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店はこの辺りでは一番大きな雑貨屋で、食料品をメインにあらゆる物を細々と仕入れ、棚に詰め込むようにして販売をしていた。フィオレロも初めて見る販売形態だったが、そのほとんどは旧市街の人間から仕入れているもののようだ。店の主人は人がいいというのか、衣食住に関わるものは大抵受け入れてしまうらしい。少女もまた、自らが育てた花や花蜜を持ち込み、買い取ってもらっているのだという。
店の名前は奥さんに由来するものらしいが、フィオレロはその名前を知らない。子供たちは皆、旦那様とおかみさんで通していた。
中に入れば、すぐに店番をしている主人と目が合った。訳を話して拾った分の花蜜の代金を支払い、下働きの子供たちのための菓子を求めれば、主人は深々とため息をついた。
「お前さんがエスタシオンのお坊ちゃんじゃなきゃ、俺はわりと良いとは思ってるんだぞ。だけどなあ、なんで畑まるごと潰しちまったかねえ。昔は俺も似合わないなりに、かみさんと花見ながらデートしたけどなあ」
「……申し訳ありません」
「お前さんに謝られてもな。今さら、済んじまったことはしょうがないんだろうが――ちょっと待て、釣り銭が足りねえ。家中から小銭かき集めるから待ってろ」
「度々すみません……」
次からは細かい額の貨幣を持ってこようと思いつつ、ふとあることを思いつく。
「あ、いえ。お釣りは結構です。その分、代わりになにか……」
「駄目だ、旧市街でそういう考え方はやめろ。それは金持ちの道楽の施しだ、俺たちは別に物乞いじゃねえ。足の立たねえジジイだって、手ぇ動かしてできることをできるだけする。足りねえ分はお互い様ってやつで何とかするが、金が余ってるやつは、本当に欲しいもんがあったとき気前よく使ってくれりゃいいんだよ。たとえばこのクッキーを、一人一つから二つにするとかな。その方がこっちも気持ちいいだろ」
「本当に欲しいもの……ですか」
倍額のクッキーの代金を払い無事に釣り銭を受け取ったフィオレロは、店をぐるりと見回す。少なくとも、幼い頃の自分ならきっとここは心躍る場所で、あれが欲しいこれが欲しいと無邪気に親にねだったことだろう。
しかし今は、欲しいものが思い浮かばなかった。自宅に帰ればきっとなんでもあるし、自分から求めることはない。強いて言うなら、ここを訪ねるのに目立たない服が欲しい。一番地味なものを選んではいるが、なぜかいつも少年たちに見つけられる。こうなるまでは花のことばかり考えており、服などあるものを着ればいいという感覚だったので、服装についてはひどく疎い。
「……欲しいものがわからないときは、どうしたらいいでしょう」
「んなもん貯金でもしとけ。――と言いたいところだがな」
主人は紙袋いっぱいのクッキーを苦々しく見つめると、再びため息をつく。
「待ってな。うちのガキどもに良くしてくれた礼に、一回だけ気ぃ利かせてやるよ」
やれやれといった感じでカウンターから出ていった主人は、店の中でも一番日当たりのいい奥の窓辺の方へ向かう。窓は少しだけ開けられていて、午後の呑気そうな空気が、ちらちらと埃をきらめかせていた。かすかに水音が聞こえる。商品棚に遮られて、主人が何をしているのか窺い知ることはできなかったが、何か水を使う作業をしているようだった。
「俺の保水処理は適当だからな、すぐ水に浸けてやんな。――って、こういうことはお前さんの方が詳しいか。わざわざ言うこっちゃなかったな」
「それは――」
ややあって、戻ってきた店の主人の手に握られていたのは、あのときに見た小さな花束――あのとき老夫婦が少女から求めたものと同じ、薄紙に何種類かの小花が包まれただけの、簡単な花束だった。珍しい色でも咲き方でもない。ともすれば野の花にも見間違えられてしまいそうな、素朴な。
「花蜜の方はガンガン売れるんだが、部屋を飾ろうって余裕のある人間はまだここらじゃ少なくてな。祝い事のある家くらいしか買ってかねえんだ。――お前さんも、いらねえか」
「あ……」
問われて、フィオレロはゆっくりと頭を横に振る。そして、主人から差し出されるままにその花束を手に握りしめた瞬間――自分では留めようもないほどに熱いものが、胸の奥からあふれてきてしまった。
なんだか自分が無性に情けなく思えて、どうしようもなかった。代々、誇りを持って植物と向き合い花農家を営んできたエスタシオンの姓を持つ自分が、最後に花を握ったのがいつだったか、もう思い出せもしない。昔は父の土にまみれた節くれだった手が好きだったのに、今は白く肥えるばかりの手になってしまったことがただただ悲しかった。でもそれは自分も同じで、なぜこんなことになってしまったのか、自分はこれからこんな手で何をして生きていけばいいのか、何もかもがわからない。それが怖かった。怖くて怖くて見ないふりをしていたら、もっと悪い方に変わっていく。心ある友人たちはただ静かに離れていってしまい、それでもまだ関わってくれる人たちは、皆悲しそうな顔をしていた。両親は笑っているのに、家にいる知らない人たちも笑っているのに。――頭がおかしくなりそうだった。
こんなどうしようもない自分を、誰も何も責めない。それどころか、ここの人たちはありのまま自分に接してくれた。なんの気兼ねも打算もなく話してくれるのが嬉しかった。あんな宝石より、御殿より、今手の中にある花束の方が、ずっときらきらとしていて、優しくて、綺麗だ――。
それは、あの花蜜石の鉱脈が発見されてから、ずっとフィオレロの中に堰きとめられていたものだった。床に崩れ落ちて、心の底からあふれるままに、泣きながら吐くようにそんなことを叫んでいたら、ふと優しく背がなでられた。
「ごめんなさい」
聞いたことのない少女の声。
「私は、あなたのことを誤解していたみたいです。……ごめんなさい」
「君は……」
「私の好きなものを、大切なものを踏みにじったあなたが、なぜ私を訪ねてくるのか、わかりませんでした。あんなにも美しかった花々をめちゃくちゃにしてしまったあなたは、自分たちの利益のためだけに人々の暮らしをめちゃくちゃにしてしまったあなたは、きっと悪い人に違いないと思って――大嫌いでした。あなたが貴族のお金持ちの息子だからって、引き合わせようとする人たちも、すごく迷惑。だから旦那様とおかみさんには私の気持ちを話して、顔を合わせなくていいようにしてもらっていたんです。でも、そもそも最初から全部、違ってたみたい」
「……」
「一番、本当に苦しかったのは、あなただったんですね……」
誰にも知られず、独りで頑張るのは、辛かったでしょう。
そう言葉をかけられて、フィオレロはようやく自分が限界まで来ていたことに気付いた。自分が愛していたもの、自分の人生の根本になっていたものを潰され、失い、それでも諦めきれなかった。けれどそれを知られてしまえば、また壊されてしまうかもしれない。潰されてしまうかもしれない。だから心を殺して、何も知らないふりをしていた。けれどそれでもなお、血と魂に刻まれていた想いは消えない。一歩を後ずされば堕ちていくところで、いっそそうすれば楽になれる場所で、ずっと耐えてくれていた。
自分が本当に欲しかったものはかつて、当たり前のように近くにあったもの、ただそれだけだった。
ようやく嗚咽も止まって顔を上げると、ハンカチが差し出された。水や草の汁で荒れた手。キャラメルのような、甘やかな色の波がかった髪の下で、鳶色の瞳がやわく笑む。
ふんわりと温かく、甘い香りがした。
「はじめまして。私は、リリアンといいます」




