第五話 本気ケンカ ②
帰路につくラムダとサイエン。まだ冬になりきれていない冬の夜に吹く風はどこか寂しく、ラムダの目頭に溜まった熱を孤独に反射させていた。熱った体は暗闇の中で独り震え、俯いたまま言葉一つ出す事が出来ない。それでも、先程オメガが去る際に見せた酷く孤独な表情が、ラムダの頭の中で壊れたラジオの様に繰り返されていた。強く噛み締められた唇。熱を帯びた両目。滲んで瞳。何度も震える喉――気付いた時には雨が降り出していたのだろう。ラムダの頬は酷く濡れ濡れになり、手の込んだ化粧は全て水泡に。彼女の丸まった背中からは啜り声が聞こえてきて、サイエンはそんな背中をしばらく眺めると優しい口調で、
「先程の戦闘で街の電気が消えたのは人々の完全な避難が完了した合図だ。つまりあの戦闘で人的被害は無かったはずだ……随分と汚れてしまったね。服は洗濯しておく、君はシャワーを浴びると良い」
そう言ったが、ラムダはその表情一つ変える事無く、魂の抜けた声量で、
「……オメガはどうしてる?」
サイエンはメガネのフレームを二回軽くタップすると、その右レンズに映し出されるのはバーレーンの3Dマップ。建物や街路樹、街灯は半透明になって現れ、同じく半透明な道路の上には車とトラックがリアルタイムに描写される。サイエンがもう一度タップすると、今度はその街を流れる風量と雨雲も追加された。更にもう一度メガネを叩いたサイエン。すると、そのディスプレイの一箇所に白い円柱が立ち上がった。彼はその場所を確認すると、
「指輪の情報によると、彼はネストの中にいるね。超巨大樹の近くだ。だがアスフォーダルに帰る様子はない。やはり君の事が心配なんだろう。追いかけたいかい?」
「……アイツ、私の心配ばっかして良い迷惑なんだよ。だからしばらく放っておく。頭を冷やすべきだ」
サイエンはそっと目を瞑ると、
「……了解した」
都会の光が立ち込める闇夜の中、ただ冷ややかな風のみが、少しずつ遠くなっていくラムダとオメガの背中を眺めていた。
オメガと別れて以降、ラムダはより一層魔法への理解を深める為、研究に没頭した。サイエンに許可を得て十分に広い図書館と空き地を入手したラムダは、図書館で本を読み漁っては空き地にて自らの魔法の解釈の拡大に勤しみ、自らの可能性を切り広げた。それは正しく狂気的とも言える程であり、彼女は食事も、睡眠も、休息も忘れ、ただひたすらに自らの内側の輪郭を描き続けた。ラムダは居ても立ってもいられない感情に支配された時、こうする以外の感情の発散方法を知らないからだ。
そしてラムダがあの日の後悔を忘れんと躍起になっている内に、一月の時が経った。
その日も、ラムダは変わらず図書館に引きこもり書物を熟読していた。小さな木製の机の上に本を山の様に並べ、彼女は本に目を通している。その部屋自体は決して大きい訳では無い。元々は押入れだった場所を彼女が改造を施したのだ。それ故明かりも十全ではなく、机の上に灯された蝋燭の灯火一つを頼りにしているのみだ。
この一ヶ月の間、彼女は驚異的な速度で本を読み込み、既にバーレーン一にある巨大図書の九割を彼女は読破していた。ラムダの天才的な感性、それを後押しする数百年の歴史が乗算的に彼女の成長を促進し、既に巨大な大輪を咲かせていた彼女の才能の芽を、更に盤石な形に変貌させた。一月前の彼女であれば、サイエンがその討伐方法を示した様に、完全初見の魔法にて不意を撃つ事で彼女を殺害する事は可能であった。だがこの世にある全ての魔法を会得した今の彼女に敵う者は――。
その時、ふと背後の扉からノック音が鳴った。少し遅れて入ってきたのはサイエン。その手元には夜ご飯を乗せたプレートが置かれている。彼は部屋の周りを見渡すと、狭い四畳には畳が敷き詰められ、その上には本の山がいくつも。四方の壁は恐らくベージュ色だが、如何せん部屋が暗くて細かくは分からない。彼は溜め息混じりにラムダの丸まった背中を見つめると、
「やはりまだ研鑽を続けているのか……早く休憩しなさい、体にガタが来てしまう」
「大丈夫、この方が楽だから」
「……夜ご飯、ここに置いておくからな。偶には食べるんだぞ」
サイエンはそう言うと扉の横にプレートを置いた。もう一度ラムダの背中に視線を送ると、ドアノブに手を掛けた。そして部屋を出ようとした時、彼女の背中が話しかけてきた。
「ねえ、サイエン」
「何だ?」
「オメガはどうしてる?」
「変わっていない。この街の近くで君を待っている」
ラムダは読んでいる『予言書』をそっと撫でると、一ページめくった。そこに書かれているのは三万年未来の話。人と獣の境に立つとある少女が男と恋に落ち、そして自らを数百年続く戦いの中に身を投じた話。
「ねえ、サイエン」
「何だ?」
「今日の夜ご飯は?」
「牛肉のソテーとコーンポタージュだ」
少女と男が初めて出会ったのはとある森の中。その男もまた精神的には獣に似た人間であったが、むしろそれが少女の心の中にとある決意を芽生えさせたのだ。その男を人間に仕立て上げよう、と言う決意を。
「ねえ、サイエン」
「何だ?」
「明日が災害の日だよ。私は何をすれば良い?」
「……本当はこんな事、君に告げなくても良いのだがな。やはりこの一月で私は君に愛着を持ってしまったのかな」
最初は上手くいっていた。真っ新な記憶の中、男は徐々に人間らしい生活という物を学んでいき、周囲の人々との協調性も身につけていった。偽物の安寧の上で、彼らは九年間の『平和』を享受した。
「こんな事って?」
「……先ずはクリスタルの詳しい話から始めようか。元来、クリスタルは非常に小さな体積でもその内部に大量の魔法を含有する事が出来るんだ。その体積における魔法含有の効率は他の物体とは明らかに格が違っていてな、私はそんな特性を使って大気中の魔法をクリスタルの中に閉じ込めて災害を回避しようとした」
ある日、敵国の兵が攻めてきた。崩れ落ちる瓦礫の中、二人は逃げる事が出来た。しかし二人を除いた村の全員が死んだ。深淵よりも深い絶望の中、男はこの世へ憎悪を撒き散らした。
「でも上手く行かなかったの?」
「ああ、そうだ。そもそもクリスタルその物が希少すぎてな、この星で見つかった全てをかけ集めても、その重量は一キロにも満たなかった。そんな量ではとても災害を回避する事は出来ない。だがこの星の中で、唯一まだ未探索の場所があったんだ。そこにクリスタルの山の発見の最後の望みを掛けた」
少女は揺れていた。自らが人なのか、獣なのか。戦いの中で彼女はその答えを探した。そして戦争が引き起こした惨状の中で、彼女は決意した。愛する男の為に獣に堕ちる事を。愛する男の為に、世界を終わらせる事を。
「それがアスフォーダルだったんだ」
「ああ、そうだ。そして十二年前に君達の島に上陸した。勿論君達の文化を守る為に魔獣に変装してな。だが残念な事にそこにもクリスタルはなかった。私はその事に気が立ってしまってな、知っての通り君達を誘拐してしまった。まあ成果はありはしたが、やはり幼稚な行動であったな……おっと、話が脱線したね。結局クリスタルを見つけられなかった私は、次にとある研究を始めた。」
男は彼女の選択に納得しなかった。彼女に幾度となく話し合いを求めた。しかし彼女はそれに応じなかった。そして世界の大気が赫に包まれた終末の日、二人は戦った。世界の為に、未来の為に。
「とある研究?」
「クリスタルが無ければ作れば良いだろう?私はそう考え、無機物、有機物、死骸、生命体……ありとあらゆる物質からクリスタルの生成方法を模索した。十年程時間を要したが、遂に見つけたんだ、そのやり方を。材料は3つ、その内の一つはとある土地から取れる星降りの粉塵と言う物質だ」
最終的に、男が少女を殺した。そこには殺意も後悔もなかった。ただ純粋に、澄んだ覚悟が彼を満たしていた。しかし男もまた、激闘の中で重傷を負っていた。薄れゆく意識の中、天地は逆転し、彼もまた獣へと堕ちていった。
「星降りの粉塵?」
「そう言った物があると知ってもらうだけで十分だ。この物質を与えたとしても、殆どの生命体には何の効果もない。だがたった一種類、とある生物に星降りの粉塵を与えると興味深い結果を示した。その生命体がその瞬間に持ち合わせていた三つの感情に合わせ、彼らの形状が物質単位で変化したんだ。満腹、眠気、幸福、これら三つの感情をその生命体が感じると水銀になる。憧れ、焦燥、羞恥では樹木に……そして生命体がクリスタルになるには後悔、殺意、僅かな達成感が必要であった」
その瞬間、ラムダの脳内で点と点が繋がり始めた。小さな疑問が、微細な違和感がテトリスの様に互いに重なり合い、そして大きな塊へとなっていく。そこに残されていたのは、人間の腐った臓腑よりもどす黒い、醜悪な計画であった。
「……その生命体って――」
「ラムダ、どうか悪く思わないでくれ」
四畳半の狭い部屋の中、ラムダは駆けていた。椅子を薙ぎ倒し、サイエンに向かって。しかしその時には既に手遅れであった。重い打撃を一発喰らったかの様な衝撃が頭部に広がり、体が徐々に前方へと傾いていく。足は深い沼にでも捕まったかの様に少しも動かず、視界全体に地面が迫ってくる。為す術のない衝撃が体を走り、もはや首一つすら動かす事が出来ない。暗い視界の中、すぐ前方で布の擦れる音が響き、首元に何か冷たい感覚を覚えた瞬間、彼女の意識は暗闇の中に吸い込まれていった――。
ラムダと別れて以降、オメガはただ彼女を待ち続けた。誰の目にも入らない様な都市の片隅、それでいてラムダが自分の元に戻ってくる事が出来る程度には近い場所――超巨大樹の麓にて。食糧にも水分にも困る事は無かった。腹が減ればネスト内部に住まう動物を食えばよく、超巨大樹の近くには十分に綺麗な水源が存在していたからだ。オメガはただひたすらに待ち続けた。自分からラムダの元に向かう事は無い。例え他者の介入があったとしても、本気バトルの結果は絶対であり、それ故に直前の戦いにて敗北を喫したオメガはラムダの言う通り、一人でいなければならないからだ。
そしてオメガがこれまでの彼女との思い出をなぞっている内に、一月の時が経った。
その日も、オメガは変わらずラムダを待っていた。そうしている内に訪れたのは、災害の予言が示す真紅の正午。終末を告げる漆黒の陽光。太陽は黒い円に塞がれ、輪郭だけを赫に残している。ノームが世界の光をその身で飲み込むにつれ、周囲の明るさは一段また一段と削られていき、徐々に世界の音すらも誰かに絞られたかの様に静かになった。影は濃く、輪郭は鋭い。色は少しずつ色素を無くしていき、空気がそれに伴い冷えていく。それはまるで、この世から昼そのものが引き剥がされたかの様であった。
オメガの耳にとって、世界はやけに静寂に感じられた。それはまるで、世界が何か見えない物に蓋をされたかの様な、そんな奇妙な体験であった。しかし実際の所は、世界はいつも以上に騒音で満ち満ちていた。都市の中ではノームに当てられた者達が暴れ狂い、森の中では真紅の空気の中で魔獣達が互いを喰らい合っているからだ。バーレーンからは炎が舞い上がり、ネストからは唸り声が響き渡る。
絵に描いた地獄の中、もはや予言の事も半分忘れていたオメガの元に、前方から近寄ってくる人影が一つ。彼女の体には青いドレス。肩にも同色のフリルを携え、布は深い青の色を吸い込み、彼女がこちらへ近付いてくる度に光の角度が変わっていく。胸元から腰にかけては無駄な皺がなく、裾は足首の辺りで薄く広がっている。彼女の手には鉄の杖。艶を殺した金属が細い線となって伸び、先端が地面を打つ度に乾いた音が一拍だけ残る。木の杖の様な柔らかさは無く、握りの位置はいつも同じで、指の並びまで正確に決まっている。彼女の顔には黒い仮面。光を飲み込む黒が肌の上に張り付いており、表情の出入り口は完全に塞がれている。無表情に歩くその仮面は目の部分だけが切り抜かれており、その奥の瞳が仮面の暗がりから外界を測っている。
「……随分と楽しげな格好をしているなぁ」
オメガは彼女の姿を認めると、すぐに拳を丸めた。しかしその手は細かく震えており、発した声も揺らいでいた。次第に、右腕全体が震え出す。彼自身分かっていた。それが、武者震いでは無い事に。
彼は溜め息混じりにそっと目を瞑ると、
「……ラムダ」
暗黒の昼間の中、ラムダは立ち止まると、ただ無表情に杖の先をオメガに向けた。
長かった二人の旅路、その終焉。




