第五話 本気ケンカ ①
ラムダとオメガの間で言い争いが起こった際、二人は本気バトルの決着で今後の行動を決めている。では本気バトルの間、二人は本当に自らの本気を出しているのか。答えは『否』である。もし二人が実際に拳と魔法を交わし合い、互いの一切を存分に喰らい尽くすと、獄炎がアスフォーダル全域に及び、至る場所に巨大なクレーターが出来上がる事を彼らは理解しているからだ。
しかし現在、二人がいるのはアスフォーダルから遠く離れたリフォスト。もし二人がこの遠方の島において本気バトルを行う場合、集落の人々や島の自然を守ると言う名分が消滅し、本当の意味での『本気』バトルがこの地に刻まれる――。
南の島に群生する巨大都市。その一角にて対立するラムダとオメガ。聳え立つ摩天楼の足元、赫星のノームが照らす夜影の中、二人の視線が重なり合う。
最初に仕掛けたのはオメガであった。彼は地面を蹴り飛ばし、ラムダ目掛けて一直線。一撃目を入れる直前に拳を握り直し、狙い定めるは彼女の胸元。オメガの拳が自らの胴体に入る直前、ラムダが選んだ逃走経路は『空』であった。彼女の足元が地面から離れ、全身が空に曝け出される。しかしそれは、例えば跳躍と言う言葉に表される様な動的で一瞬の物ではなかった。ラムダは十メートル程上空にて宙に浮かび、そしてそこで佇んでいるのだ。その手には杖を、その瞳にはオメガを。ラムダの背景に伸びる建物からの光は彼女の前面全体に影を作り出し、翡翠色の両目が強調されて見える。夜に揺らめく冬風は彼女の髪を靡かせ、いつになく不気味な雰囲気を感じられる。
「……そんな事出来るようになったのかよ」とオメガ。
「これも本から学んだんだ」
見下すラムダ、見上げるオメガ。二人の間で再び視線がぶつかった瞬間、周辺の建物に異変が訪れた。全ての街灯と摩天楼の灯りが一斉に消えたのだ。突如何の音もなく消え去った光は、まるで街そのものが死んでしまったかの様であった。街の音もどこか遠くに消え去り、白い星々が空の上に現れる。もはやラムダとオメガは互いの姿すら視認できなくなり、人も車もない静寂な都市の片隅にて、二人は暗闇の中で一人になった。
「あのクソ野郎、何かコソコソやってんな……?だが無駄だ」
オメガがそう呟いた瞬間、その場に訪れたのは暗闇を切り裂く燎火の焔。彼の肉体を媒体として燃え盛り、全身をくまなく覆い尽くす。頭、肩、腕、指先――至る場所から火の筋が空へと湧き上がり、そして空気を掻き乱す。熱は光へと科学変化し、近くの景色は水面の様に揺らめく。時折流れる風は炎の羽衣を一斉にあおるが、次の瞬間には再び体に張り付く様に戻ってくる。
ラムダは彼の様子を見て思わず息を呑んだ。冷や汗が頬を伝い、瞳孔を広く。彼女は咄嗟に声を広げると、
「オメガ、それはダメだ!」
「言っただろう……これは『本気バトル』だぞ」
そう言った瞬間、オメガは跳んだ。地面を蹴り飛ばし、ラムダ目掛けて一直線。その速度は普段の彼をも遥かに凌駕する程であり、残像の一つすらも認識出来ず、もはや目で追う事すら不可能であった。
炎の羽衣はオメガの魔法の一種。自らの肉体を着火する事により心拍数を急激に上昇させ、それにより自らの五感を強制的に向上させる。皮膚と筋肉は限界まで硬質化、肥大化し、嗅覚と聴覚は極限まで研ぎ澄まされる。それはオメガがサイエンとの戦闘中に編み出した魔法。オメガは元々ラムダ以上に魔法の才を秘めていた。しかしそれは、飽くまで魔力総量と魔法放出量の二点においてのみであった。つまり彼はラムダを遥かに凌ぐ魔法の威力を放つ事が出来るが、その細かい制御が不可能であったのだ。それ故オメガは苦悩した。詳細な魔法の制御が不可能なのでは、ラムダやサイエンと言った強者との戦闘においては役に立たず、何より一切関係の無い他者にも火の粉が降り注ぐ危険性が非常に高い。それ故オメガは編み出した。マクロを極め、次はミクロへ。炎の羽衣はその終着点。莫大な魔法を他者に放つのではなく自己の中で完結させる。オメガはサイエンとの戦闘で初めて使用した魔法を、二度目の実戦にて使用可能な練度にまで磨き上げたのだ。
ラムダは急いで防御魔法を展開しようとしたが、その時には既に手遅れであった。丸められたオメガの拳はラムダのみぞおちにのめり込み、彼女の体内に入り込んでいく。その度にメキメキメキッ、と骨が粉になっていく音が鳴り響き、彼女の顔は段々と苦痛に歪んでいく。遂に耐えきれなくなったラムダは後方へと吹き飛ばされ、後ろにあった高層ビルの九階の窓ガラスへと。パリン、と割れたガラスと共に彼女はビルの内部に激突した。急いで体を起き上がらせるとそこはオフィスビルであったようだ。木目の床の上で似た様な見た目の白いデスクと黒いチェアーがあちらこちらに散乱しており、窓ガラスが置かれた壁以外の面にはモダンな白い壁が。
ラムダは杖の先を窓ガラスの方へと向けた。暗黒の都市の中では炎を纏うオメガは相当目立つ。だから窓の向こう側が光った瞬間魔法を放てば――その瞬間、彼女の足元が赤白い光を放っている事に気が付いた。下を見てみると、彼女を中心とした半径約三メートルの床がひび割れていた。そしてその隙間から漏れ出ているのは灼熱の溶岩。それはラムダがその場を離れるよりも圧倒的に早く、彼女の顔面を真っ赤に照らすと一瞬にして噴火を引き起こして大気圏まで昇り上げた。そのビルは穴という穴から炎を吹き出し、外縁の鉄骨は余りの灼熱に姿を歪める。
絶え間なく変化を続け、人類に根源的恐怖の一片を呼び起こす炎。それは遠くから眺めるとまるで一種の華の様でもあり、それが引き起こした振動や轟音とは完全に真反対な美しさを兼ね備えている。
基盤となる大地まで溶岩に灼かれたその建物は徐々に自らを横に倒していき、数秒後には最後の一息と言わんばかりの土埃と怒号を吐き出して倒れた。暗闇に佇むバーレーンの中で、その荒廃したビルだけが確かに暖かな光を放っているのだ。ビルを基盤に芽生えた炎の花は、遥か上空、宇宙空間にて巨大な花弁を開いている。
そんな炎が消え去るのは意外と早かった。三分を待たずして、その花は火の星を残して温帯低気圧に成り下がったのだ。横たわったビルの上、そこで相まみえるラムダとオメガ。再び暗闇に覆われた世界の中では、上空から降り注ぐ火の粉はまるで燃え盛る雨の様であり、深く沈んだ二人の瞳を仄暗く照らしている。鉄の杖をオメガに向けるラムダ。炎の羽衣を纏うオメガ。二人の距離は十三メートル。それより遠くも、近くもない。二人とも理解しているからだ。もし片方でもその間合いを犯そうものなら、再び先程の様な攻防が始まると言う事を。オメガは羽衣の火力を一段階上げると、
「ラムダ、俺は本気で行く。お前も……己の本気を見せてみろ」
「……断る」
ラムダの杖が白く発光を始めた。光は杖先に集まり、そして放たれる白光の一閃。それは赫の稲妻を帯びており、それはつまり彼女の魔法が宇宙膨張速度に達したと言う事である――オメガは、そんな魔法を片手で弾いた。それは例えば、道端にいる蚊柱を追い払う様な、服に付いた髪を払い落とす様な、それ程にいとも容易い行動であったのだ。彼はがっかりだ、と言わんばかりの溜め息を一つ付くと、
「あれも嫌だこれも嫌だ……そう言うお前のわがままな所が大嫌いだったんだよ」
オメガは両手の平を体の前で重ね合わせると、指先をラムダの方へと向けた。すると彼の手と手の間から漏れ出る炎は花弁の様に開いては閉じ、その度に発する光も徐々に大きく。
炎の魔法を扱うマーナは通常、杖含む補助具ないしは手の平から魔法を放つ。それはオメガも同様である。しかし彼がそれを放つ先は自らの手の平。彼は自らの魔法を、自らに放つのだ。そして彼はその魔法を自らの腕力を以てして強引に手の平の中に密閉、圧縮する。確かに時間は掛かる。だがそれを解放した瞬間の火力は、彼が持つ他の攻撃方法とは比にならない。炎の羽衣をミクロの極地とするならば、これはマクロの極地。
「構えろ、火力勝負だ。真っ向勝負で、捩じ伏せてやる」
自らの魔法に目を光らせるオメガを見て、ラムダはそっと目を閉じた。すっと息を吐き、そして吸う。数刻後、瞼を上げたラムダの瞳は、やけに翡翠色に輝いて見えた。
「分かったよ、根負けだ。殺す気で行くから、死なないでね」
ラムダは自分の杖を強く握りしめると、それをオメガの方へと向けた。するとその杖先には太陽光を浴びた氷の様な青白い光が発生し、キーンと耳をつんざく音と共に徐々に大きく。
核分裂。それは例えばウランに代表される原子核を持つ原子に中性子を当てた際、その一つの原子が一瞬の内にして複数の核に分裂を繰り返す事象。その際に発生する熱は他に肩を並べられる化学反応が存在しない程に膨大な物であり、それ故バーレーン含むリフォストの巨大都市では、それを応用して発電用熱源として利用している。ラムダは自らの魔法の向上を図った際、この反応に目をつけた。ただ自らの体内を巡る魔力を炎魔法に変換して体外に放出するだけでは効率が悪い。もし空中に漂うウランを刺激し、この核分裂反応を意図的に引き起こす事で放熱が可能になれば、より多くの魔力を温存可能である。しかしそれは上手く行かなかった。ウランを刺激する事は出来た。莫大な熱を発生させる事も出来た。しかし、その熱は一瞬をも待たず空中に霧散してしまったのだ。それでは熱を一箇所に留めて他者に放つ事は出来ない。諦めかけたその時、ある一つの事に気が付いた。発生する熱があると言う事は、奪われる熱もあるのではないか。つまり、核分裂を起こしたすぐ周辺には冷却された空気も存在するのではないか。その後は早かった。核分裂を引き起こし、熱暴走を誘発する。その直後に現れた冷気を一箇所に集中させると、その温度は摂氏マイナス273.15度――全ての運動が停止する絶対零度に達していた。
「燃やし尽くせ」
「凍り尽くせ」
灼熱と冷却。二つの魔法が交わった瞬間は、案外静かな物であった。空気の振動と言う現象が、熱と冷気の狭間にて完全に活動を停止したからだ。
次の瞬間、衝突点が白く爆ぜた。オメガの手の平から解放された炎は花弁の形を保ったまま一気に開花し、槍の様な芯を伴って前へ突き出た。対するラムダの杖先から放たれた青白い冷気は光を帯びた刃と化して空気を切り裂き、触れた物体の熱を奪い尽くす。両者が噛み合った地点では互いが互いを拒絶し合っている。しかし押し切れず、引き切れず、その場にて止まり続けている。
膠着状態。両者の魔法が交わって五秒が経過したが、未だに炎が氷を溶かし切る事も、氷が炎を覆い尽くす事もない。炎は炎のまま、氷は氷のまま互いを喰い合っているのだ。そして十秒が経過したその時、二つは回り始めた。炎は元来上へ逃げようとする性質を持っている。冷気は元来下へ沈もうとする性質を持っている。その二つの性質が正面衝突した事で行き場を失い、その結果螺旋に捩れて漏れ出したのだ。その結果、まるで二匹の蛇が同じ柱を巻き上がる様に、二つの相反する風が一本の竜巻へと統合される様に、炎は赤金の帯、冷気は青白い帯となり、衝突点を中心に螺旋を描きながら立ち上がった。下部では濃い赤と深い青が絡み合い、上へ行くと白が強く。螺旋の縁からは細かな火の粉が星の様に散り、それと同時に霜の粒が針の雨の様に飛び散る。塔の内部では光が折れ、空間が歪み、景色は水面の下の様に揺らめく。
炎と氷の螺旋が膨らみ、縮み、そして再び膨らむ。その度に周囲の街にも影響が。路地は灼熱に赤く焼け、次の瞬間には青白く凍り、パキン、と乾いた破裂音を立てて亀裂が走る。看板の金属文字は片側だけ赤く歪み、しかし反対側は凍りながら運動を停止した。熱波が外壁を舐める事でガラスを膨張させ、冷気が瞬時にそれを収縮させる。耐え切れない窓は合図を受けた様に連鎖して割れ、火炎と雹雨の台風に巻き上げられた。
二人の魔法は止まらない。業火と砕氷の狭間にて夜嵐は暴れ回り、それに釣られた天雷が怒り狂う。それはもはや『魔法』と言う枠組みを超えていた。天災であり災害。半径百メートルの地表は残さず禿げ上がり、炎と氷と雷の異様な輝きだけが天へと降り注ぐ。物体が発火したかと思うとすぐに氷に覆われる。
そんな天変地異の中心にて、ラムダは魔法を放ち続けていた。もはや数センチ先の視界すらも魔法に阻まれ、どちらが優位に立っているのかすらも彼女には分からなくなっていた。魔法の量、質に関しては同等。つまりこの魔法の力を維持したまま、いつまで放ち続ける事が出来るのかと言う持続力の問題になっている。そしてその点において、彼女はかなりの自信があった。ウランを刺激する。冷気を集めて放つ。それに要する魔力は魔法への変換に要するそれよりも遥かに少ない。つまりオメガの方が早く息切れをするはず――その瞬間、ラムダは目撃した。混ざり合う炎と六花の竜巻を物ともせず、こちらに向かって飛び込んでくるオメガの姿を。彼は自らに降り注ぐ二つの魔法を歯を食いしばりながら受け止め、全身からは血を垂れ流している。
彼は勢いそのままラムダを押し倒すと、彼女の背中に硬い瓦礫の感触が突き刺さる。オメガは彼女の杖に手を掛け、そのまま彼女に覆い被さったまま杖を投げ捨てようとしたが、ラムダも負けじと杖を握りしめている。二人の間に挟まれた杖は、ただの金属ではない。互いの意志その物の様に震え続ける。握力が拮抗し、骨が軋み、呼吸が喉で擦れる。顔が近い。吐息が相手の頬を撫でる距離で、それでも互いの瞳だけは逸らさない。
ラムダは補助具を通して魔法を放つ。それは魔力の変換効率の為であり、魔法の指向性の為である。その為、本来ならば補助具は無くともオメガの様に魔法を放てるはずなのだ。しかしラムダは自らの杖に依存し過ぎていた。もしこの状況にて彼女が杖を失うと、オメガと同等の威力を放てなくなる可能性が高い。その点にオメガは目を付けたのだ。
「ラムダ、良い加減……気付け……!!サイエンはお前を騙そうとしている!俺と一緒にアスフォーダルに戻れ!世界は滅ぶかもしれないが……俺と、お前と、村の皆だけなら俺達で守り通せる……!」
「絶対に嫌だ!私は強い!私なら世界を救える!その後はこの大陸でもっと見た事無い物を見て回るんだ!あんな、つまらないだけの……何にも無い島には戻らない!」
火の粉が雨の様に降り続け、露出した肌に小さな熱が刺さる。だが二人はそれすら意識しない。押し、引き、また押す。オメガも、ラムダも、両者ともいつに無く全力であった。それは肉体と肉体のぶつかり合いであると同時に魂同士の衝突でもあったのだ。二人とも獣の様な雄叫びを上げながら押しては引き、力の限りを尽くしている。
しかしラムダの力が若干緩んだその瞬間、オメガは不可視の空間その物に弾き飛ばされた。彼はそのまま五メートル程飛ばされ、背中が瓦礫に当たった瞬間、肺から空気が漏れ、耳鳴りだけが世界を支配した。数拍の間、全てが遠くなる。鼻からは血が流れ出し、喉から苦痛に悶える音が漏れ出る。それはまるで空気その物から打撃を喰らったかの様な奇妙な体験であった。そしてオメガにはその奇妙な体験に思い当たる所があった。
そのままゆったりとした足音と共に姿を現したのはサイエン。彼は周辺の空間を水面の様に歪ませながら、
「そこまでにしてもらおう。それ以上街を破壊されると復旧に時間がかかる」
ラムダは急いで体を起こすと杖先をオメガに向けた。杖を固く握り、疲弊した瞳で彼を捉え、肩を上下に揺らしながら、
「オメガ、一人で帰って」
オメガはふらつく足元をなだめながら体を起こした。その瞳に映る敵は二人。冷えた空気の中、拳を握りめながら一歩、ラムダとサイエンに近付いた。しかし、既に彼の体は限界を迎えていた。視界はどこにも焦点が合わず、背景と二人の線が曖昧に。手は震えが止まらず、足は一歩前へ行く事を許さない。息切れした体は倦怠感に見舞われ、鼻血は止まりそうに無い。
戦闘不能。それはつまり相手の勝利と言う事。それが意味する物は――。
オメガは下唇を強く噛み締めると、熱を帯びた両目でラムダを見た。眉は八の字、瞳の中で光が滲んで見えた。喉は細かく何度も震え、口の奥からは声を押し殺した音が聞こえてくる。
「俺は……お前を諦めたりしない……」
オメガはそう言い残すと、闇夜の向こう側へと消えていった。
闇へ消える背中は、敗走と言う言葉では片付けられない程に重かった。足取りは乱れ、肩は小さく揺れ、それでも振り返らない。振り返ればそこで終わってしまうと、彼自身が知っているからだ。
残された空間には焼けた匂いと冷えた風と、取り返しのつかない沈黙だけが積もっていった。




