。
ふと、その中に異質な音が混ざり始めていることに気付く。
パチパチと窓を叩く大粒の雨。時折ざあっと木立が荒れる音がして、いっそう強く風雨が吹き付ける。
この時期に多い、〝午前様の夫婦喧嘩〟と呼ばれる深夜から明け方にかけての夏の嵐だった。
恋多き精霊王がうっかり朝帰りをしてしまい、お妃様の怒りに触れるという――なんとも俗っぽい神話の一節が由来だ。
そのうち雷まで鳴り始めて、空気までもが震えだす。空を奔る音を追いかけて窓を見るが外は真っ暗で、ただ室内のわずかな光を反射してガラスに映る見慣れた顔が、自分をじっと見返していた。
「……なんだか今夜は、特別にお怒りみたい」
エレノアはペンをスタンドに戻し、立ち上がる。嵐自体は数時間で収まるが、冷めたお妃様の愛情よろしく気温も急に下がるので、数年に一回は放蕩者の凍死者が出る。皮肉めいた話だが、とりあえずエレノアは冷え込む前に隙間風を防ごうと丸めておいた壁のタペストリーを下ろし、それからカーテンを閉めに窓に向かった。
――コンコン、と。静かに扉が鳴らされたのは、そんな時だった。
「エレノア様、夜分遅くに申し訳ございません。少々お時間を頂戴してよろしいでしょうか」
「はい――今行きます」
ノックをした人物は室内の気配を感じたのか、ためらうことなく声をかけてきた。本来なら聞き慣れた、安心感さえ覚えるはずのその声が、今は緊急性の高さを暗に示している。
エレノアは椅子の背もたれに掛けていたレース編みのケープを羽織り、ランプを持って扉を開く。そこには、この時間になってもいまだタキシードをぱっきりと着こなした、老年の男が立っていた。
「ヘンドリック。どうしたの? 何かあった?」
男は最も信頼の厚い自身の部下であり、尊敬する師であり、大切な家族でもあった。男――ヘンドリックはかすかに頷き、言葉を続ける。
「お休み前に申し訳ありません。先程、門扉を叩く音が聞こえると夜警の者から報せが参りまして。賊ではないようなので迎え入れたのですが、少々訳ありのお客人のようです。嵐に見舞われたところ偶然に灯が見え、こちらに参ったそうで――若い男性と女性のお二人で、男性の方は身なりもようございました」
「あら――まあ」
ヘンドリックの語り口に、エレノアもすぐに訳ありの内容を察して、苦笑する。ヘンドリックが自分まで話を上げてきたということは、二人のひととなりも悪くなく、公的な手配書の類もまだ出ていないか届いていないということなのだろう。つまりそれを変に詮索し、邪険に扱うのは――少なくとも今の時点では、なかなかエレガントな振る舞いではない。
「わかりました。すぐに支度をして参ります。今はどちらに?」
「ひとまずこちらの居住棟へ。談話室で暖を取らせております。過度に人目を気にしていたのと、この雨で凍えさせてもいけませんので。特に女性の方が少々体調を崩しておられるようで、ベリンダ医師をお呼びしました」
「そう――」
ベリンダは男勝りで口は悪いが、腕は確かで頼りになる女医だ。
「じゃあ、みんなも遅くに申し訳ないけど、起きている子がいたら厨房で蜜酒を温めさせて。スープの残りもなかったかしら。客間の準備と――ああ、この雨じゃ女性の方は暖炉も使ってもらった方がいいかも。様子を見て、薪を用意してちょうだい」
「手配いたします」
「ありがとう」
やり取りを終えると、エレノアは急いで支度に取り掛かる。
もう誰も見ていないのをいいことに夜着をバサバサとベッドに脱ぎ捨てると、昼用の肌着を身に着け、クローゼットからダークブラウンのブラウスを取り出す。
ふんわりと余裕のあるスリーブに、ディープカフスのクラシカルなブラウス。細身の繊細なレースが縫い付けられたピンタックの間に、細々と立ち並ぶ極小のクルミボタンを留めていく。
流れのまま同じ色合いの編み上げブーツを履き、小麦色のロングスカートのコルセットを腰でしぼりあげ――髪は急ぎひとくくりにして済ましてしまおうと思ったが、後でヘンドリックに怒られそうでやめた。簡単に巻き付けて、いかにも見映えがするよう、手を掛けたよう見える、それらしい飾りピンでごまかす。
仕上げに、インクと同じ色のチュールレースのジャボをブローチで留めれば、短い夏の装いの完成だ。
父が母に贈ったというその金細工のブローチは、中央にやはりジャンティアナの花から採れた〝花蜜石〟が据えられている。
種々の花々からごく稀に採取される花蜜石は、宝石よりは琥珀に近い質感で、たっぷりとした透明感のある煌めきを湛える。爪先でちょっと引っ掻けば今にも蜜が滴り落ちそうな青紫の石は、母の瞳の色と同じだった。鹿と花蔓をモチーフにした繊細で華奢な金細工も、陽光を紡いだような母の巻き毛を思い起こさせる。
母は「精霊王の落とし胤」と称されるほど、優美で繊細な人だった。生まれつき病弱だったようだが、その儚さも、魅力を損なうものではなかったようだ。
良くも悪くもそれらはエレノアには引き継がれなかったが、父親ゆずりの赤毛も緑の瞳も今となってはお気に入りで、大切な――亡き両親との結びつきだ。
エレノアは一度鏡の前でブローチに触れ、笑顔を作ると、ランタンを取り客人の元へと向かう。
幼い頃に両親を流行り病で亡くし、育ててくれた祖父も二年前に亡くなった。それでも、託してくれたものはたくさんある。
残された部屋では、月待鳥の羽根ペンが雷光とともに、星の砂子のような輝きを宿していた。




