第六話 伝説 ②
ラムダの真っ暗な視界に、ふと光が入ってきた。既に目を瞑っているはずなのに、更に強く目を閉じてしまいたくなる程に大きな光が、脳に直接届いたのだ。
眩しい。眠りの邪魔をしないで……あれ、でも何か大事な事をしていたような気がする。何か、とても重要な。でも思い出せないな。まあ良いや、分からない事は全部オメガに聞けば良いし――そう思いながらラムダは目を開けた。
目の前には、オメガの死体が転がっていた。『それ』は地面にうつ伏せになり、ラムダは彼の前にぽつんと立っている。死体の右手はラムダの左脚を掴んでおり、周辺の土壌が赤黒い血溜まりを飲み込んでいる。赫い縁取りの光の下で、血溜まりだけが妙に黒く、粘り気を持って地面へ染み込んでいく。土は吸い込みながらも飽き足らず、さらに赤を求めている様に見えた。死体の胴体にはラムダの腕が簡単に入りそうな穴がポッカリと開いており、左腕は肘より先が無い。顔面は完璧には見えない。しかしそれでも、それが酷い状態になっているのは容易に想像出来た。左耳が抉れ、耳の下まで真っ赤な歯が見えているからだ。横目は虚ろで、一切の光を反射していない。
ラムダの視界は、理解が追いつく前に固定されてしまった。目の前の『それ』の形状がオメガだと認識した瞬間、世界の音量が一段下がり、鼓動だけが耳の奥で暴れ始めた。
「え……?」
ラムダは状況を理解出来ず、ただ呆然と立ち尽くしている。死体の右手から伝わる温度はまだ暖かく、確かな力を持って彼女の脛の辺りを掴んでいる。しかし吐息の一つもなく、瞬きの一つもない。ただ死体からは血が流れ出ており、生命の鼓動を感じさせる物がそれには残されていなかった。
息を吸おうとしても、空気が胸へ入ってこない。喉は開いているのに、肺だけが拒絶している。足先の感覚が薄れ、立っていると言う事実が他人事になっていく。音も、風も、衣擦れも、全て遠い。近いのはただ、指が食い込むほど強く掴まれている脛の痛みと、その手がもう二度と動かないと言う確信だけだった。
「オメ……ガ……?」
彼女の足元には黒い石材がガラス片の様に散らばっていた。彼女の顔面に付いていた仮面だ。しかしラムダの視界にそれは映っていない。今はただ、ひたすらに、目の前に転がる肉塊しか――。
ラムダはしゃがみ込んで、自分の足からその手を取った。自分の両手でその手を挟む様に触れてみると、それは重たかった。そして何より、暖かかった。表面が厚く、ゴツゴツしていて、指の付け根には豆がある。何年も変わっていない、彼の手だ。
彼女は上手く呼吸が出来なかった。肺が上手く膨らまず、肩は上下に震えている。喉の奥からは呻き声が漏れ出し、すっかりと熱くなった目頭からは涙が止まらない。何度も何度も頬を伝っては、血が混じった土を湿らせる。
涙は熱いのに、頬を伝う先で血混じりの土が冷たかった。嗚咽は声にならず、喉の奥で擦れた音だけが漏れる。世界は静かで、あまりにも静かで、だからこそ自分の中の壊れる音だけが際立つ。
動け。助けろ。何か出来る筈だ。そう命令する理性は残っているのに、身体は意識の外へと沈み続ける。
「意識が戻ったか、ラムダ」
その瞬間、すぐ右隣から声が聞こえてきた。彼女の内面とは正反対の、落ち着いた声だった。見てみると、サイエンがいた。両腕を後ろに隠し、何の感情もない仏頂面でこちらを見てきている。
「サ……サイエン……わたし、わ、私、オメガを――」
「ああ、そうだ。たった今、君がオメガを殺した」
冷淡な口調で彼がそう切り捨てると、ラムダの喉はひゅっと鳴った。
「そうだな……あと数分でクリスタルに変化する君に、何故私が君を選んだのかを教えてあげよう。先程も説明した通り、クリスタルの生成には星降りの粉塵、人間、その人間の感情が必要だ。やはり人間は他の生命体より大きな感情をその内に潜めているのだろうな」
淡々と語るサイエン。彼の頭上にて光前と輝くノームは、赫の光を二人の元に落としている。
「しかしクリスタルにするなら誰でも良いと言う訳では無い。我々マーナの体内には目に見えない器の様な物がある。そしてその器が大きければより多くの魔法量を保持でき、より強い魔法を放つ事が出来る。端的に言えば、魔法が得意な者はその器が大きく、苦手な者は器が小さい。そしてその器が大きい者がクリスタルになった方が、より多くの魔法をその内に留める事が出来る」
彼が何を言っているのか、ラムダには分からなかった。しかし二つだけ、彼女にも理解出来る事があった。オメガは死んだ。いや、自分が殺した。そしてサイエンは自分を助けてはくれない。ならば、自分がやるべき事は一つだ。
「その点、君はクリスタルになるのに最適な人物なんだ。十二年前、君を誘拐したのはただの偶然であったが、その偶然が無ければより多くの人々が犠牲になっただろう。だから君には感謝しているし、今日まで生かしてあげたんだ。そう言えば死刑囚を用いた実験では、彼らは他の物質に成り代わるにつれ徐々に自らの記憶を無くしていったな。だからもしかしたら君も――」
「死ね」
その一語は叫びでは無かった。泣き声でも無かった。喉の奥に溜まっていた物が、形だけを持って落ちてきた。
ラムダはサイエンの顔面を鷲掴むと有り余る憎悪をその手に込めた。掌に伝わる感触は骨と肉と、そして僅かな物体の抵抗だけだった。葡萄でも潰すかの様に、彼の顔面はいとも容易く崩れ去った。崩れていくのに、手の中でまだ形を保とうとする。音は湿っていて、吐き気がする程現実的だった。
サイエンの死体を冷たい視線で見下すラムダ。彼女の内には悲壮な感情は一切無く、ただ、激しい後悔と未だ渦巻く殺意、そして僅かばかりの達成感が、生ゴミを放り込んだ袋の様にごちゃ混ぜになっていた。後悔、殺意、僅かな達成感――それは奇しくも、星降りの粉塵が人間を他の物質に変化させる条件を満たしていた。
瞬間、彼女の全身に弱い電撃が走った。かと思えば四肢の末端が鉛の様に重たくなり、首が一ミリも動かなくなってしまう。全身を悪寒が覆い尽くし、なのに汗をかいてしまう熱く感じる。錆びた機械の様にぎこちなく右手を視界に収めると、指先がエメラルドの様な澄んだ緑色になっていた。指と『宝石』の間は白い光を発しており、発光の完了した部位は段々と緑色に。
自らの体内にて起こっている事象を認めると、ラムダは少しずつ歩き始めた。残された力で、一歩一歩を踏みしめる様に。それはまるで生者を探すゾンビの様な、糸が全て切れた操り人形の様な足取りであった。
全身が痛い。いや……なんて言うか……冷たい。そうだよね……私の体、今、クリスタルになろうとしてるもんね。
お腹すいたな……喉が渇いたな……違う……そんな事、考えてる場合じゃないんだ。あ……そうだ……魔法……魔法、使えないかな。
……ダメだ。魔法が練れない……魔力が残ってないのかな……。
あれ……私、何してるんだっけ……。
確か……本読んでて……夜ご飯食べようとしたんだっけな……今日のご飯は……えっと……。
あ……違う……確か……サイエンを……。
あれ……サイエンって……誰だっけ……。
そうだ……リフォストだ……あの島に行って……皆を……助ける……。
どこ……ここ……冷たい……。
今日……祭り……キャンプファーヤーを……見たいな……。
何にも見えない……暗い……怖い……オメガ……どこ……。
違う……オメガ……私が……殺したんだ……。
ごめん……私がバカだ……アスフ……ダルに……帰……ば……。
ごめ……オメガ……ご……。
オメ……。
オ……。
……。
もはや、ラムダの中には何も残されていない。記憶も、人格も、自らが何者であったかさえも。何かが削ぎ落とされたというより、最初から空洞として作り替えられた感覚だった。空白であり、空虚であり、ただ入れ物だけが残っている。
全身の感覚も同様になかった。痛みも、寒さも、風の重さも、土の湿り気も。そういう生きている証拠が、皮膚から剥がされていた。身体はある。あるのに、身体の境界線が分からない。今、彼女は超巨大樹の足元にて、それに背中を預けながら、捨てられた玩具の様に転がっている。
嗅覚も、聴覚も、味覚も残されていない。残った視覚さえも終わりかけている。けれど、辛うじて、僅かに、それだけが残されていた。濃いモヤが掛かった視界の中、彼女は何も思考出来ずに、少しずつ置き換えられていく自らの胴体を眺めている。
置き換えられていく、としか言いようが無い。何かが剥がれて、何かが埋まる。自分の肉が、自分の肉ではなくなっていく。呼吸をしているかどうかも分からないのに、胴体の形だけが変わっていくのが見える。青い布のようなものが、宝石に染まっていく。関節の位置が少しずつズレている気がする。だが恐怖が湧かない。恐怖を作る器官が、既に削がれている。
視界のモヤは濃く、焦点は合わず、世界は常に数秒遅れて揺れていた。瞬きをしたはずなのに、まぶたが閉じた感覚は無い。閉じたのか開いたのかも曖昧なまま、映像だけが続いている。遠近感は壊れ、巨大樹の幹が近いのか遠いのかさえ分からない。
そんな時であった。
彼女の小さな視界に、誰かの足元が映った。最初に見えたのは靴でも踵でもなく、影だけであった。視界の端に落ちた黒が、静かに輪郭を持っていく。少しして足が見えた。大きさからして子供。彼はラムダの視界の淵から、こちらを見てきている。
視界の淵は歪みやすい。そこに現れたものは幻の可能性が高い。なのに、その足元だけは不自然な程に鮮明だった。ラムダは最後の力を振り絞り、見上げてみた。
首を動かした、という感覚は無い。ただ映像が勝手に持ち上がっていく。視界の中の地面が遠ざかり、目の前の子供の膝、胴、顔と焦点が移る。何故かは分からないが、移る度にモヤが薄くなっていく気がした。まるで、彼の存在が霧を押し退けているみたいに。
そこには、黒髪の少年が立っていた。目尻は吊り上がっており、眉は短く整えられている。鼻は厚く高く、口は薄く閉じられている。前髪を額に下ろしただけの髪型ではあるが、それがむしろ精悍な彼の顔付きを目立たせている。少年の顔は、子供にしては出来上がり過ぎていた。幼さより先に意思の硬さが見える。まっすぐこちらを見ているのに、視線の奥はどこか遠い。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。
彼が誰であるのか、ラムダには分からなかった。名前も、声も、意味も。分からないのに、視界に入った瞬間、不思議と彼女の心は温かくなり、空白であった彼女の心が満たされていくのが分かった。何も残っていない筈の心に、何かが注がれていく。欠けていた輪郭が戻り、ひび割れていた内側が塞がり、空白が空白ではなくなる。ラムダの中で、壊れたはずの何かが一瞬だけ繋がった。
ラムダは安堵の笑みをその顔に浮かべると、
「誰だろう……カッコ良いね……」
そう良いとげ、そっと目を瞑った。
人類の滅亡の予言が示す日から三ヶ月が過ぎた。
その日も、ラムダの父であるハイターは南の浜にて海を見つめていた。一定のリズムを繰り返す波は砂にめり込んだ彼の足元を撫でては、糸の様な細い線を残して海に帰っていく。澄んだ青緑の海は濁ったハイターの心とは正反対であり、海に似た雲一つ無い空も彼の心に満たされている閉塞感を無視するかの様に、どこまでも続いてる。そして海と空の狭間にて佇むリフォストは、今日も穏やかに緑の植物を揺らしている。
皆既日食の日、確かに世界は滅亡の様相を見せていた。雨風が荒れ狂い、火災が森林を襲い、魔獣が互いに喰らい合った。しかしそんな地獄も、太陽とノームの交わりが解けた瞬間、息を合わせた様にぴたりと止まった。ハイター達が住む村も南部の建造物に被害を被ったが、幸い死人が出る事は無かった。そう、『死人』は出なかった。しかし災害の予言が過ぎ去ってもなお、南の島から帰って来ないものが二名……。
太陽が地平線を打ち、海の色が橙色に染まる。ハイターはいつもの様にため息を一つ付くと、村へと踵を返した。
そして彼が訪れたのは長老が住まう建物。太い柱が等間隔に並び、その土台の上に立つのは二段重なった茅葺きの天井。壁と床は白木を基に作られており、その壁の外には回り縁を挟んで手すりがぐるりと。その建物の正面には階段が待ち構えており、比較的高い戸口がその先に。その入口を潜ると、自然光を通さない内部は意外と薄暗い。壁には火の付いた蝋燭が一定の間隔で備えられており、床には畳がギュウギュウに詰められている。少し行った先でその床は畳一枚分盛り上がっており、天井からは仕切りが垂れている。そしてその奥に控えているのがアスフォーダルの長老・ヴァニタス。
長老から見て一段低い所まで来ると、ハイターは深く息をついてスッと膝を折った。左膝を地面につけ、右膝は立てたままの状態。そのまま左手を地面につけると、自然とそこに彼の体重が押しかかる。肩を下げ首を深く折ったまま彫刻の様に静止すると、
「ヴァニタス長老、今日も二人は帰って来ませんでした」
「そうか……」
ヴァニタスはすっかりと伸び切った白い髭を撫でると、深く俯いた。
「……彼らが去って三ヶ月。予言で語られていた災害は訪れませんでしたが……」ヴァニタスの方へと顔を上げ、「やはり、二人はリフォストの魔獣に殺されたのでしょうか……?」
「違うな。二人はその命を賭して世界を災害から救ってくれたのだ」
「あの予言の続きですか……」
雲の綻びに世界の破滅の兆しあり。程なくして名を持たぬ厄災が四方の門を叩く。水は堤を超え、火は土の奥より息を吹き返し、風はその道を忘れ、地は低く唸るであろう。それと共鳴するかの様にして南の島より這い出た者達により、街の灯りは一つまた一つと潰え、人の言葉は途切れ、暦は遂にその役目を終える。これは今より三百年の後、皆既日食の日に訪れるだろう。その日、人の世は静かな終端に吸い込まれる。
されど終わりを紡ぐ糸は、終わりその物ではない。天性の才を持つ若き者らが北より現れるだろう。彼らは南の島へと乗り込み、大樹の眼前にてとある者の助言を信じ、自らの灯を天へ返す。代償は一つ、宿した生命の全て。血は種へ、涙は雨へ、声は風へと変じ、大地の亀裂は眠り、火は鞘に納まり、水は静かに其処へ戻る。かくして世界は一度息を止め、ついで深く息を吸うであろう。
アスフォーダルではこの予言が幾年も昔から言い継がれている。しかし具体的にこの予言がいつ、どこで、誰により告げられた者なのかを知る者はいない。齢が百を超える長老でさえ、それは自らの祖父から伝えられた物であり、その詳細を知らないのだ。そんな曖昧な予言を信じ、そして自らの命を賭したラムダとオメガ……。すっかり広くなった家の中で、ハイターは二人の事を毎夜思い浮かべては、己の無力感に打ち拉がれているのだ。彼は口の中で奥歯を噛むと、
「何故あの二人を選んだのですか?何故私では駄目だったのですか?何故あの二人には予言の一部しか聞かせなかったのですか?もしあの続きも教えていれば二人は南に――」
ハイターが声を荒げた瞬間、彼の喉の奥底から溢れ出してきたのは大量の咳。彼の胸を裂く様にして何度も、何度も、何度も。収まったと思っても、すぐに次の咳が喉を抉じ開けてくる。途中から口内に鉄の味が広がっていき、口を押えていた手元には気付いた時には大量の血液がべったりと付着していた。粘り気のあるそのくすんだ赤い液体を見ていると、更に別の咳が。
彼の体は予言の日が過ぎ去った時から、徐々に衰弱していっているのだ。まだ呼吸をする事は出来る。まだ歩く事は出来る。しかしそれでも少しずつ、彼の体を見えない何かが侵している事は理解出来た。
「……もう下がれ。お主も疲れておるだろう?」
ヴァニタスが哀れみの口調でそう言っても、ハイターは返事一つ出来なかった。
次の日もハイターは南の浜にて海を眺めていた。相も変わらず海はどこまでも澄み渡っており、空はどこまでも高く続いている。波は押しては引き、引いては押す。その度に彼の心は濁っていき、見えない何かが体を侵食してくる。
この自然と言う無慈悲な環境は、今日も私の心境を無視して毎日を繰り返すのだろう。そこには誰の意思もなく、ただひたすらに、無力感のみが広がっている。例え病が私の体を蝕み、私が息絶えて土に還ったとしても自然は、自然だけはここにあり続ける。この世界は私の気持ちなどどうでも良いのだろう。今日も、明日も、明後日も、彼らは帰ってこないのだろう――ぼんやりとそう考えていた時、ハイターの瞳に何かが映った。
最初はただの流木に見えた。波の谷に隠れたと思えば、次の波でふっと顔を出す。波に流されながら、少しずつこちら側に近付いてきている。ぼんやりと眺めていると、それの形がやけに整っている事に気が付いた。海面に踊る光の下で、潮が寄せる度にその線は少しずつこちらへ引き寄せられ、そしてとある瞬間、気が付いた。それがただの流木では無い事に。
ハイターは動けなかった。柄の曲線、先端の湾曲、握りの癖。見覚えという言葉では足りない。あれは……あれは、手の温度まで覚えている代物だ。波は容赦なくそれを運び、泡が杖の周囲に花のように咲いては消える。
何度か見え隠れを繰り返すと、冷たい水を纏ったまま杖は砂を擦り、石を小さく叩き、遂に最後の一押しで浜へと押し上げられた。
『それ』は、彼の足元で止まった。濡れた木材が夕日を受けて淡く光り、砂粒がこびりついている。そこにあるのは単なる道具のはずなのに、どうしても遺品という重さを持ってしまう。海の向こうから届いたと言う事実が冗談みたいに残酷だった――まるで、娘が最後に投げ返してきた合図のように感じられた。
彼の元に帰ってきたのは、ラムダが愛用していた杖であった。一メートル程度の、木を彫り出して作られた杖。表皮には深い筋があり、持ち手は持ちやすいように真っ直ぐ。先端部分は渦巻く様にゆるく曲がり、一周する直前で断面を見せている。それは、ラムダにとって彼女とオメガの命と同程度に重要な物。
ハイターの呼吸が徐々に荒くなり、声が喉の奥で詰まる。肩の震えを止められず、目頭が熱く。遂に彼の両膝が抜けた瞬間、涙がこぼれ落ちた。ぽたぽたと、杖の柄に、砂に、指の甲に。潮の匂いに混ざり、身体の内側から溢れた塩が頬を伝う。そっと流れ着いた物に手の平を当てると、ただ無機質な冷たさのみが帰ってくる。
「ラムダ……オメガ……」
二人を呼んだ声は波に掻き消されるほど小さかった。返事は声って来ず、ただ波が一定のリズムを刻むのみだ。海は何も語らず、ただ同じリズムで寄せては返す。ハイターは杖を胸に抱え込む様にして、砂浜に崩れた。肩で泣き、息で泣き、音のない叫びで泣いた。波だけが、彼の背後で淡々と続いていた。
これより一万年後、惑星の大幅な地盤活動によりリフォストとアスフォーダルを隔てる海が干上がる。その際に発生した震度九の地震により村に住む者達の八割が死滅。バーレーン含むリフォストの巨大都市も全て、文明その物の存在も残せず消滅。ここで人類の九割が死亡。人の世は終わりを告げる。更に一万年の期間を経て、二つの島の間に現れた土地が肥沃化、再びいくつかの文明が芽生え始める。三千年後、再び盤石となった人類文明は他国への戦争を開始、アスフォーダルは成す術無く植民地となる。
ラムダとオメガの知る村は終わり、文明は終わった。しかしそれでも植民地兼港町であるアスフォーダルの中心地には、とある銅像が建っている。『世界を救った英雄』と名付けられた、伝説と語り継がれる二人の銅像が。一人は無愛想な表情を浮かべた筋肉質の男、もう一人はツインテールで微笑みを湛えた女性。女は男の肩程度の大きさしかなく、二人は肩合わせに空を見つめている。そしてそれより千年後、つまり二人の死後から二万四千年後、人々の『祈り』が届き、大樹に埋もれていたクリスタルが光り始めた――。




