第3章 随意契約という「歪み」と広報課の男
8,000万円と4,500万円。
その差額、3,500万円。
翌日から、椿の本当の戦いが始まった。
彼女はまず、財政課の書庫で「公園緑地管理費」の支出根拠となる契約書を探した。すぐに見つかった。ファイルは埃を被っておらず、毎年同じ場所にきれいに保管されている。
(……おかしい)
椿の指が、ファイルの背表紙をト、ト、ト、と神経質に叩いた。
あまりに整然としすぎている。まるで、誰にも触れられることなく、自動的に更新され続けているかのように。
ファイルを開く。中には、霞が関市と「株式会社みどりガーデンズ」という市内業者との間で交わされた業務委託契約書が綴じられていた。
椿の視線は、契約金額ではなく、その契約方式を記した項目に吸い寄せられた。
「随意契約」
椿の喉が、小さく鳴った。
祖父の教科書が、その言葉の重みを説明していた。
『随意契約とは、競争入札によらず、行政が任意で特定の相手を選んで契約すること。一般競争入札――つまり、価格と質で公正に競争させるのが原則であるにもかかわらず、この方式が多用される時、そこには癒着や非効率が生まれやすい』
(競争させていない?)
だから高いのか。
霞が関市の歳出(支出)は、公正な市場原理から見放されている。
だが、なぜ随意契約が認められているのか。椿は契約書に添付された理由書を読んだ。
「当該業務は、市内の生態系を熟知した高度な専門性を要するため、長年の実績を持つ同社が最適であると判断する」
(……生態系を熟知した、高度な専門性?)
椿の脳裏に、市役所前の、ありふれたツツジの植え込みが浮かんだ。
彼女は、その「高度な専門性」の中身が記された仕様書――市が業者に「何を」「どれだけ」やってもらうかを詳細に定めた指示書――を求めた。
しかし、財T政課の課長は、あの会議室での一件以来、椿を警戒していた。
「水守さん。それは君の仕事じゃない。契約内容の精査は管財課の仕事だ。君は決まった数字を打ち込んでいればいい」
冷たく言い放たれ、椿は自席に戻るしかなかった。
(壁だ)
初めて明確な「人間の意志」による妨害だった。
椿は唇を噛んだ。彼女の「Need(秩序の実行)」が、初めて他者の「Want(現状維持)」によって阻まれた。
(正面から行けないなら、側面から)
椿は思考を切り替えた。
(仕様書という『指示』が見られないなら、その『結果』を見ればいい)
8,000万円の「高度な専門性」とやらは、市の公園にどう反映されている?
彼女は、市の広報誌や過去のイベント記録を求めて、庁舎の3階にある「広報課」のドアを叩いた。
財政課の静寂とは対極の世界がそこにあった。
色とりどりのポスター、鳴り続ける電話、コーヒーの焦げた匂いと、大声での笑い声。秩序のかけらもないカオス。椿は、異世界に迷い込んだかのように立ち尽くした。
「はい、どーぞ! あ、ごめん今手ぇ離せない! その辺の誰か捕まえて!」
ビデオ編集ソフトと格闘しながら、ヘッドセットで電話対応している男が、こちらを見もせずに叫んだ。
Tシャツにパーカー、寝癖のついた髪。市役所職員とは思えない出立ちだ。
椿は、その男のデスクの前に、音もなく立った。
男が電話を切り、ようやく椿の存在に気づく。「うわっ、びっくりした! いつからいたの? えーと、市民の方?」
「財政課の水守です」椿は無表情に、しかし完璧な発音で名乗った。「過去5年分の『広報かすみがせき』と、公園で実施されたイベントの記録写真のアーカイブを閲覧したいのですが」
男は、きょとん、と目を丸くした。
「財政課? あの数字の墓場から? しかも公園の古い写真? なんでまた、そんな……マニアックな」
「業務上の必要性からです」椿は簡潔に答えた。
「……業務上」男は値踏みするように椿の全身(地味なグレーの事務服、一つに束ねた髪、伊達眼鏡)を見たあと、急にニヤリと笑った。
「あ、さてはアレか! 『キラキラ未来創造事業』の次のネタ探し? あのイルミネーション、SNSで『税金の無駄遣いグランプリ』とか言われてんの、知ってる?」
椿は小さく目を見開いた。
「……知っています。あれは**EBPM(証拠に基づく政策立案)**を無視した典型的な事例です」
「いーびーぴーえむ……」男は、その奇妙な響きを口の中で転がした後、腹を抱えて笑い出した。
「ははっ! 君、面白いな! 俺、広報課の健太。宮下健太。そこの議事録係ばっかやらされてる同期の」
健太。プロットの登場人物の一人だ。椿は、彼をデータの一つとして認識した。
「宮下さん。アーカイブはどこですか」
「はいはい。こっち。でも覚悟しなよ、こっちは財政課と違って、紙のデータは地獄だから」
健太に案内された書庫は、まさに「地獄」だった。
年度も種類もバラバラの広報誌やネガフィルムが、段ボールに雑然と放り込まれている。
だが、椿にとって、このカオスは苦痛ではなかった。
(秩序がないなら、私が作ればいい)
彼女は、自分の家計簿を整理するのと同じ精密さで、膨大な資料の分類を始めた。
数時間後。
椿は、過去5年分の広報誌を年代順に並べ、ある「事実」にたどり着いていた。
(……何も、変わっていない)
写真の中の公園は、5年前も今も、同じツツジが咲き、同じケヤキが並んでいるだけ。
どこにも「高度な専門性」の痕F跡は見当たらない。
そして、彼女は「地獄」の底から、一枚の紙を発見した。
それは、5年前に「公園リニューアル・セレモニー」が開催された際の、イベント式次第の案内に紛れ込んでいた、一枚のペラ紙。
――『公園緑地管理業務委託 仕様書(案)』
椿の手が止まった。
これだ。課長が見せなかった、仕様書。
彼女は、乾いた唇をなめた。そこには、信じられない一文が記されていた。
『作業項目:ケヤキ並木の剪定(年12回)』
(月一回!?)
椿は、植物に関する知識はなかったが、家計簿の感覚が「異常」を告げていた。
(普通の剪定は、夏と冬の年二回で十分なはず。なぜ、毎月?)
この過剰な作業項目こそが、8,000万円という異常な積算――事業にかかる費用を事前に見積もること――の正体だった。
これは、市の財産を食い物にする、意図的な「無駄遣い」の設計図だ。
市の財源が、毎年決まって特定の業者に流れ続ける。これこそが、霞が関市の財政の硬直化――予算が固定的な支出に縛られ、新しい政策に回すお金がなくなる状態――を招いている元凶の一つだった。
「おーい、生きてる? 財政課のおカタいお嬢さん」
健太が、紙コップのコーヒーを片手にひょっこり顔を出した。
「……ん? 何それ。『みどりガーデンズ』?」
健太は、椿が握りしめている仕様書を覗き込み、あ、と声を上げた。
「ああ、そこ、やめといた方がいいよ」
彼の声のトーンが、急に低くなった。
「そこ、市長の『トモダチ』の会社だから。財政課のエリートさんでも、触ったら火傷する」
椿は、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳には、恐怖はなかった。ただ、家計簿の計算が合わなかった時のような、冷たい怒りが宿っていた。
「火傷ではありません」
椿は、仕様書を指でト、ト、と叩いた。
「これは、霞が関市の予算に生じた、明らかな『計算エラー』です。エラーは、修正しなければなりません」




