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つれない膝痛

作者: ちりあくた

 膝痛という名目であった。老人は七十五歳だったので、誰も彼の病状を疑う者はいない。医者でさえ同情を寄せ、愚痴ひとつなく痛み止めを処方してくれるだろう。何度通院しようと違和感もなく、疑念を抱かれることもない。


 彼はいつも通り近場の医院にいた。開院してから十年弱になるが、几帳面な院長の方針ゆえか、内壁のくすみ以外は新築のような輝きを放っている。

 看護師も愛想のいい面々が揃っていた。職場の雰囲気も良く、患者も多すぎず、院長の金払いも悪くないのだから、優秀な人材が集ってくるのは当然の成り行きだった。


 老人の名が呼ばれたのは、診察券を出してから十五分後だった。さすがに休日の昼過ぎという時間帯だからか、平時より遅い呼び出しだった。苗字が呼ばれ終わる直前に立ち上がり、ハッとしたように膝を抑えてよろよろと杖をついた。


 それは演技であった。彼に膝の痛みなどない。ただ、やることがなかったのである。彼にとって日々など、ツバメの子のように口を開け、ただ年金の支給を待っているだけの時間だった。能動的に暇を潰さねば、寂しさやら侘しさやらに締め殺されそうな危機感があったのだ。


 老人は診察室に入ると、医者に勧められるがまま、彼の正面の丸椅子に腰掛けた。部屋は一面、真新しい壁紙に囲まれて真っ白だった。彼の弱った目でも少し眩しく感じられるほどだった。


「どうも、また膝痛でしてね」

「またですか。何か先週と変化はありましたか」

「少し左膝の痛みは引いてきましたが、今度は右が酷くなってきてね。モグラ叩きみたいに繰り返し痛みが出てくるんで」

「まあ、歳が歳ですからね。我慢しろとは言いませんが、仕方ない状態ではあります。検査結果を見るに、酷い炎症というわけじゃなさそうですが、痛めたきっかけは……」


 他愛なく診察は進んでいく。膝痛が嘘であろうと、何かの問題に対して他人と協力し、解決へ進んでいく過程、彼はそれを得たがっていた。往年の仕事一筋だった頃に戻れたような満足感に溺れていた。


「……湿布を処方しておきましょう。また何かあったらいらしてください。では、待合室でお待ちください」

「ええ、ええ、何度もすみませんね」


 そうして診察は終わった。彼は「あいたたた」と膝を抑え、杖をつきながら戻っていった。待合室では国営放送のニュースが流れていた。数人いる患者は皆一様に、銅像のごとく、じっと液晶画面を見つめていた。


 そんな中で一人、診察室から出てきた老人に視線を向ける者がいた。老人がよく医院で出会う老婦であった。彼女は老人を目の端に捉えると、彼の方をゆっくりと向いて微笑んだ。


「久しぶりですねえ。また膝痛ですか」


 彼女は「膝痛」をわざとらしく強調して言った。どうやら老人の通院する意図を見透かしているようだった。老人は受付に座る看護師を一瞥すると、「ええ、歳なものでね」と弁解するように答えた。


「あなたは治ってきたようですね。腕のギプスも取れて」

「ええ、予後観察という感じです。この歳になるとろくに登山もできないなんて」


 嘆くような彼女に対し、彼は軽い笑みを返した。


「全く、たくましいばかりですよ。私の周りにいるやつなんて、もう誰もレジャーなんてしちゃいない」

「動かなければ衰えるばかりですから。あ、周りといえば、ここによく通ってた山﨑さんいたでしょう。彼、亡くなったんだって」

「……そうですか」


 山﨑さんというのは、老婦のように老人とよく顔を合わせていた男性であった。初めは恰幅のいい人だと思っていたのが、次第に肉が減っていき、一番新しい記憶では、判別もつかなくなるほどに痩けていた。話は面白かったのだが、九相図を見せられているようで、あまり会う気にはなれなかった。老いの恐ろしさを嫌でも感じさせられる人であった。


「彼、すごい早さで痩せていったものですから。長くないとは思っていましたがね」

「ええ、私もそう思ってたんです。話によると癌だったとか。整形外科に来ている暇なんかあるのかしらと思って、その人の知り合いの患者さんに聞いてみたら、延命治療に一切手をつけていなかったって」

「癌を治さず、腰痛を治しに来ていたんですか?」

「ええ、そう言うとちょっと面白いんですが。それで、彼の言ってたことで印象に残ったのがありまして」


 彼女はカバンからメモ帳を取り出し始めた。いくつも付箋が貼られ、不格好にぶくぶくと膨れていた。そうやって誰かの言葉を記録するのが趣味なのだろうか、と老人は思っていた。


「これですこれです。友人に言っていたんだって」

「なんと言っていたんです?」

「どうやら彼の友人に医者の息子がいて、癌治療のために紹介すると言われたらしいんです。そのときに彼が言ったのが、『俺が友人に求めるのは治療じゃない、葬儀に来てくれることだ』と」

「はあ。遠くで見守っていて欲しいということなんですかね」

「どうでしょうね。本当の意図は分かりません。生きる希望が見出せないだけだったのかもしれませんし。ただ、なんだか印象に残ったんです。かっこいいでしょう、この言葉」


 老人は特にその発言に対して共感を抱かなかった。そんなもの人によるだろう、という投げやりな無関心さえ芽生えていた。ただ、話題の繋ぎとして彼は質問した。


「もし私が凄腕の医者で、あなたが山﨑さんの立場だったら……治療して欲しいと思いますか?」


 すると彼女はきょとんとした顔の後、ふっと笑って「いいえ」と答えた。嘲りのようにも思えたが、彼は考えすぎだろうと続く言葉を待った。


「あなたは葬儀に来てくれればいいんです。医者だからとか医者じゃないからとか関係なく。だって、その方が自分の足だけで立てるでしょう。私はそうしたいんです」


 やがて老婦の名が呼ばれ、彼女はゆったりと診察室へ向かっていった。「では」と挨拶をして、老人は診察室でじっとテレビを見つめ始めた。


 ちょうど明日の天気予報が流れていた。どうやら明日は一日中曇りで、ひんやりとしたお出かけ日和のようだった。

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