第二話 魔獣 ②
戦闘開始から僅か三分。現在、その場に残されているのは五体満足のラムダとオメガ。そして圧倒的格上に翻弄され、そのまま息絶えた九体の亡骸。ある者は四肢を引き千切られて死に、ある者は臓器を一つずつ引き出されて死に、またある者は塵一つこの世に残せず死に絶えた。倒木の軋む音も、最後の断末魔も、もう無い。あるのは血の生温かい匂いと、肉が土に吸われていく湿った音だけだった。さっきまで暴れていた獣達の重い呼吸がまるで嘘だったかの様に途切れている。熱を持った空気が静かに落ち着き、森は本来の静寂を取り戻そうとしていた。
「他愛もねえ雑魚ばっかだったな」
「そうだね」
二人はそう言いながら、再び目的地である超巨大樹の方向に顔を向けた。
彼らが戦闘を行っている内に霧はどこかに消え去っており、森はすっかりと静寂に包まれている。森の陰で牙を研ぎ二人を襲いかかる術を考えていた魔獣達も、今では尻尾を巻いてどこかに逃げ去っており、すっかりと澄み切った空気だけが残されている。
これでしばらく戦闘をしなくて済むだろう――そう考えていたオメガの耳に、とある足音が入ってきた。
ザッ、ザッ、と葉を踏み土を掘る様な、砂利の上を歩く様な足音。それは明らかにこちら側に近付いてきており、一拍毎にその音が大きくなっている。足が地面を掴むたびに湿った土が潰れ、葉脈が裂け、微かな砂利が転がる。音の輪郭が妙にくっきりしていた。それと共に周辺には腐った生肉の様な腐臭が漂い、鼻腔にその臭いが付着する度に吐き気が増していく気がする。喉の奥にぬめる様に絡みつき、息を吸うほど胃が持ち上がる。舌の上に鉄と腐敗が混ざった様な味まで滲んできて、呼吸が浅くなる。
先程の戦闘を盗み見ていた他の魔獣達は皆逃げ去った。つまりこの魔獣は先の戦いを見ていなかった薄鈍か、もしくは見ていた上で自分達に挑もうとしている強者か。
ラムダもオメガも気付けばその歩みを止めていた。固唾を飲み込み、その足音が姿を表すのを待っている。ザッ、ザッ、と足音は大きくなり、高い湿度が肌を撫でる。自然と一筋の汗が頬を流れ、二人の視線はその足音に固定されている。瞬きの回数が減り、瞳が乾く。
そしてすぐ近くの茂みが音を立てたかと思うと――遂に魔獣が姿を現した。
ラムダとオメガがその魔獣の姿を認めた瞬間、思わず息を止めてしまった。殴られた様な衝撃を頭に受け、真っ白なノイズが脳中に充満する。中途半端に開かれた口に大きく開かれた瞳。二人とも時が止まったかの様にピクリとも動いておらず、ただ唇のみが小刻みに震えている。
匂いが記憶の底に刺さった。腐臭ではなく、それに混ざったあの日の湿った獣の熱。土の匂いの奥に潜んでいた血の乾いた甘さ。目の前の異形が、視界の情報より先に心臓を殴ってくる。
そんな彼らも魔獣がもう一歩距離を詰めた瞬間、後ろに地面を蹴ったが、未だにその表情は崩れたままだ。後退の一歩が遅れる。体は反射で逃げたが、思考がまだ追いついていない。
「……オメガ、冷静にね」
「ああ……分かってるよ」
二人の前に現れたのは、まるで真っ黒な影を頭から被った人間の様な魔獣。しかしその両腕は木の枝に侵食されており、鳥の様なくちばしが顔面に縫い合わされている。両目はフクロウの様に丸く、瞳をギョロギョロと動かしながら二人を観察している。地面に落とされた魔獣の影すらも異形の見た目をしており、吐き気を催すその腐臭は、ラムダとオメガに十二年前のあの日を思い出させるのに十分過ぎた。強者としての二人の原点、それが彼らの心に刻まれた日を。
その魔獣の歩き方が、人間のそれに近いのが最悪だった。四肢の角度も、重心の乗せ方も、どこか『こちら側』の理屈で出来ている。なのに目は獣で、口は鳥で、腕は木だ。異形の継ぎ接ぎが、逆に『作られた』気配を漂わせる。二人の胸の奥が冷える。怒りでも恐怖でもない。それはもっと粘ついた感情。言葉にする前に、体が敵だと決めている。オメガの指が無意識に開いて、また骨が鳴りそうなほど強く握り直す。
鳥と人間が醜く混ざり合った様な魔獣。ラムダとオメガが彼の様子を離れて見ていると、その魔獣の姿が徐々に歪み始めた。魔獣と地面の境界線が絵の具の様に溶けていき、木陰の中に彼の輪郭が吸い込まれていく。輪郭の次は色が溶け、最後に質量が溶けていく。目が追っているのに、追うほど距離感が壊れていく。空気が一枚、いや二枚、膜を重ねたように厚い。光もそこで緩やかに折れ曲がっている。狂った遠近感の中で遠くにある物が膨らみ、近くにある物が縮んで見える。それはまるで砂漠に浮かぶ蜃気楼の様な、水の入ったコップを通して見た世界の様な揺らめきであった。
そして魔獣が人差し指以外を折り曲げてラムダとオメガを指差した瞬間、そんな歪みが徐々に指先に集まり始めた。すると汽笛の様な音がどこからともなく発生し、蜃気楼はその濃度を増す。耳を叩くというより骨を震わせる音。鼓膜の奥で鳴っているのに、外から聞こえる。腹の底が共鳴して、視界の端の木々がじわりと伸び縮みし始める。距離が勝手に変わって、足場の感覚が信用できなくなる。
空間はより激しく波打ち、耳をつんざく音は更に大きく。風も唸り声もないその空間においては、その揺らめきが巨大森林の異変を詰め込んでいる様にも思える。遂に一点に収縮し切ったその歪みは、大きさにおいても、歪み方においても透明な飴玉の様であった。
「奇妙な魔法を使うね……でもその使い方は分かったよ」
ラムダは落ち着いた声でそう呟くと、その魔獣と同じ様に彼を指差した。少しの距離を空けながら指を差し合う二人。互いに感情一つその顔に見せず、行動一つその体に見せない。
騒々しい静寂が十秒程続いた。汽笛の余韻が耳の奥に残っているのに、森の音だけが戻ってこない。心臓の音が、胸の内側でやけに大きい。まるで体内が空洞になったみたいに響く。
その瞬間、再び空間が歪み始めた。物体の境界線が曖昧になり、全てが水中の様に。しかし今回は規模が違う。二人の真ん中を中心として半径五メートル。その範囲にある木々は見えない何かに押しつぶされる様にミシミシと音を立て、地面には小規模のクレーターが。土が沈み、遅れて音がやってくる。地に落ちた木の葉は何かを避ける様に地面を滑り、歪んだ空間は更に範囲を広げていく。遂に近くの巨大樹が音を立てて倒れ、地面のクレーターは二人の足元にまで侵食を始めた。ガラスの空間を間に挟んだ二人にとってもはや互いの姿すら確認出来ない。
二人の腕が歪んだ空間に触れた瞬間、魔獣の腕が一人でに震え出した。それはまるで自我を持っている様に制御が取れず、枝が風に吹かれる様に揺れ動いている。
「砕けろ」
ラムダがそう言った瞬間、震えていた腕の関節が全て逆向きに折れ始めた。指の関節、手首、肘、肩――その全てが幹の折れた様な音を立て、カタツムリの殻に似た渦巻きを形成している。それと同時に指の付け根から真っ赤な血が吹き出し、湿った土に黒い点を作る。肘からは血と共に白い骨が姿を現し、温い鉄の匂いが立ち上がる。
いつの間にか歪んだ空間はどこかに消え去り、周りの空気と混ざり合ったようだ。今では澄んだ空気の中、右腕を失った魔獣が良く見える。
ラムダの真価は圧倒的な成長の速さ。初見の魔法を目の当たりにしてもほんの数秒でその魔法の扱いを理解し、瞬時に実践にて使用可能なレベルまで向上させる。魔獣が操る初見の魔法……『空間を歪める魔法』を間近で学習したラムダにとって、それは既に己の魔法でもあった。しかし――。
ラムダが魔獣に向かって一歩を踏み出した瞬間、自らの顔面がやけに暑く感じた。顔中の至る所から汗が吹き出し、頭が鉄塊の様に重たい気がする。意識がどこか遠くに感じられ、足取りは力無くフラフラと。
熱が内側から来る。火照りではなく、体内の液体が煮え立つような、頭蓋の裏側を叩かれるような熱。再び視界に写る全ての物体の境界線が曖昧になったが、今回は明らかに先程と理由が異なっていた。ラムダの両目の焦点が合わなくなったのだ。この世の全てが朧げになり、白い膜が眼球に張り付いている様に感じる。喉の内側に強烈な渇きがへばり付き、鉛の脳みそは頭痛へと変わり果てた。
その瞬間鼻からは鈍い血液が滝の様に溢れ出し、手で止めようとしても指と指の隙間からすぐに漏れ出てくる。血が唇に触れ、温度だけがやけに鮮明に分かる。
ラムダが魔獣に近付く直前、彼女の心に潜在していたのは慢心だった。彼の魔法には既に適応した。もう彼に自らを打ち倒すような力は秘めていないだろう――そう考えていた彼女を背後から刺したのは、第二の初見の魔法。
「ごめん……オメガ……」
彼女はそう言い残して地面に倒れた。伏した彼女の顔面から流れ出る鼻血は周辺を侵食し、世界を赤く染め上げる。血が土に吸われる速度が遅い。湿気のせいで、赤がいつまでも表面に残る。
意識を失いピクリとも動かないラムダを尻目に、オメガは駆けた。足裏が土を抉り、葉が弾ける。呼吸が荒くなるほど頭は冷える。そして左拳を握りしめ、魔獣の顔面目掛けて一発――魔獣は顔を拳一つ分傾けると、オメガの腕はそのすぐ横を通り抜けた。空振りの手応えが拳の骨に痛いほど残る。空気だけを殴ったはずなのに骨が軋む。
オメガは続け様に右肩、左膝、鳩尾を狙ったが、それらも最小限の動きで交わされた。避け方が無駄に綺麗だ。獣の避け方ではない。それは、戦いを理解している者の避け方であった。
「こいつ……俺の動きを読む魔法でも使ってるのか……?」
そう判断したオメガは、腰を落として地面に片手をついた。すると彼の周辺が真っ赤な蜃気楼に歪み始めた。湿気の膜が一気に蒸発し、喉が焼けるように渇く。オメガは大きく一息吐くと、その火力は更に強まり留まる事を知らない。
極限まで乾燥した大地の様にして地面はひび割れ、その隙間から姿を現したのは灼熱の溶岩。全てを歪曲させる蜃気楼はその濃度を増し、二酸化炭素の匂いが周辺を支配する。マグマから漏れ出た火の粉が周囲の木々に燃え移り、更にその炎が周辺に伝播していく。
あっという間に獄炎が魔獣を中心に取り囲み、四方八方が火の海に。息を揃えて大きくうねると、炎は津波の様に魔獣に向かって流れ出した。
「そのまま灼け死ね」
オメガは普段、魔法を使用しない。しかしそれは飽くまでも烏合の集に対してのみ。彼が強者と認めた相手には、魔法の使用は厭わない。
魔獣を軸に激突した津波は天高く打ち上がり、着水をすると同時に熱波を周囲に発した。稲妻の様な光が轟き、息を吸うと肺が熱い。熱が皮膚を殴り、髪の先が縮れ、まつ毛が乾く。それを契機に炎は徐々に弱まっていき、灼け焦げた匂いが周囲に残る。空からはぽつぽつと灰の雨が降り出し、黒く痩せ細った木々に降り注ぐ。灰は軽いのに、肌に触れると妙に重い。
「……死んだか」
しかしその瞬間、オメガは見た。硝煙の向こうから現れた、右腕以外一切の傷を負っていない魔獣の姿を。彼は一歩ずつ、確かな足取りを持って、オメガに近付いてきている。炎の海域が去った後の静けさの中、その足音だけがやけに鮮明に聞こえてくる。ザッザッザッと、さっきと同じ音が、さっきより近い場所で。
「……お前も炎の術士かよ」
殴打は全て見切られ、魔法は通用しない。常人なら八方塞がりに思えるその状況。
オメガは日々の修行を怠らない。しかし彼の潜在的な才能が花開く瞬間はいつも、決まって自らの命が脅かされる戦闘時である。
「侮るなよ」
オメガがそう呟いた瞬間、その場に訪れたのは燎火の焔。彼の肉体を媒体として燃え盛り、全身をくまなく覆い尽くす。頭、肩、腕、指先――至る場所から火の筋が空へと湧き上がり、そして空気を掻き乱す。筋肉の一本一本に熱が通い、骨が軽くなる。痛みが遅れる代わりに感覚が鋭くなる。鼓動は速く、視界は冷静に。
それはオメガ自身、初めて行う炎の使用方法であった。他者に魔法を放出するのでは無く、体内にて完結させる。確証があった訳ではないが、確信はしていた。これが上手く行くだろうと。
五メートルの間を挟み、直立する二人。片や自らの魔法で周辺の空間を歪ませ、片や自らの魔法で自らの肉体を燃やしている。
最初に仕掛けたのは魔獣の方だった。拳を高く上げ、オメガ目掛けて振り下ろす。しかしその時には既にオメガは魔獣の背後に回っていた。
即座に地面を蹴り飛ばした魔獣。彼はオメガから距離を取ろうとしたが、その時には既に手遅れであった。オメガが魔獣の腕を引き千切っていたのだ。彼の右腕が宙に舞い、鮮やかな血液が弧を描く。
本体から切り離された腕が地面に落ちるのと、魔獣が体勢を崩しながら着地するのは同時であった。痛みを堪えながら急いで顔を上げる――目の前にはオメガの拳が広がっていた。顔面いっぱいの衝撃と共に後方に吹き飛ばされ、木の幹に衝突した魔獣。間髪入れずにもう一撃入れようとするオメガ。彼は魔獣目掛けて跳躍し、再び魔獣の顔面に拳がめり込むその瞬間――魔獣の鳥の様な口が開いた。
それは全てを喰らわんとばかりに様に大きく開かれており、その口の中に広がっていたのは真っ黒な虚空であった。光も、空気も、色彩すらそこには存在しておらず、正真正銘の『無』が佇んでいたのだ。オメガはその暗闇を視認すると同時に、自らの意識がまるでブラックホールの様にそれに吸い込まれていく気がした。視界がぐらりと揺れ、天地の感覚が若干曖昧に。
これはマズイ気がする。少し距離を取らなければ。そう思考したオメガは体を無理矢理に仰け反りながら後方に下がった。そして体勢を整えた瞬間に気が付いた――魔獣がどこかに消え去っていたのだ。音もなく、一瞬にも満たない時間の中で。
いや、そんな筈が無い。彼の理屈が拒否する。ほんのコンマ数秒前まで、目の前の木にいた筈なのに。今ではそこには少し抉れた土しか残されていない。瞬間移動?時間停止?いや、そんな物は魔法の範疇を超えている。あり得ない。どこかすぐ近くに身を隠しているだけだろう。
耳を澄ませても足音はしない。オメガは急いで周りを見渡してみた――広域な焦土、倒れた巨大樹、深く抉れたクレーター、その側に魔獣の腕、土と混ざり合った黒い血痕。それらは今も確認できる。当然だ。しかし魔獣は?
見えるものが多すぎる。視界に情報が溢れて、逆に肝心な何かが隠れている気がする。もしかしたら自分は頭に血が上り冷静な思考が出来ていないのかもしれない。ここは一旦ラムダを叩き起こして今後の動きを――。
「……あ」
そして気が付いた。ラムダがどこにもいない。右を見ても、左を見ても、彼女の姿はどこにも。その瞬間、背中が冷えた気がした。炎が身体を覆っているのに、骨の奥だけが異様に冷たい。
それと同時に気が付いたのは、地面の血痕がどこかに続いていると言う事であった。魔獣がいた大木からクレーターを通り、遥か彼方の巨大樹の方向へ。中心部分は湿りながら光り、縁に行くに従い黒く乾いている血痕。血が引きずられた跡は、ところどころで途切れているのに、全体としては道になっている。森がそれを指差しているみたいに、やけに分かりやすい。
それは鳥を誘導する餌の様に一定の間隔で沈んでおり、魔獣の右腕から滴った物であろう事は想像するに易い。つまり魔獣は一瞬の内にラムダを連れ去り、そして超巨大樹の方向へ逃げ去った?もしラムダが未だに意識を戻していないとすれば、彼女はもう――。
オメガの脳内に彼女の死が掠めたその瞬間、彼は足元が見えない奈落まで崩れていく様な気がした。口が上手く閉まらず、呼吸が上手く出来ない。目頭は異様に熱くなり、呼吸の仕方すら忘れてしまった。膝はガクガクと振動し、両手もそれと共鳴する。視界の端が揺れ、音が遠のく。胃がねじれ、唾液が増える。吐き気と涙が同じ場所から湧いてくる。
まるで赤子が発する喃語の様な意味を成さない言葉が喉を震えさせ、両目の熱異常が段々と視界を歪ませていく――。
その後、オメガは歩いた。それはまるで生者を探すゾンビの様な、糸が全て切れた操り人形の様な足取りであった。魔獣の残した血痕を辿ってはいるが、それもいつまで続くか分からない。もし雨が降れば、他の魔獣が痕跡を上書きすれば、血痕などいとも容易く消え去ってしまうからだ。腹が減った。喉が渇いた。頭は酸素を欲しており、脚は休憩を欲している。だがそれがどうした事か。急がなければ。急がなければ。急がなければ。
歩くと言う行為が思考の代わりになった。足を止めれば想像が彼を殺す。だから歩く。血痕の線が細くなろうと、匂いが薄れようと、彼は足を止めない。森は何度も似た景色を見せ、方向感覚を奪い、彼の執着だけを試してくる。
周辺の魔獣は遠くからオメガを認識してはいるが、誰一人として襲いかかる気配は無い。皆がもはやオメガを生者として認識しておらず、比喩表現抜きで本当に死体が蠢いているだけだと思っているのだ。それ程までに彼の頬は痩せこけ、目元の隈は何層にも重なっている。その不確かな足取りは、確かに生者のそれよりも、死後硬直の様な死体が見せる反応に近かった。瞳の焦点は合わず、呼吸は浅く、体温だけが異様に高い。炎の名残りが皮膚の内側で燻っている。
それでもオメガは歩いた。血痕が示すその道を、何日も掛けて。頭上では何度も朝と夜が繰り返され、もはや脚が痛いのかすら分からない。一歩を踏み出す毎に脚はミシミシと軋み、半分自らの足を引きづりながら歩いている。空腹はいつしか激痛へと変わり果て、喉も渇きのあまり粘膜が側面にへばり付いているが、オメガは何も感じなかった。彼の頭の中にあるのは、ラムダとの思い出のみ――彼女と初めて会った時、ハイターの後ろに隠れる彼女の手を何とは無しに握ったのを覚えている。彼女に花の冠を渡した時、彼女が溢れそうな程の笑みを見せてくれた事を覚えている。彼女と南の浜に行った時、綺麗だねと言い合ったのを覚えている。
自然とオメガの頬に涙が流れ、不確かであった視界が更に不確かに。手で拭ってもすぐにまた涙が川を作り、彼の心から溢れ落ちていく。
もう、終わりなんだ。オメガは悟った。この血痕は途切れる事なく、あの世まで続いているんだ。だから進んでも、進んでも、この血痕は終わる事が無い。でもこの血痕が俺をあの世まで導いてくれて、そこにはラムダがいる。あの世の入り口で、彼女は俺を待っているんだ。それで俺を見つけると、遅いよとか小言を垂れて笑ってくれるんだ。だから、もう……。
その時、オメガは気が付いた。自分が遥か彼方に見えていた超巨大樹に辿り着いていた事に。その木は下から見ると見事と言わざるを得なかった。大樹一本を丸々飲み込みそうな程に太い根っこは地表を超えて大地を飲み込み、その上に立つ幹肌は谷の様に深く、荒ぶる波の一瞬を固定したみたいだ。その幹は手の平を当てると、人の鼓動程度簡単に吸い込んでしまいそうな程に冷たい。更に上に視点を動かすと、雲の近くで梢が大陸を作り上げている。遥か彼方で枝葉が雲の底面を梳いており、その超巨大樹の姿はもはや木ではなく、数万年の月日が作り出した城砦の様に感じられた。しかしオメガはその様な木に一切として気を取られていなかった。それよりも遥かに衝撃的な景色が彼の目の前に広がっていたからだ。
「何だ……コレは……」
……予想はしていた。アスフォーダル、リフォスト問わずこの世界に生息する魔獣達の多くは群れを形成し、明らかな知性を保有していた。ならば人間が集落を形成する様に、小さな鳥が木の中に巣を作る様に、彼ら魔獣達も自らの生活を営む住処を形成する事もあるのだろう。予想はしていた。可能性はあった。だがしかし、これは――。
彼の眼前に広がっているのは、都市であった。超巨大樹に負けずとも劣らない様な高さの建物群が、幹と幹の間よりも狭い間隔で身を寄せ合っている。彼らは皆が鋼とガラスでできた塔の様であり、天井へと際限なく伸びては雲の中に姿を隠している。塔の側面を覆うガラスは動物の鱗の様にひしめき合っており、天から溢れる光を反射しては深海生物の様な冷たい輝きを互いに見せつけあっている。そんな建物の足元では黒い川の様な道が直線を引いており、所々に白線が矢の列となり遠近を指し示しめす。風が吹いても彼らは一切さざめかず、ただ油と鉄の微かな香りが揺らめくのみだ。そんな建物が視界一面を支配し、オメガの前に立ちはだかる。森の終わりの向こうに佇む鋼とガラスの山脈。それは異常事態としてオメガの頭に警鐘を鳴らし、散漫としていた彼の意識を集結させた。
まずはこの街の実態を知らなければならない。どの程度の規模か、誰が住んでいるか、何の為にあるのか……その後はこの街が例の災害と関連があるのかを見極めなければ。それが終わったらせめてラムダの亡骸を――。
「こんにちは、オメガくん。ようこそリフォスト、そしてバーレーンへ」
その瞬間、オメガの背中に柔らかな男の声が落ちた。耳のすぐ後ろで空気が僅かに淀み、彼の体は思考を待たずして動いた。半歩退きながら振り返り、指先の構えを整える。振り返る途中で体が勝手に戦闘の形を作ってしまう程にまで、その声は不気味で、異質であった。
オメガの瞳に映ったのは、どこか仏を彷彿とさせる若い男。彼の顔は少し面長であり、縁の細いメガネはどこか彼の知性を感じさせる。細い一重の瞼の斜め下にはホクロが一つ。薄く閉じた唇の両端は上がってはいるが、とても笑っている様には見えない。後ろに流された長い白髪は肩の辺りまで落とされているが、不思議と不潔感は一切無い。服装は上も下も白を基調としている。上は長袖で前合わせの白ボタンであり、その左胸にはポケットが。下はストレートパンツと黒の革靴。
全体的に防御力も低く動きずらそうな服。それに数は一人。これならば十分に勝算はあるだろう――オメガはそう考えながらその男を睨め付けていると、彼はその顔に再び笑顔を貼り付けた。機械じみている、表情筋が無理矢理引きつっているかの様な笑顔だ。信用ならないと眼を細めたオメガを介さず、男は淡々と語り始めた。
「私の名前はサイエン。今から君をラムダくんがいる場所に案内しながら、この世界について語ろうと思う。なに、お互いにとって建設的な話をしようじゃないか」
リフォストに広がる巨大森林。その終焉に待ち受けていたのは正体不明の構造物群と謎の男。彼が語る世界の形は――。




