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精霊の幸う国の古城管理人【第一部完結済み】  作者: 橘 佐和
第五章 描いて、書いて、つつんで、結んで。

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「本日もゆうなる糧をいただけることを、精霊王様、精霊妃様、そして天地あめつちに宿る数多の精霊様に感謝申し上げます。目前にありし恵みに、祝福を」

「祝福を――」

 朝も日の出より早く、食堂に集まった城の住人たちは、リュカの祈りの言葉とともに簡単な朝食を摂り始める。夏は城のささやかな菜園でも新鮮な野菜や果物が豊富に採れるので、ウィシュカが一番ご機嫌な季節だ。この時期の朝食には、必ず朝採れ野菜のサラダが並んでいる。

 そして話題は、いよいよ出立を明日に控えたフィオレロとリリアンのことだった。

「なんだか、あっという間でしたねえ」

「寂しくなりますね~」

「本当に。皆さん、突然のお客様にも関わらず、今日までありがとうございました。あと少し、よろしくお願いしますね」

エレノアがそう口にすれば、皆は言われるまでもないと言った様子で、笑いながら答える。

「お任せください。明日はお早い出立でしょうから、お食事も今日の夜が最後――今から腕によりをかけて、食材を仕込みますよ」

「儂も花の種をいくつか包んであるよ。何かの足しになればいいが、フィオ君ならきっと立派に咲かせてくれるだろう」

語る人はもちろん、黙する人たちの雰囲気も和やかだ。しかしクラヴィスだけは、また違った口調で話し始めた。

「そういえばエレノア様。もう一人のお客様のことですが……今日ここに至ってまだ部屋にこもりきりなのですが、よろしいのでしょうか」

「ヴァイス様ね……」

あれからヴァイスは、クラヴィスさえ閉め出してまた部屋で絵を描いている。たまにクロシェットがやってきて、「いい? 静かによ? そーっとね。ああいうときのヴァイスは、邪魔するとすっごいすっごい、すーっごい不機嫌になるから」と前置きした上で、エレノアやウィシュカに食事を届けさせていた。ウィシュカは大きな丸パンを千切りながら、語る。

「しかし私が参ったときは、カンバスに向かったまま、私の方など見向きもしませんでしたよ。すさまじい集中力で、一心不乱とはああいうことを言うんでしょうなあ」

「お部屋がどうなっているか、もはや考えたくもありません。いない隙に、隅から隅まで大掃除しないといけない予感がします」

「覚悟はしておいてちょうだい……」

しかし、調度品など美術的な価値があるものだけはしっかりと避けているのは彼らしい。

 リリアンの手紙の件も、少し待ってくれとエレノアに言い置いて、それっきりだ。

「やっぱりあの男は駄目ですよ、エレノア様」

「でも、悪い人ではないと思うのだけど……」

「いけませんよ、騙されては! この間、中庭で物陰に連れ込まれたのをもうお忘れですか?」

「……今、なんと?」

それまで春の日向のように穏やかだった食卓が、一気に凍りつく。ただ黙して食事を摂っていたヘンドリックと、皆の話に耳を傾けながらにこにこと食事を摂っていたリュカの手が止まる。

「ち、違いますよ、ヘンドリック。リュカ様も。その、少し絵についてのご相談を受けていただけです」

「いや。あの手の芸術家は他人の意見など求めんだろう。得てして真面目で頭のいい女や温室育ちのお嬢様ほど、ああいう一癖も二癖もある駄目な男に惚れやすい。やったな、家令」

「わ、わたくしは何もしておりません……! お行儀が悪いですよ、ベリンダ先生……」

含みのある笑みを浮かべ、フォークをぷらぷらとさせながらこちらを指してくるベリンダに、エレノアは必死で反論する。それが逆に怪しく見えてしまうことに思い至らないのは、エレノアにそういった経験が一切ないからでもあった。

「――まあよろしいでしょう。彼もしばらく城を離れることになるのですから。次にここを訪れたとき城に入れるかは存じませんが、精霊様のお怒りに触れるようなことをしていなければ、大丈夫でしょう」

「ですから、何もないのです……」

「あなたに何もなくとも、彼の方にはあるかもしれませんからね」

そう言ってリュカがにこりと笑んだところで、

「エレノア! エレノア!」

「はい!」

遠くから渦中の人物の自分を呼ぶ声がして、エレノアは思わず返事をして立ち上がった。

「クロシェット様じゃなく、ご本人?」

「なにかあったのかしら」

顔を見合わせるメイドたち。エレノアは場を収めるように一度せき払いすると、言葉を続けた。

「皆さん、今日はわたくしたちにとっても特別な一日になります。お客様に最後までこのトルテュフォレでの時間をご堪能いただけるよう、心を尽くしてまいりましょう」

「はい」

「では、わたくしはお客様のご対応のあとは昼まで執務室に詰めて書き物をいたしますので、なにかあった際はヘンドリックへお願いします。――ヘンドリック、後は任せますね」

「かしこまりました」

「では、失礼いたします」

相変わらず聞こえてくる呼び声に、エレノアは食事を中断して食堂をあとにする。

「エレノア様、あれじゃ気も落ち着かないでしょうね。お可哀想」

「後ほど、パンとサラダをサンドイッチにしてお届けしますよ」

「さあ、皆さんも朝礼まで時間がありませんよ。あとは黙して、いただきましょう」

「はーい」

城の住人たちも、近付く別れに各々の役目をまっとうしようと動き出す。日が昇り、客人たちが目覚める前から、皆の一日は始まっていた。


   ・◆・◆・◆・


「ヴァイス様――いかがなさいました」

「エレノア――いいから来てくれ!」

 一階の渡り廊下に出たところで、エレノアはこちらに向かってくるヴァイスと行き当たった。

 ヴァイスは髪も服も乱れに乱れ、しかし喜色満面にあふれるといった様子でエレノアの手を握ると、そのままぐいぐい引っ張っていく。

「一体、どうなさったのですか」

「あんたに一番に見てもらいたいんだ」

「見て、って……」

ということは、絵だ。

 エレノアはそれだけ理解すると、大人しくヴァイスについていくことにする。ふと握られた手を見れば、ヴァイスの手はあちこち絵の具で汚れていた。回廊の柱の影と、その間から差し込み始める夏の朝日に、ちらちらと様々な色が浮かび上がる。

 赤。緑。茶色のような、橙のような。薄紫。水色。青。黄色。淡いピンク。

 この数日間、この人は何度パレットや絵筆を持ち替えていたのだろう。何度あの布巾を握ったのだろう。ありきたりな色の名前しか思い浮かばないのが、少し悲しかった。肌や爪に残る残滓は、もっともっと複雑な色をしている。ふと、フィオレロとリリアンの話を思い出してしまった。

 ヴァイスの部屋の前まで行くと、クロシェットがむくれて浮いていた。

「あっ、エレノア! 遅ーい! ヴァイスってば、あなたに最初に見せたいからって、寝てるあたしをつかんで廊下に放り出したのよ! せっかくいい夢見てたんだから、早く二度寝しなきゃ夢が逃げちゃうじゃない!」

「それは……申し訳ありません?」

「なんで疑問形なのよぅ!」

「いいから入ってみてくれ」

ヴァイスはクロシェットを押しのけてエレノアを扉の前に立たせると、まるで執事のように恭しく、それを開ける。

 手で示されて室内に一歩進めば、エレノアはすぐに息を呑んだ。

 開け放たれた窓が意味をなさないくらいに香る、花蜜絵の具の独特な匂い。テーブルいっぱいに広げられたままの画材や布、スケッチブック。そしてあの日のように、薄暗い室内に並べられた三枚のカンバス。しかし今日は左右の二つには布が掛けられ、中央のものだけが明らかにされている。

 エレノアがゆっくりと歩みを進めると、細く風が窓から流れ込んだ。早朝の、まだ夏の熱に浮かされていない風が、室内の空気を浄めていく。その心地よさに顔を上げ窓を見れば、山から太陽が昇るところだった。

 光が世界を染め上げていく。薄暗かった部屋も、その明度と彩度を上げていく。そして、その光の動きとともに……エレノアの呼吸も深まり、ゆっくりと唇の間から吸ったものが抜けていく。

「……」

明るい中で目にしたカンバスには、見慣れた――けれども、それよりはるかに色彩豊かな、若い恋人たちの姿が描かれていた。

 おぼろげで、でも、どこまでも優しい筆致。

 どこか見覚えのある庭には淡い色の花があふれ、その繊細な色の重なりが光となって、空にさえその色を滲ませている。その光に混じるように、祝福の花を持ち、掲げるリリアンの花の精霊たち。その中で寄り添う恋人たちにはそれが見えていないのかもしれない。だが、それでも二人の行く末の幸せが、自然と胸のうちに像として結ばれて――描かれた。

 生きている。このカンバスの中で、恋人たちはほほえみながら寄り添い、祝福の中で生き続けていく。

 エレノアには絵を賞する趣味もない。知識として城の中にある絵画の歴史や様式などを知ってはいたが、本当はこんなにもみずみずしいものなのかとただ思った。それは時が経ても変わらない。きっとこの部屋を出て別の絵画を見たら、今までとは違ったふうに見えるのだろう。

 執着ともいえるほどの筆の動きに、生を感じて。

 言葉なく、ただ詠嘆するしかできなかったエレノアの隣に、ヴァイスが並ぶ。

「帰ったら、また手を加える。でも今日まで一緒に過ごしてきたあんたに、今日までの二人を見てほしかったんだ」

「……」

「……おい。なんとか言え」

「……なんて言っていいのか、言葉もでません……」

「……十分だ」

目頭が熱くなるのを感じれば、小さく「泣き虫とうもろこし」という呟きが聞こえてきたが、今ならば許せる。

 二人はしばらくそのままカンバスを眺めていたが、廊下から人が起き出す気配を感じると、ヴァイスは机からスケッチブックを取って途中から開き、エレノアに手渡した。

「中を見て、良さそうなのをあんたが選んでくれ。安い額にでも入れて、リリアンの手紙と一緒に送ってやろうと思ってな」

「え? ――あ……」

示された場所から一枚ずつページをめくっていくと、そこには、城で過ごしてきたフィオレロとリリアンの絵が何枚も何枚もあった。

 一人で描かれているものも二人で描かれているものも、城の誰かと描かれているものも。笑っていたりはにかんでいたり、困っていたり物思いに耽っていたり。エレノアの知らない表情もたくさんある。

 それを見ているうちに、エレノアは自分が馬鹿馬鹿しく思えてしまった。

「……わたしが口を出す必要なんて、これっぽっちもないじゃないですか。ちゃんと、わかってるんだから」

「なにがだ」

「ですから、忘れられない恋が」

「いや、さっぱりわからん……こんなもの答えがないだろう。自分なりに落とし込んではみたが、正直あんたの反応でほっとした」

「本当に、絵以外は駄目な人なんですね」

「それは褒めているのか貶しているのか」

「どっちもですけど」

「お前が一番、俺を客人と思っていないな」

悪態をつかれて、しかし今はそれさえ楽しかった。

 スケッチブックを二人で何度か見返して最後に決めたのは、フィオレロと二人、庭の花を愛でながら語らっている絵。まだ祝福された笑みではないけれど、残された者の心が安らぐような、穏やかなほほえみの。

 そのページの片隅に、ヴァイスはサインを落とす。

「俺がいない間、カンバスの方はこのまま乾かしておいてくれ。それと、触らなければ自由に見てくれて構わない。乾いたらまた――他のと同じように色を重ねてしまうから」

「え――」

「次の絵を描くときは上から新しく描くか、全部削る。そうやって何度も何度も、カンバスに描き込んでいく。俺の心も、俺が見てきたものの心も。それを重ねるごとに、カンバス深くに――広がっていく。このカンバスは、やっと一回目だ。まさに『初恋』だな」

「……」

 ならば他のカンバスは、何回それを繰り返したのだろう。目の前の男は何度このカンバスに心魂を込め、削り、向き合ってきたのだろう。こんなものに、完成などないのではないか――。

 それは自分が考えているより、ずっと壮絶に思えた。

「……丁重に、お預かりいたします」

エレノアは姿勢を正し、深く静かに、頭を下げる。心からの――敬意だった。

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