第10章 最後の砦、予算委員会の攻防
霞が関市議会、予算委員会。
その日は、いつもの退屈な儀式とはまるで違っていた。
傍聴席は、SNSの呼びかけを見て集まった市民で埋め尽くされ、空席はおろか、立ち見まで出ている。
普段はまばらな報道陣のカメラも、異様な熱気を帯びて議員席に向けられていた。
この閉鎖的な空間に、明らかに「外」の空気が流れ込んでいた。
「――以上が、『次世代型スマートシティ・プロジェクト』の概要です」
壇上で、五十嵐は完璧なポーカーフェイスを崩さず、プレゼンテーションを終えた。
彼の説明は「合理的」の極みだった。
『財政の硬直化』を打破し、新たな税収(歳入)を生み出す未来への投資。その必要性を、彼は流れるようなデータで示してみせた。
野党議員からの「本当に**財政健全化**に繋がるのか?」という鈍い質問も、「未来への先行投資にはリスクが伴う。しかし、何もしないことこそ最大のリスクです」と、冷徹な論理で一蹴する。
議会の空気は、徐々に「五十嵐やむなし」という諦観に支配されかけていた。
その議場の片隅。傍聴席で、宮下健太はスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
彼の指が、凄まじい速さでテキストを打ち込む。
『【LIVE配信中】#霞が関市の審判 五十嵐部長、市民の疑問に答えず』
『「何もしないのがリスク」←宝くじローンを正当化』
ライブ配信の同時接続数は、この小さな市の人口ではありえない「1万人」を超えようとしていた。
日本中が、この小さな地方議会に注目し始めていた。
「――他に、ご質問は?」
議長が、シナリオ通りの終結を促すように、議場を見渡した。
「はい」
凛とした、静かな声が響いた。
議場にいる全員の視線が、声の主――傍聴席の最前列に座る、水守椿に突き刺さった。
「傍聴人は発言を許可されておりません」議長が咎める。
「私は、霞が関市・市民番号203481、水守椿です」椿は、職員証のない身分を、そう名乗った。「**地方自治法**第115条の2に基づき、市民として、予算案に関する請願書を提出しています。この場で、意見陳述の許可を求めます」
議場が、ざわめいた。
(元・職員の、あの動画の……)
(懲戒免職になった女だぞ)
五十嵐の眉が、ピクリと動いた。
だが、市民と報道陣、そして1万人の「ネット傍聴人」が見守るこの場で、議会は「市民」の正当な権利(請願)を無下にはできなかった。
「……3分だけ、認めます」議長が、苦々しく言い放った。
椿は、ゆっくりと立ち上がり、傍聴席のマイクの前に立った。
彼女の手には、あのボロボロになった祖父の『財政学入門』が握られていた。
「五十嵐企画部長にお伺いします」
椿の声は、マイクを通して、静かに、だが議会の隅々まで染み渡った。
「あなたは、この計画を『合理的』だとおっしゃいました。
ですが、財政学における本当の『合理』とは、『ワイズ・スペンディング(賢い支出)』、すなわち、最小の費用で最大の効果を生むことです」
彼女は、教科書の一節を指差した。
「あなたの計画は、その逆です。
白石興産(市長の後援会)の山林に、なぜ相場の3倍、15億円もの『公共事業』費が支払われるのですか?
それは『賢い支出』ではなく、『特定の相手への、非合理な所得移転』です。その一点において、この計画の『合理性』は、根底から崩れています」
「……!」
五十嵐の表情が、初めて硬直した。議員たちも、具体的な数字と名前にどよめく。
椿は、続けた。
「次に、あなたは『未来への投資』だと言いました。
財政学には『世代間会計』という考え方があります。今の世代が受けた**受益のコストを、未来の世代に負担**させてはならない、という原則です」
彼女は、五十嵐を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの計画は、失敗が明らかな『宝くじローン』です。
300億円の**地方債**という名の借金を、まだ生まれてもいない子供たちに押し付け、自分たちは『スマートシティ』という名の花火を見る。
これを、財政学では『投資』とは呼びません。『未来世代からの、略奪』と呼びます」
「……貴様!」
五十嵐の冷静な仮面が、ついに剥がれた。
「そして、最後に」
椿は、議場全体を見渡した。
「あなたは、市の**プライマリー・バランス(基礎的財政収支)**を無視しました。
これは、その年の税収(歳入)で、借金(国債・地方債)の利払い以外の政策(歳出)をどれだけ賄えているか、を示す『家計簿の健全度』です」
彼女は、祖父の教科書を高く掲げた。
「この計画は、市のプライマリー・バランスを、未来永劫、赤字に叩き落とします。
それは『賭け』ですらありません。確実に引き金を引く『財政破綻』への引き金です」
椿は、言葉を切った。
「私は、霞が関市の『職員』としては、あなたに負けました。
ですが、今日、私は、この教科書に書かれた『財政学の原則』を信じる一人の『市民』として、この予算案に、強く、反対します」
議場は、静まり返っていた。
水の落ちる音すら聞こえそうな静寂。
その静寂を破ったのは、傍聴席の一人の市民が、恐る恐る、そして強く手を叩いた「拍手」の音だった。
その拍手は、一人、また一人と伝染し、やがて議場全体を揺るがす「嵐」のような喝采へと変わっていった。
健太のスマートフォンのコメント欄は、「そうだ!」「よく言った!」「#市民の勝利」という文字で埋め尽くされていた。
五十嵐は、その場で凍りついたように立ち尽くしていた。
彼の「合理」が、より大きく、より普遍的な「論理(財政学の原則)」と、それを支持する「市民(民主主義)」によって、公衆の面前で、完璧に論破された瞬間だった。




