第二話 魔獣 ①
ラムダとオメガが初めて本気ケンカをしたのは十三年も昔の事であった。きっかけが何だったのかは二人共覚えておらず、好きな食べ物の取り合いだった気もするし、お互いの悪口が徐々にヒートアップしてった結果だった気もする。しかし当時から、互いに本気を出してケンカをする事、敗者が一方的に勝者の言う事を聞くルールは変わっていない。そして、ラムダが何らかの小細工を仕掛けなければオメガが勝つ事も変わっていない。
初めての本気ケンカの時はまだラムダの魔法は発現していなかった。しかしオメガとの正面堂々の殴り合いは当時から望んでいなかったので、ラムダは逃げ回って石をぶつけていた。勿論それでオメガを倒せるはずもなく、すぐにラムダは顔面にオメガのパンチを喰らい、後方に吹き飛ばされるのだった――。
まるで揺り籠の様に、ラムダの全身は一定のリズムで揺れている。上から下へ、下から上へ。心地良い間隔で全身が浮き上がり、すぐに沈んでいく。時折大きな一拍が彼女を空へ放り投げるが、次の一拍がすぐに地へ戻す。そんな柔らかな律動の合間に、何かを撫でる水の擦過音が薄く続き、微かな塩気が肌に張り付く。
「ん……」
彼女が目を開けると、視界一面に青く澄んだ空が広がっていた。最初に目に入ったのは爆発を一番派手な瞬間で停止させた様な雲。その周りには積乱雲と足元を共有する薄い雲が広がり、切れ目から溢れる太陽は瞼の裏で赤い脈を打つ。首を横に回すと、水面の波紋は砕けた光をいくつも跳ね返し、ボートの影が揺れる度に形を変える。遠くで水鳥が一声だけ線を引き、すぐに風の音に溶けた。そんな自然の景色はラムダを深い沼の底から抜け出させるのに充分過ぎた。
「起きたか」
目に飛び込んできた眩しい光にラムダが微睡んでいると、そんな声が足元の方から聞こえてきた。そちらに足元を向けると、オメガがこちら側に背中を見せていた。ラムダは欠伸混じりに体を起こすと、成程自分はボートに乗っていたのか。周りを地平線の向こうまで続く海に囲まれており、波がボートを一定のリズムで揺らし続けている。ラムダは眠い目を擦りながら、
「何だ、夢か」
「どんな夢を見てたんだ?」
「……オメガにボコボコにする夢」
オメガは溜め息を付き、
「下らない事を言うな。着いたぞ」
「着いた?どこに――」
その瞬間、彼女は気が付いた。前方の水面に浮かぶ巨大な影がある事に。それはまるで踊っているかの様に楽しそうに揺れており、更にその前方に視線を投げると――。
目の前に広がる大陸。人間の歯の様に一列に並ぶ崖は視界の端まで途切れなく続いており、それはまるで海の終わりを告げている様であった。層の筋が縦方向に何層にも折り重なり、所々に黒い縫い目の様なひび割れがポカリと口を開けている。そんな崖の上では、深い緑が前髪をパッツンにして刈り揃えられている。その色からはアスフォーダルの紅葉した木々と対極にありそうな、青々とした生命力を感じ取れる。
大陸・リフォスト。それが幾億年も昔からここに存在していたと言う事を、ラムダとオメガは一目見て思い知らされた。
「これがリフォスト島か」とラムダ。
「遠くから見た時よりデケえな」
二人はその後、崖沿いに数キロメートル移動した所で上陸可能な浜を発見した。その浜を見つけるまではずっと垂直な崖が絶え間なく続いており、その崖の上には相変わらず緑がその姿をチラチラと見せていた。
その浜にボートを置いていき、入り込んだのは巨大樹の森。そこに自生する木々は一本一本が巨人の様に幹が太く、雲にまで届いているのではないかと思う程に高い。地を這う根っこは巨獣の背骨の様に盛り上がっており、根っこ同士の間では蒸した苔が島を形成している。上空に生える枝葉ですら人間よりも一回りも二回りも大きく、風が通る度に低いざわめきが森全体を撫でている。そんな木々がどこまでも続くこの森では遠近感が上手く働かず、まるで自分達が御伽話の中に迷い込んでしまったかの様である。
「凄い……アスフォーダルでは見た事のない植生をしているな」
森を見渡してそう呟いたラムダ。その一方でオメガは俯いたまま口を閉じていた。
このまま目的地も無く歩き回るのは得策ではない。体力のみが徐々に奪われていき、その状況で魔獣との戦闘はしたくないからだ。しかし何か――例えば魔獣の巣を求めて周囲を散策しても、この景色では同じ所を延々と回り続けるだけになりかねない。それならば何らかの目印を発見して、それを起点にしてこの島の探索を行うべきだろう。
その様な結論に至ったオメガはふと頭上を見上げた。
「ラムダ、ちょっと待ってろ」
彼はそう言い残すと、少しずつ木をよじ登り始めた。
地面を蹴り飛ばして適当な幹の樹皮にしがみ付き、ボルダリングの要領で上がっていく。木から木へ、樹皮から樹皮へ。そのまま上部の枝まで辿り着くと、そこからは更に高い枝に移っていく。それを何度か繰り返すと、巨大樹の頂に到達出来た。
そこの空気はやけに澄んでおり、呼吸をする度に頭が冴えていくのが分かる。心地良い風に当たりながら周りを見渡してみると、かなり遠方に頭三つ分程度大きな木が生えている事に気が付いた。その木はただでさえ大きな巨大樹と比べても更に大きく、この森の支配者であると言いたげな顔付きをしている。
それを確認すると、オメガは地面に戻った。
「どうだった?」とラムダ。
「このまま目的無く歩いていても迷うだけだ。先程ここから二十里程先に巨大な樹が見えた。取り敢えずそこまで歩いていき、その道中に何かないか探索しよう」
ラムダが頷くと、二人は巨大樹の方向に歩き始めた。
そのままリフォストの内地に足を踏み込んでいくと、徐々に霧の濃度が増してきた。真っ白な霧が二人の視界を確実に奪っていき、樹脂と湿った土の匂いがその霧の中に溶けている。頭上では啄木鳥が木の太鼓を打っており、遠くでは何かの唸り声が響いている。自然と二人の歩幅は小さくなっていき、濃い霧と枝葉のせいで時間の感覚が分からなくなってきた、そんな時であった。二人の鼻口に何かが入り込んできたのだ。
樹脂と土の匂いに混ざる、鉄の粉の様な何か。それは鼻腔の奥に油膜のように張りつき、舌の付け根へゆっくり降りて喉を握っている。吸うたびに喉が拒み、吐いてもその不快な匂いだけが体内に残る。魔獣か?いや、違う。これはもっと、石鹸や煙の様な人間らしい匂いである……人間?まさか――。
「この匂いは……」
深い霧の中彼らを待っていたのは、無残に咲き散る大量の屍。ある者は岩にもたれ掛かりながら死に、ある者は下半身を何かに圧し潰され死に、ある者は胴体に牙が突き刺さったままうつ伏せで死んでいる。無造作に配置された彼らの死体はまるで幼児が遊んだ後の玩具の様に魂が抜けており、そこら中に塗られた血液も同じ幼児が絵の具遊びをした後の様に取っ散らかったままだ。それを慰めるかの様に吹いた風も、どこか救いようのない虚しさを感じる。
その景色を見て、ラムダは顔を真っ青にした。自然と胸の内が見えない何かに圧迫され、喉の奥から湧き出てくるのは吐瀉物。涙も共鳴して絶え絶えに流れ、全身の細胞を途轍もない不快感が襲い掛かる。一度口から熱い物が出てきたかと思うと、すぐに二陣三陣が。呼吸も浅く速くなり、その場に立つ事さえ困難になった。それはまるで激しい頭痛が彼女の体を押さえつけているかの様である。
「先に出発していた戦士達か……やはりこの島は人間を拒んでいるな」
オメガは冷静に努めてそう言ったが、ラムダは変わらずその場で吐き続けている。そんな彼女の様子に見かねたオメガは、彼女の前に腕を持ってくると、
「ラムダ、掴まれ。もう少し行った所で休憩しよう」
ラムダは言葉の通り掴まると、二人は移動し始めた。
そのまま少し進んだ所で、二人は横たわっている幹に腰掛けた。そのまましばらく休憩していると、オメガが背中を摩ってくれた事もあってか、彼女の体調はかなり良くなった。呼吸も安定し、頭痛も既にどこかに消え去っている。それでもラムダの瞼の裏には、先程の景色が焼き付いて離れない。彼女は長く細い溜め息を付くと、小さな声で、
「……ねえ、オメガは実際、災いの正体って何だと思う?」
オメガは顎に手を当てて、
「知らん、と言いたい所だが……俺に言わせれば、何故皆があそこまで予言に慎重になるのかが気になるな」
「と言うと?」
「あんな物は所詮、ただの言い伝えに過ぎないだろう?実際にここ最近は自然災害も魔獣の数も増えている。だがそんなのただの偶然なんじゃないか?だから俺は、その来たる災害その物が無いと考えている。こんな事はアスフォーダルにいる時には言えなかったがな」オメガは拳を握り直し、「だから俺の目標はお前に言った通り、例の魔獣をぶっ潰すだけだ」
「オメガって単なる脳筋かと思いがちだけど、意外と物事を考えてるんだね」
「どういう意味だ?」
オメガが怒りを言葉に込めながらそう言うと、ラムダは何も言わずに徐に立ち上がった。そのまま表情一つ変える事無く地面に置いていた杖を持ち上げ、それを向けた先は濃い霧の中。オメガもふらりと立ち上がると、ラムダの前に立ち塞がった。
木々を通り抜ける風。さんざめく大樹の葉。滴り落ちる水。羽ばたく鳥。それらに混じる、何者かの足音。
「まあ、そんな目標もこの状況を切り抜けなきゃ達成出来そうに無いね」
「……だな」
その足音はまるで地の底で響く銅鑼の様な低音であり、そんな音が苔を通して足裏に定期的に届いてくる。一度鳴り響いたかと思うと、またもう一度。頭の上で湿った葉が震え、露が雨の様に降り注ぐ。枝も一定のリズムで残像を残し、土の粒が飛び跳ねる。そして真っ白だった霧が僅かに黒に染まり、次の瞬間目の前に現れたのは――。
一つ目の巨人。人間で言う右目の右端から左目の左端までが一つの大きな瞳で形成されており、その真下に平らな鼻が広がっている。更にその下にある口からは二本の鋭い犬歯が姿を表しており、首は余りの大きさに顔面と同化して胴体と繋がっている。深い毛を生やした胸元に醜く出っ張った段々腹。全身は十メートル程であるが、顔を潰してしまえば人間と大差ない様な体付きをしている。そんな巨人が合計九体、霧の奥から姿を現した。全員似た様な気色の悪い笑顔をその顔に浮かべており、その姿以上に人間との共通点を感じられる物は無い。
オメガは口の両端を釣り上げ、その手をポキポキと鳴らした。
「さっさと掛かってこい。ぶっ潰してやるよ」
九つの巨人の内の一体が猛々しい雄叫びを挙げると、周辺の空気が恐怖に震え上がった。二人の鼓膜も共鳴しながら耳の奥で揺れ、目の前に見えない壁が出来たかの様に動けない。巨人は醜い顔面に再びニタリと笑みを浮かべると、近くにあった木に両手を伸ばした。するとまるで人間が雑草を引っこ抜く様に容易く、巨大樹を地面から引き剥がそうとし始めた。巨人にとっても何倍もある木を抜こうとすると、周辺の地面から龍の様な根が姿を現し、地鳴りが土を伝播する。葉に付いていた露が滝の様に落下し、幹が巨人側に傾き始める。遂に巨人がその木を完全に引っこ抜くと、まるで大地その物が傾いた様な奇妙な感覚に囚われた。そして巨大樹を躊躇いなくオメガに投げた巨人。迫り来るその大木はまるで隕石が自分目掛けて降り注いでいるかの様であった。周辺の影が一瞬の内に濃くなり、視界全てを樹皮が占める。しかしオメガは避けようとしない。ただ目の前の大木に視線を固定して仁王立ちしている。
ドン、と世界を揺るがす地鳴りと共に、オメガは巨大樹の下敷きとなった。森全体に爆弾の様な大音量が幾度となく木霊を繰り返し、辺りの地面が山の様に盛り上がった。それと共に凄まじい土煙が周辺を埋め尽くし、それが霧と混じり合って最早手元すら見る事が不可能になった。自らの怪力さに巨人が惚れ惚れとしていると、少しずつ土煙がその濃度を下げ始めた。その瞬間、彼は釣り上げていた自らの口角を思わず下げてしまった。何故か。オメガ目掛けて叩きつけたその巨大樹が――真っ二つに割れていたから。それはまるで大理石の様に美しく、断層の様に元からこうだったのでは無いかと見紛う程にキッパリと割れていた。そしてその土煙の中から姿を現したのは――。
「随分と柔らかかったなぁ……」
オメガであった。土煙の中から姿を現した彼を巨人が認めた瞬間、巨人の視界から彼が消え去った。オメガはどこに行ったのか――巨人が周辺を見渡そうとしたその時、天地がゆっくりと傾き始めた。音一つ立てる事なく木々が百八十度回転し、地面が視界上部に移動する。空からどんどんと離れ始め、何故か自分は眼球を動かす事が出来ない。世界の動作はやけに緩慢に感じ、突然、頭上に緩やかな衝撃が走った。それと同時に今度は視界が横に揺れ、そしてゆっくりと眼球が反射をしたのは――頭部が欠けた自らの胴体であった。それはまるで頭と言う主人がいなくなった事を気付いていない様に立ち誇っており、その体の肩辺りからオメガがこちらを見ていた。
ああ、そうか。頭を引き千切られたのか。巨人がそう理解した瞬間、全てが真っ黒になった。音も、匂いも、触感も、全てがどこかに消え去ったのだ。
唖然とする残りの巨人達。首から上を無くしたその巨人は、まるで壊れたポンプの様に近くで血溜まりを形成しながら、その場で呆然と立ち尽くしている。刹那の内に命を刈り取られた仲間を見て、残りの巨人達は頭の中で警鐘を鳴らした。次は自分だと。オメガはそんな彼らを見て先程彼らが浮かべた様な笑みを返した。そして次に飛びかかったのは近くにいたもう一体。
ラムダとオメガが住む世界において、魔法が使える人々はほんの一握りである。彼らは総称してマーナと呼ばれており、その一生を掛けて魔法の高みを目指すのが一般的である。そして当然オメガもラムダ同様、魔法に恵まれたマーナである。だがしかしオメガは彼の人生において、戦闘中に一切の魔法を使用した事が殆ど無い。彼に魔法の才能が無いからか?否、魔法を使うまでも無いからだ。
オメガの真価は、その脅威的な肉体、圧倒的な武術。鋼より堅い肉体から繰り出される殴打は、爆弾を優に超える殺傷能力を兼ね備えている。いかなる物理も、魔法も、小細工すらも通す事の無いその肉体を前にして、彼が通り過ぎた道に転がっているのはただ塵芥に帰した肉塊のみである。敗北の味を知った十二年の月日が人間離れしたその肉体を作り出したのだ。
瞬く内に更に四体の巨人を殺害したオメガ。嬉々として仲間を殺戮する彼の姿を見て、生き残りの者達は皆、足を竦ませていた。この程度の小人に我々が敗北してなるものか――そう考えた巨人の視界にふと映ったのはラムダであった。彼女は木にもたれ掛かりながら暇そうに髪を弄っているではないか。そうだ、まずは彼女を殺し、そしてあの怪物の戦意を削いでから戦いに臨めば良い。巨人はすっかりと下がっていた口角を再び釣り上げ、そしてラムダ目掛けて拳を――その瞬間には既に、巨人の胴体には大きな穴が空いていた。首を絞められている様な掠れた唸り声を上げながら、酔っ払いの様に足元をフラつかせる巨人。彼は何とか二足歩行であろうとしたが、すぐに白目を剥いて地面に伏してしまった。
アスフォーダルには様々な伝説が残されている。ある真冬の空に現れた巨大な火の玉、村を襲う直前で静止してそのまま海へと引き返した津波、終いには大規模な干魃が訪れた次の日に、一万年に一度の大雨が村に降り注いだとも言われている。そしてそれら全ての事象が、ラムダと言う少女たった一人によってもたらされた物である。マーナとは水、氷、風、炎、雷の魔法の内の一つを使える者を指すが、理の外に生まれたその少女はそれら全ての魔法を有史以来類を見ないレベルで操る。魔法精度と魔力量、その両方にて他者を圧倒する彼女の前に、全ての老若男女が頭を垂れた。そんな彼女はその齢が十になった時、とある魔法を生み出した。
自らに備えられた魔力を魔法に変換せず放つ。それは言葉に収めるといとも容易く聞こえるが、その実、それは自らの影を地面に縫い付ける程に困難な動作であり、この魔法を使用可能なのは現代の異能である彼女ただ一人である。しかしその魔法は雷よりも遅く、炎よりも威力が低い。では何故そんな魔法を編み出したのか?答えは簡単、その魔法が弱いからである。ラムダにとって魔法を扱う事は、象が蟻を踏まないように注意を払う様な物である。とある拍子に魔法が暴発すれば人が死に絶え、少しでも標準が狂えば人が死に絶え、くしゃみをすれば人が死に絶える。それ故に白光の一閃を放つその魔法は、象にとっては目に入らない程に小さな蟻達の中に交じる為に必要なのだ。
そしてラムダが『制限された自らの魔力』を本気の力で放つ際、その魔法は変貌を遂げる。白銀の光線であったその魔法は徐々に魔法本来の色である赫色に染まっていき、そして彼女の杖から放たれる一閃は、光速の向こう側まで突き抜け、その三倍以上の速度である宇宙膨張速度にまで達する。正に戦場の鬼神、生きる伝説。彼女の瞳に映る物は全て等しく、一切の意味を成さない。




