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「――王家の紋章?」
「はい。――ああ、いえ。正確には、かつてクローマチェスト王国騎士団の団長を務めていらした、先の国王陛下の弟君――大公殿下のお興しになった、ライオネル家の紋章でした」
『ほう。やはりただの画家ではなかったか』
あれからすぐに荷物を抱えて執務室に舞い戻ったエレノアは、ヘンドリックとアレックスを前に頭を抱えていた。アレックスは今は小さな猿の姿になって、紋章学の辞典を開いている。エレノアも確認したが、間違いない。
一瞬王家のものかと思ったが、王家の雄鹿には花が絡み、太陽を示す円の中には建国に関するいくつかの日付や国家理念が刻まれている。そこに盾を描いているのは、それらを死守する――ひいては一族を護るという、騎士団長であった大公の意思の表れだろう。
「しかし宛名は、ご本人ではなく別の方になっておりますね。たしか――ライオネル大公殿下は、兄上であった先の国王陛下が崩御された際に、ご自身も一線を退き、ご長男に家督をお譲りになっていたはずですが」
『画家殿はなんと?』
エレノアは荷物に乱雑に記された宛名を見て、両手で顔を覆ってうなだれる。
「宛名の方は大公殿下のご次男、レオンシュバンツ様だそうです。同い年で、ご学友だったと。その縁で、パトロンを依頼したと」
「一応筋の通った話ではありますが、それだけで多額の出資をなさるかといえばやはり疑問も残ります。エレノア様のお話をお伺いする限り、王家方の人間であることに間違いはないようですが、国の諜報員の可能性も――。空位ももう四年を過ぎました。ですので各地の有力者の元を巡り、王家にとって有益な家、あるいは害になる家を調査しているのやもしれません」
「……やっぱり、そうなのかしら。でも、そうとも思い切れないの。実はわたくしもあの方がいらした晩に、それを疑ってお尋ねしたことがありました。けれどあの方は、自分は画家だときっぱり言い切ったのです」
それに彼にはどこか、権力者を嫌ったような言動もあった気がする。物言いを考えるに大公の息子とも家柄関係なく、ただの友人として接していただけなのかもしれない。学友というからには、ヴァイス本人も良家の出身である可能性は高いが――。
何よりそんな任務にあたっていて、あんなにも複雑なテーマで、あんなにも壮絶な課題に向き合えるものなのだろうか。あんなにも楽しそうに他人に絵を見せられるものなのだろうか。まるで――母親に褒めてほしい子供のように無邪気で、純真で。
『なるほど。ついにエレノア様の目も、あの花蜜絵の具に染まってしまいましたか』
「そんなんじゃありません。それよりなぜわたくしが同じ日に二通も、しかもよりによって王家と大公家にお詫びのお手紙を差し上げなきゃならないのですか……情けない。おじいちゃん、ごめんなさい……」
『包み直してもらえばよいのでは?』
「わたくしの言うことなど聞いてくれませんでした。いいから受け取れと。それさえ今となっては、どんな思惑があったか――」
『まあちょうどよかったですな、お勉強なさった直後で。時候のご挨拶も謝罪のお言葉も、今のエレノア様の頭の中には大辞典並みにおありでしょう』
「アレックス」
ヘンドリックに睨めつけられて、アレックスはうさぎの姿に変わる。うさぎは声帯がないため、鳴けない。もう何も言わない、という意思表示だろう。
「とりあえずは明日からヴァイス様もお留守になりますので、言いつけられた業務を真摯に努めてまいりましょう。大公家に関しては、私の方でも現状を調査いたします。さすれば、ヴァイス様についても何かわかるかもしれません。エレノア様には申し訳ありませんが、こちらは早急に謝罪のお手紙をお書きになって、お荷物と一緒にお送りになった方がよろしいかと」
「やっぱりそうよね……。泣きたい……」
「泣いているお時間もございません。フィオレロ様とリリアン様のご出立の時間も、少しずつ迫っております。このトルテュフォレにある間は、どうぞあるじ無き城のあるじとして、祝福を」
「……ええ。そう、そうですね」
エレノアは頷き、両手で自分の頬をはたく。ヘンドリックは大きな巌のように、どんなときも揺るがない。
「彼がどこの誰であろうと、わたくしの――いえ、レコンフォール家の王家への忠誠に、やましいことなどありません。それにわたくしはあの方の描いた絵もじかにいくつか拝見したけれど、どれも、言葉にできないほどに素晴らしくて。だからあの方の根は、やはり画家だと思うのです。フィオレロ様が花を愛していたように、ヴァイス様は絵を愛していらっしゃる。いろいろと問題はある方だけど――あの方の絵にはそれだけの力があると、それだけはわたくしも確信できるのです。だからとりあえずは――信じてみようと思います」
「エレノア様がそうまで仰るならば、我々もそれを信じるにやぶさかではありません。今日まで、ヴァイス様に一番長く接しておられたのはエレノア様でした。そのまなざしがそう見定めたのであれば、我々もそう接してまいりましょう」
「ええ。宮廷画家、上等じゃない。いつかわたくしが一人前の家令になったら、肖像画を描かせて部屋に飾らせます」
『若くてお綺麗なうちに描いてもらっては?』
「アレックス」
いつの間にか小猿の姿に戻っていたアレックスに、今度はエレノアが睨みつける。それに小猿は愉快げに笑うと、ふと憑き物が落ちたかのように柔らかい表情になって、エレノアに向かって小首をかしげた。
・◆・◆・◆・
「――エレノア! エレノア!」
「クロシェット様?」
それから一通り、日常の執務を済ませて廊下に出ると、角から小さな顔が覗いていることに気付いた。エレノアと目が合うと、クロシェットはその小さな手で手招きをする。
「誰もいない? アイツ、いっちゃった?」
「あいつ? ああ――もしかして図鑑さん、というよりアレックスでしょうか」
「そうよ! ……ごめんなさい、さっきの話、盗み聞きしちゃった。ホントはすぐに出て行くつもりだったんだけど、アイツがいたから。ホントよ?」
「いえ――」
エレノアはクロシェットに導かれるまま、庭に面した吹き抜けの回廊に向かう。夏の真っ白な日も、ほんのりとオレンジがかった色に変わってきている。
トルテュフォレの庭は、春夏中は黄葉樹と合わせたイエロー系の花を多く有していた。今の時期は背の低い小振りの向日葵の花が満開だったが、その間には名も知らぬ小さく細かな野花も色とりどりに咲き乱れている。あの絵の中の若い恋人たちも、こんな花々の中で精霊たちに祝福されているのだろう。
同じように庭を眺めながら浮遊していたクロシェットも、回廊の中ほどでその動きを止める。
「あたし、夏ってあんまり好きじゃないのよね。暑いし、寂しいし」
「寂しい……ですか」
「ええ。今の時間帯なんて、一人だとほんとに寂しい感じがするの。夕焼けってとても綺麗なのに、残酷なのよね」
「……」
それならばエレノアにもわかる気がした。幼い頃、学校で両親がいないことを指摘され、城にも戻らず、人目を忍んで泣きながら街を徘徊した日があった。そのときの夕暮れは、たしかに寂しくて、やるせなかった。知らない子と親が連れ立って家路につく姿は、幼いエレノアには残酷な光景だった。
(結局そのときは、街の人たちまで巻き込んで大騒ぎになっちゃったっけ……)
日が落ちて暗くなると、いよいよ帰り道に不安を覚えた。お腹もすいてきて、しかし帰り道もわからない。仕方なく、人家のわずかな灯りを頼りにとぼとぼと城が見える方角に向かって歩いているところを、捜索隊の人間に保護された。
祖父もヘンドリックも、そのときばかりは怒らなかった。リュカが抱きしめてくれた。だけどその優しさが逆に、悲しかったりもした。
しかしリリアンの話を聞いた後だと、それさえ恵まれていたことなのだと思う。自分が不幸だとか可哀想だとか、そんな想いに浸る資格があるだろうか。
(いえ――幸も不幸も、他人と競るものじゃないわね)
隣を見れば、クロシェットがまだ浅い夕日を見つめている。その横顔は、本当にお人形のように見えた。旅の中でヴァイスと二人、こんなふうに夕日を眺めて過ごすこともあったのだろうか。
エレノアが何も言わないでいると、先にクロシェットが動く。空中でくるりとターンして、スカートの端をちょっとつまむと、ぺこりとお辞儀をした。
「あのね――さっきはヴァイスを信じてくれて、ありがとう。絵も褒めてくれたでしょ? あたし、すごーくすごーく嬉しかったの」
「クロシェット様――」
「ヴァイスはずっとひとりぼっちだったから――レオンが――ああ、レオンシュバンツのことね。レオンが気を遣って、いろいろ世話焼いてくれてたの。ヴァイスが家を出て、絵のことだけを考える時間をくれたのもそう。ううん、本当はもう戻らなくてもいいように、無理難題をふっかけたのかも。そしたら絵は永遠に未完成のまま。ずっとずっと、そのことだけ考えていられるから」
「……」
「あたしも、びっくりしてるのよ。ヴァイスが急にここに残るなんて言い出して。いつもは、ひとところに留まるなんて絶対しないから。でもそれは――あなたがヴァイスと、ありのまま仲良くしてくれたからだと思うの。きっと楽しかったんじゃないかなって。だから、ありがとう」
「まあ――仲がいいように見えまして?」
なんだか、らしくない。そう思っておどけたように返せば、クロシェットもいつものようににこっと笑って、エレノアの肩に乗った。
「お互いに言いたいことが言い合えるのは、仲良しの証拠よ!」
「うーん……どうでしょう? わたくしは、城の者以外の殿方と接する機会も限られてまいりますので、そういう機微に疎いようで」
「そういうところは、ヴァイスと似た者同士なのね……だから気が合うのかしら。前はレオンがね、女の子紹介してくれることもあったんだけど、ヴァイスってばぜーんぜんダメ! 興味ないって。でも、なんでかエレノアのことはちょっと気に入ったみたい」
「気に入った?」
「そうよ。だってあたしもあなたのこと、好きだもの。だからわかるの。でもこの城の精霊たちも、みんなあなたのこと想って見守ってるから、ヴァイスも悪さはできないわね」
「あれでもまだ、悪さをなさっていない感じなのですね……。わたくしからしたら、あまりに自由というか破天荒というか。――そういえば、クロシェット様には他の精霊が見えていらっしゃるのですね。城住まいの精霊様というのは、どのようなお姿をなさっているのですか?」
「え?」
そのエレノアの言葉に、クロシェットはきょとんとした顔をして首をかしげる。
「どうって――エレノアはもう知ってるのかと思ったけど、違うのね。それなら、姿形とかあんまり気にしないで、今のままいればいいと思うわ。だってみんな、今のエレノアが大好きなんだもの。だからエレノアは、今の優しいままのエレノアでいてあげてね」
甘える子猫のように頬を寄せてくるクロシェットに、エレノアも笑んで頭を傾ける。
「精霊であるクロシェット様にそう言っていただけると、なんだか嬉しいような恥ずかしいような……不思議な気持ちになってしまいますね」
「でも、間違いないでしょう?」
「たしかに」
遠くから鐘の鳴る音が聞こえる。街の時報の鐘だ。
「明日はクロシェット様もご出立でございますね。寂しくなってしまいますが……今夜はウィシュカが、とびきり美味しい花蜜をご用意いたしておりますの。楽しみになさっていてくださいね」
「本当? きっとみんなでごちそうね!」
「はい」
そうして宵の口に差し掛かった頃、小広間に灯りが灯り始める。エレノアもあちらこちらを行き来して、使用人たちとともに特別な夜の支度を進めていく。
夏の陽を一身に浴びた真っ白なクロスがテーブルに掛けられ、鏡のように磨き抜かれたカトラリーが規則正しく並べられる。
テーブルフラワーには、陽気な星月夜をイメージした旬のソルオータの花と早咲きのジャンティアナの花、そして濃緑の木蔦を組み合わせたアレンジメント。その傍らにテーパーキャンドルを立てた金古美の燭台を置いて、ゆったりとした夏夜の時間の演出を。
お料理のチェックも欠かさない。お客様に合わせたメニューとデザインで、器を彩っていく。
準備が整ってきたら、お客様をお呼びして。
――最後の夜が、始まる。




