第4章 企画部長という「合理的」な壁
「エラーは、修正しなければなりません」
健太は、その冷たい怒りを宿した椿の瞳を見て、ゴクリと唾を飲んだ。彼が知っている「財政課のおカタいお嬢さん」は、もうそこにはいなかった。そこにいたのは、解くべき数式を前にした数学者のような、静かで揺るぎない意志だった。
「いや、だから、火傷じゃすまないって……」
健太の制止も、もう椿の耳には届いていなかった。
翌朝、椿は始業と同時に行動を開始した。
彼女が向かった先は、直属の上司である財政課長ではなかった。一度「君の仕事じゃない」と壁を作った相手に、二度目は通じない。
彼女が向かったのは、庁舎5階の「内部監査室」だった。
彼女は、完璧な家計簿を作成するのと同じ精密さで、一夜をかけて一つのレポートを仕上げていた。
『「公園緑地管理費」に関する予算執行の適正化について』
そのレポートで、椿は発見した事実を淡々と、しかし容赦なく「数字」で突きつけた。
隣接市との比較による、年間3,500万円の異常なコスト差。
「年12回」という、客観的合理性を欠く過剰な仕様書。
随意契約という、競争原理を意図的に排除した契約形態。
そして、レポートをこう締めくくった。
「――この3,500万円の歳出(支出)は、市民の受益(Benefit)に対し、明らかに負担(Cost)が逸脱している。この非効率な支出を10年間放置すれば、3億5,000万円の損失となる。これは、本市の深刻な**財政赤字(Fiscal Deficit)**をさらに悪化させ、プライマリー・バランス(基礎的財政収支)――市の基礎体力(税収等)と支出との均衡――を著しく毀損する『構造的なエラー』であると断定する」
彼女は、内部監査室の無人の投書箱に、そのレポートを静かに投函した。
その足音は、静かだが、霞が関市役所という巨大な組織の神経網を確実に揺さぶった。
反動は、即座に、そして予想外の方向から来た。
昼休み。椿が自席で『財政学入門』を読んでいると、財政課長の血相を変えた声が響き渡った。
「水守さんッ! ちょっとこっちへ!」
財政課の全員の視線が、まるでナイフのように椿に突き刺さる。
(バレた)
椿は、動揺する心臓を論理で抑えつけながら、静かに立ち上がった。
課長室のドアを閉めるや否や、課長はレポートのコピーを椿の胸に叩きつけた。
「君はッ! 何てことをしてくれたんだ!」
課長の顔は、怒りと恐怖で歪んでいた。
「内部監査室だと!? 私の顔にどれだけ泥を塗れば気が済むんだ! 大体なんだ、プライマリー・バランスだと? 君は市役所を、財政学の実験室か何かと勘違いしているんじゃないのか!」
「私は、事実を報告しました」椿は、震える声を抑えて答えた。
「事実だと? 君が分かっているのは数字だけだ! その裏にある『人間』を、地域の『しがらみ』を、君は何も分かっていない! みどりガーデンズが、どれだけ古くから市に貢献してきたか……」
「課長」
その時、すべてを遮るように、静かで低い声が響いた。
課長の怒声が、蛇口をひねったようにピタリと止まる。
ドアの前に、いつから立っていたのか、一人の男が立っていた。
完璧にアイロンがけされた白シャツ。細身のフレームの眼鏡。冷たいミント系のオーデコロンの香りが、課長室の淀んだ空気を切り裂く。
霞が関市役所、企画部長、五十嵐。
市長の最側近にして、この市役所の事実上の「頭脳」と呼ばれる男だった。
「五十嵐、部長……! これは、その……」
課長が、先程までの怒声が嘘のように狼狽える。
「課長、声が大きい。非効率ですよ」
五十嵐は、課長には目もくれず、真っ直ぐに椿を見た。その瞳は、まるで昆虫を観察する科学者のように冷徹だった。
「君が、水守椿さんか」
五十嵐は、ゆったりとした動作で課長のデスクの前に座ると、同じレポートをもう一部取り出した。
「読みました。素晴らしい分析だ。特にこの『財政赤字』と『プライマリー・バランス』の相関を突いた部分は、そこらの議員よりよほど鋭い」
課長が息を呑む。椿も、予想外の評価に戸惑った。
「君の言う通り、これは『エラー』だ。年3,500万円の、明確な無駄遣いだ」
五十嵐は、あっさりと認めた。
「……では、すぐに是正を」椿が身を乗り出した。
「だが」と五十嵐が遮った。
「水守さん。君は大きな勘違いをしている。行政とは、数学のテストじゃない。エラーをゼロにすることが目的ではない」
彼は、指を組んで椿を見据えた。
「行政とは、利害関係の調整だ。君が『エラー』と呼ぶあの3,500万円は、みどりガーデンズと、その後ろにいる地元の建設業界を黙らせておくための『調整費』だ。一種の官製景気――行政が意図的に生み出す、局所的な好景気さ」
「それは、癒着では?」椿の声が震えた。
「言葉が過ぎるな」五十嵐の目が細められた。「私は、もっと大きな絵を描いている。君が今問題にしているのは、市の一般会計――市の基本的な活動を支える、いわば『家計の財布』――の中の、ほんの小さな支出に過ぎない」
彼は立ち上がり、窓の外に広がる霞が関市の平凡な街並みを指差した。
「私は、あの街に、年間数百億の金を生む『次世代型スマートシティ』を誘致しようとしている。そのために、地元の『しがらみ』の協力が不可欠な時もある。君が『エラー』を正そうと小さな正義を振りかざせば、私の大きな『合理』が頓挫する。分かるかね?」
「……合理的ではありません」椿は、震える唇で反論した。「それは、財政の私物化です。祖父の……」
「君の教科書は、そこまでしか教えてくれなかったか」
五十嵐は、心底つまらなそうにため息をついた。
「水守さん。君の才能は認める。だが、二度目はない」
彼は、椿のレポートを手に取り、目の前でゆっくりと、そして正確に半分に引き裂いた。
「君は、数字の森で秩序を守っていればいい。森の外のことには、口を出さないことだ」
ビリ、という乾いた音が、椿の心に突き刺さった。
彼女が初めて振りかざした「論理の剣」は、それより遥かに冷たく、重い、「組織の合理」という名の分厚い壁の前に、あっけなくへし折られた。




