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まだ、妙な浮遊感が心の中に残っている。
ヴァイスと別れ執務室にやってきたエレノアは、昨日までに作っていた何枚もの手紙の草案を見比べていた。
(時候のご挨拶は四稿目、本題は七稿目が……いえ、やっぱり無難に三稿目の……。ああ、やっぱりだめ。あの絵を見たあとでは――)
手紙を書くと決めてからの数日間、自分の持てるだけの知識と資料を活用し、できる限り美しく書面を整え、美しい言葉を連ねてきたつもりだった。昨日の夜、眠る前までは、きっと上手く書けると確信めいた自信さえ持っていた。なのに――。
(なんだか……全部、……嘘っぽいな)
ヴァイスのあの絵のような、生々しさもみずみずしさも、何も感じない。ただ美辞麗句が並ぶだけの、空っぽの文字列たち。
もちろん本来ならこれで正しいのだろう。たとえ事務的に済ませたものであったとしても、教養のある人間ならば、これがどれほどこまやかな心遣いのもと、時間をかけて書かれたものか察してくれるはずだ。
でも――。
「……」
エレノアは草案をまとめて、積み上げられた資料や辞書の上につくねると、引き出しからレターセットとガラス蓋の木箱を取り出す。
レターセットから季節に沿う便箋を数枚選び、目の前に置いて、静かに息をつき――執務に使用しているつけペンを取る。木と金属でできた軸に、自分の書き癖にこなれた程よいペン先。インク壺を開くと、ほのかに香ばしい匂いがした。
ペン先をその中に浸し、ふちで余分なインクを落とす。普段は事務仕事の中、流れ作業で行うので、指先がその感覚を記憶していた。
そして――頭に浮かんでいく言葉を、罫線に沿って綴っていく。
少しだけ使い込んだペン先は、自分の力加減に絶妙に反応してくれた。太くなったり細くなったり、青みを帯びた黒が、伸びやかにペン先から流れる。心地よい。
思案に思案を重ねた草案は、無駄にはならない。定型のものは完璧に美しい。けれどそこに、エレノアは少しずつ自分の言葉を足した。
あの絵のような、淡く優しい言葉を紡ぎたいと思った。彼が自分の心を筆に託したように、文字に託したいと思った。
心からの素直な謝罪と、ほんの少しの昔話と。
あの幼い頃に綴った、月待鳥の羽根ペンとジャンティアナのインクを使った真夜中のお手紙も、決して嫌いではなかったけど。思い出すと、異な意味で恋に悩むヴァイスと自分が重なった。
会ったことはないし姿さえ知らないが、子供の頃はそれほどあのペンを譲ってくれたこと――たとえ本人には不要のものだったとしても、だ――が嬉しくて嬉しくて。たしかに夜更かししてあの手紙を書いている間は、恋に恋をするような、そんな状態だったのかもしれない。
今はその頃とは違う時勢ではあるが、レコンフォール家のひたむきな忠誠と献身の心は変わらない。遠方にあっても、そんな人間があるということ。父王を喪った心痛を想い、どうか心身をいたわり、日々が心穏やかでありますように――と。
心の声と紙の上の文字が交わるにつれ、周囲の喧騒が消える。コツコツと紙とペンが触れる音だけが耳に届き、視界もペン先だけに集中する。時計の秒針が進むように、ひとつひとつの文字が過去のものになり、空白が満たされ、手紙として編まれていく。
その過程が、エレノアにはたまらなく楽しく、愛おしいものだった。
唯一ヴァイスと異なるのは、手指と紙を汚さないよう、細心の注意を払わなければならないことだろうか。画家は自身の指さえ筆の一つにしてしまうらしいが、エレノアは画家ではない。こんなにも澄んだ心地で綴った言葉を、汚して台無しにしてしまっては意味がない。書き直すには、また数日の時が要るだろう。
便箋も二枚目のなかばを過ぎ、数回目のインクの補充とともに、結びの言葉を記す。そして最後に数行を空け……今日の日付とサインを置いて、ようやくエレノアは、忘れかけていた深い呼吸を取り戻した。
(書き終わった……)
不測の事態を考えて、すぐにインク壺をしまい、ペン先を綺麗に布で拭う。それからインクが乾ききるまで二枚を並べて読むでもなく眺めていれば、不思議な清々しさが体内に満ちているのを感じた。情熱と理性が、頭で溶け合っている。
しかし、まだ終わりではない。
飾り枠が刷られた封筒に、手続きに必要な証書を貼付し、数回のイメージトレーニングを終えてから宛先を記す。適度な興奮状態のおかげか、こちらも満足のいくできばえ。
インクが乾いたことを確認したら、便箋をそろえ、折り目を合わせる。きっちりと二つに折りたたんだら封筒に入れて、今度は脇に置いておいたガラス蓋の木箱を手に取った。
その中には黄葉樹と同じ、鬱金の色をした天鵞絨が張られ、封蝋に使う道具が一式納められていた。
濃い黄色に映える、黒木の繊細な彫り物が施された柄と、青と紫のマーブル模様の蝋が詰まった小瓶。注ぎ口の付いた深いスプーンは蝋を溶かすのに使うものだ。隅に嵌められた金色の丸いヘッドの印面には、トルテュフォレの家令――つまりはレコンフォール家の当主が受け継いできた紋章が刻印されている。
紋章のモチーフは花樹鹿と呼ばれる、角から枝や花が伸びるクローマチェスト固有の鹿だ。エレノアのブローチも、このレコンフォール家の紋章がモチーフになっている。
この花樹鹿のオスは角が長く大きく、体毛が白い。一方メスは丸みを帯びた小さな角を持ち、体毛が黒い。この体色から昼と夜、太陽と月を象徴し、和合を表すともいわれている。
家令が継ぐ紋章は三日月と雌鹿がメインモチーフになっているが、これは王家が太陽と雄鹿をモチーフにしていることから、それに従う意味もあってのものだろう。またあえて月を欠けさせることによって、王家とともに有り続けるが、並び立つものではないという、無言の、しかし絶対的な忠誠も感じさせる。
祖父が寝たきりに近くなった頃、託されたものだ。特に蝋は城の花ともいえるジャンティアナの花蜜を使用したもので、晩年の祖父はこの色を好み、使い続けていた。
――ただしその使用には、祖父自身も含めて、制約が設けられていた。
「公の書簡であっても個人の手紙であっても、大切に想う相手に出す手紙、そしてその手紙を大切に扱ってくれるであろう相手だけに、この色を使いなさい」
「この色は城に住む精霊たちも好む色だから、お前が一生懸命に綴った言葉に笑顔し、涙し、そしてその心を愛でてくれる人ならば、きっと精霊も喜んで、幸いなことを授けてくれるよ」――と。
だからエレノアは普段は無難な赤の封蝋を用い、友人の祝い事など、特別な手紙にはこの青紫の封蝋を用いている。
そこでエレノアはふと思った。
(……ああ。だからあの羽根ペンも、〝精霊様のお気に入り〟だったのかも。青がとても綺麗だったもの)
あの日から、エレノアのナイトルーティンは中断されている。代わりのものを使ってはみたが、なんとなく気持ちが乗らなかった。やはり特別な時間には特別なものが必要で、またなにか、巡り合わせを待つしかない。
ぼうっと蝋の入った小瓶を見つめていたら、視界の端で、資料の山をちょろちょろっと登ってくる蒼白いトカゲが見えた。
「図鑑さん。心配で様子を見にきてくれたの? もうピンク色じゃないのね」
『いやいや。しばらくは花蜜絵の具の匂いが取れなくてね。大変でしたよ』
「あら。アレックスの方でしたか」
やはりクロシェットは絵の具に宿る精霊だったらしい。個性が強すぎて、普段は忘れている。
『無事に書き終えたのですね。――ふむ、良いお顔です』
「そうですか? ならよかったです。リュカ様にも一度ご相談させていただいたのですが――わたくしも、頭で考えすぎていたようです」
『思考することは善いことです。思考に喰われることは、損なことです』
「そうですね――身動きが取れなくなってしまいますもの」
『封をするのならば、お手伝いいたしますよ』
トカゲは蛙の姿になってぴょんと飛ぶと、ぺたっとテーブルの上に着地する。それからキャンドルに向かって、ふっと小さな炎を吐き出した。蒼白い、魔法の炎が凛と灯る。
『最後の最後で緊張して、失敗してしまったら元も子もないですからね。スタンプが上手くいくまじないですよ』
「ああ、アレックス――ありがとう。助かります」
むやみには魔法を使わないアレックスの、ささやかな思いやり。
エレノアはハンドルに紋章の刻まれたヘッドを取り付け、次にスプーンを取り出す。その中に小瓶から蝋の粒を落とし、それが程よくスプーンに溜まったらキャンドルへ。アレックスが灯してくれた炎でスプーンの底を炙り、蝋を溶かしていく。
特製の蝋は、溶けていく中でキャラメリゼのような甘く焦げた香りを発する。そういえば、あの花蜜絵の具にも似ているかもしれない。ただ油分が異なるぶん、やはりあの匂いは独特だ。
なんにしても、この、とろける時間は贅沢の極みだと思う。とかく慌てないことが、封蝋の成功の秘訣だ。
『良さそうですな』
「やっぱり、緊張はするけれど」
『心の動きのままに世界は動くものです。美しく贈るのでしょう?』
「そう――そうね。ここまで上出来だったんですもの。あなたのおまじないもあるし、いつもどおりなら大丈夫」
封筒の口を丁寧に押さえ、溶けた蝋を丸くとろりと流し落とす。ヘッドより一回り小さいくらいになったら、最後の作業だ。
(どうか、お受け取りいただけますように。お心に、届くものがありますように……)
上下の向きを確認したら、蝋が真ん中に来るよう調整して、垂直にハンドルを下ろす。ヘッドに圧迫された蝋が回りからぷくりと盛り上がり、封蝋特有の味わい深い形が生み出される。
すぐには動かさず、蝋が固まってきたところでそっとハンドルを持ち上げる。理想どおりの円に近い形で、くっきりとレコンフォール家の紋章が浮かび上がっていた。
「はあ――終わった……」
『ここしばらくで、一番真剣なお顔をしておりましたな。何はともあれ、よろしゅうございました』
「本当に。――まだリリアン様の分が残っているのだけれど、ヴァイス様もお休みになってしまいましたし。ひとまずは、これで――」
と終わりかけたところで、エレノアのお腹が鳴る。恥ずかしさのあまり両手で腹を押さえたが、よくよく考えてみたら朝食を満足に摂っていなかった。
アレックスが笑いを含ませた声で続ける。
『緊張が解けた瞬間それですか。ウィシュカを呼んでまいりますか』
「いえ、いいです……自分でまいります。逆にあなたがいつ何を召し上がっているのか、不思議でなりません……」
『埃を食べて生きているというよりかは、知識を食べて生きていると言ってもらいたいものなのですがね』
「それでお腹がふくれるのなら、よろしいのですけど……」
その後エレノアが道具を片付け終わり、手紙を大切に引き出しにしまったところで、それを見計らったかのようにサンドイッチと紅茶を手にしたウィシュカが訪ねてきたのだった。




