第16話 爆心
「あの頃の私は、何も知らない少女でした。本当にソルド人のためだけに、戦おうとしていた。でもあなたは、もっと多くのものを背負っていたんですね……」
「お前を見捨てたわけではない。だが、何も知らないお前たちを、まだ人間のままの、目覚めていないお前たちを巻き込みたくはなかった。あの国で生き残るための最低限の術だけを教えてから、私はすぐに旅立った」
イランという国も、ユリシーズたちにとっては決して安住の地ではなかったのだろう。戦争初期、アフガニスタンからの難民流入を阻止しようとする動きが起こった。あの頃、もっと大局観を持った人間が多ければ、とは思うが、もはや過ぎたことでしかない。
ユリシーズの話はあまりにも壮大で、完全には理解しきれないというのが本音だった。けれど、少なくとも耳を傾ける価値がある話だということは理解できた。それに……彼女にとっては大いに救いになる話だったのだろう。
「さあ……もう行け」
ユリシーズが告げる。
ザラが手を離す。
車の一台に二人で乗り込み、飛行場までの経路を伝えると、すぐに車が発進した。ユリシーズも、ソルド人たちも、あっという間に後方へ過ぎ去っていく。車が丁字路を曲がった時、空から爆音が響いてきて、戦闘機の編隊がハイウェイの上空を旋回していくのが見えた。陽光を照り返して、昼間の星のように輝いていた。
《Vespa flight, Reference North.》
(ヴェスパ編隊、北へ針路を取る)
テヘラン上空に現れた「群体」の航空機はおびただしい数だった。
長距離ミサイルはすでに使い切っていた。今残っているのは中距離ミサイルと短距離ミサイルが二発ずつ。燃料にはまだ余裕があった。空軍が大量の戦闘機を離陸させたおかげで第一波はどうにか撃退できたが、すぐに敵の増援が殺到してしまった。友軍の地対空ミサイル部隊も奮戦しているものの、「群体」の地上部隊がこちらに向かっている。機甲師団が相当数含まれているとの情報も上がってきた。
「新北部同盟が前衛を務めるらしいな」
テヘラン攻勢の概要を、ユリシーズはとっくに把握していた。
「あの連中のことだ。第一陣を切るのはソルド人の役目になるだろう。つまり……私の率いる部隊だ」
「非常に言いにくいことですが、相手は『群体』です。戦闘が始まった場合、あなたがたの部隊の損耗率は……」
「だから、皆で覚悟を決めたよ」
それに、これはある種の試みでもある、とユリシーズ。
「規模は違えどソルド人の『群体』が敵の『群体』と交戦するんだ。ある程度、向こうの出方を見極めることはできる」
ユリシーズは私兵という意味で「部隊」と呼んでいたのだろうが、その規模は三個師団レベルという、一個人が作り上げたにしては非常に大きなものだった。運が良ければ、「群体」に対して局地的な攻勢をかけることも可能かもしれない。そうでなくとも、防御戦闘ではきっと十分に……そんな予測ばかり立てていても何にもならないことはよく分かっていたけれど、彼と、彼の率いる者たちの力を信じたかった。
新たな敵機を捕捉。友軍機に撃たれたらしく、ビーム機動で回避を試みている。
「ザラ、あの敵機を狙え。STTロックだ」
「了解、パルスSTTに切り替えます」
ロックオンと同時に、ザラの手で中距離ミサイルが発射された。同時にロックオン警報が鳴る。ミサイルの誘導を中断し、回避機動。その間にもう一機が急速に接近してくる。
《Vespa 1-2, Engage.》
(ヴェスパ1-2、交戦する)
敵機は二番機を狙っていた。すかさず援護に入る。二番機に回避するよう伝えつつ、短距離ミサイルを選択。敵機がロックされる。赤外線シーカーの甲高いトーンが耳に響く。急激な旋回で体重の何倍ものGが体にかかる中、トリガーを引いた。
《Vespa 1-1, Fox 2.》
(ヴェスパ1-1、フォックス・ツー)
翼の下から飛び出したミサイルが敵機に向かって突っ込んでいく。慌てて回避しようとしても遅い。敵機の排気口に直撃し、爆散。
二番機と編隊を組み直す。
フットペダル付近の小さな時計を見る。作戦が予定通りに進んでいれば、まもなくユリシーズたちが「群体」の地上軍と会敵するはずだ。「群体」の航空機を追い払いつつ、ソルド人たちが善戦してくれることを雲の上から願うしかない。純粋な瞳をしたあの若者たち——私とザラを、穏やかに見つめてくれた若者たち。
「ザラ」
「はい、大尉」
「その……大丈夫か」
一瞬、沈黙があって、それから、
「質問の意図が分かりかねます」
「ああ、その、つまり……地上の彼らのことだ」
「……ユリシーズは、無謀な戦闘計画を立てるような人ではありません」
意外な反応だった。戦闘中に余計な会話をするなと、以前のザラならきっとそう答えただろう。
丸くなった、というのはこういうことを言うのだろうか。
そうであってほしい、などと願ってしまうのは私の勝手だろうか。
《Vespa 1-1, Overload.》
(ヴェスパ1-1、こちらオーバーロード)
AWACSから交信が入る。新たな敵機の接近か。ミサイルは残り二発だが、まだ十分に戦える。
《Two ships, BRAA 010/ 50 26 thousand——》
(二機の反応、貴機から方位010、距離50マイル、高度26000フィート——)
その瞬間、交信が途切れた。
同時に、空が急激に明るくなって。
絶句したまま、ただ空を見つめることしかできなくて。
高高度へと立ち上っていくその雲は、忌まわしいキノコ状の形を成していく。
あのキノコ雲の下に居るのは、おそらく──
「とっくに気づいたと思うが」
出撃前にユリシーズが教えてくれたことを、私は思い出す。
「ソルド人の『群体』と、今、世界中で暴れまわっている無数の『群体』には決定的な違いがある」
「成立経緯、でしょうか」
「そうだ。何百年も昔に誕生したソルド人の『群体』と異なり、今の戦争を引き起こした世界中の『群体』はわずか十年足らずで大量発生した。奴らの共通点は、異常なまでの排他性だ」
その排他性ゆえに、「群体」は他の「群体」との接触を嫌い、それが回避できない場合は実力行使に出ることとなる。
「だが、その『実力行使』がいかなるものかは不明だ。それを調査する意味でも、今度のテヘラン攻勢における私たちの出撃は重要だ」
「随分と危ない橋を渡られるのですね……」
そんなことばかり気にしていたら奴らとまともに戦えないぞ。ユリシーズは笑いながらそう言って、
「だが、排他性を持つに至った理由についてはすでに判明している。2010年代に起きた技術革新がその原因だ」
「技術革新?」
「今の世代の君たちには馴染みがないだろうが、あの時代には、世界中がコンピュータのネットワーク網で覆われていた。『インターネット』と呼ばれるサイバー空間だ。個人用のパーソナルコンピュータや携帯端末が、国境を越えて世界中と繋がっていたんだ」
歴史の一ページとして、私たちの世代も少しだけ教わる話だ。
「群体」によって引き裂かれる前の、グローバルな人類文明が存在していた時代の昔話。
「やがて、人類は自らの肉体そのものをコンピュータネットワークに接続し始めた。生体端末と呼ばれるものだ。通信端末となる電子機器を脳に埋め込むことにより、人間の身一つでネットにアクセスすることが可能となった」
「生体端末……そんなすごい技術が……」
「本当にあったんだよ、そういう技術が」
私の正直な反応は、ユリシーズに予想されていたようだ。
「結論から言えば、この生体端末こそが各国の『群体』を生みだした。生体端末は世界中に普及したが、これを介してネットにアクセスした各国の国民たちは、愛国心や民族主義と呼ばれる類の共同体意識を異常なレベルにまで強めることになった。それはいつしか、そこにアクセスした人間たちを次々に取り込んでいく自我を獲得し、行き過ぎた同胞愛は単一の集合知性を生み出すことになった」
「それが『群体』……」
そして、行き過ぎた同胞愛は、異常なまでの排他性と表裏一体だ。
だから奴らは、ユリシーズたちを、ソルド人たちを、核で吹き飛ばした。
ザラに対するユリシーズの優しさを、私は薄々察していた。
ザラと行動を共にする私に対して、ユリシーズは作戦直前まで明かしてくれなかった。
「群体」が広まった真の理由が、ユリシーズであることを。
「生体端末は当初、軍事目的で開発された。最初にそれを採用したのは、当時ソルディスタンに展開していた米軍特殊部隊──すなわち、私たち情報軍の部隊だった。ソルド人の『群体』と接する過程で、『群体』特有の結束力と排他本能が生体端末を介して情報軍の将兵たちに広まった」
「そして情報軍そのものが『群体』化して、虐殺行為を引き起こした……」
「そうだ。そして、その時ただ一人、部隊を離脱していた私はアメリカに帰国していた──私自身も『群体』に感染していたと知らずにな」
2010年代初頭、「群体」が最初に発生したのはアメリカ合衆国だった。
瞬く間に北米大陸を侵食した「群体」は、人類が築いたネットワーク網を通じて世界中に広まり、世界各国の人々の愛国心やイデオロギーに火をつけた。
そんな真実は闇に葬ってくれ──ユリシーズはそう言った。
私の保身のためではない、私を慕ってくれた彼女のために──
「大尉」
もうすっかり耳に馴染んだ、彼女の声。
ザラ・カルザイ少尉。今や数少ない、ソルド人の生き残り。
空に上がって戦う時、地上で人間として生きる時、常に隣にいてくれる相棒。その声を聞くだけで、彼女が抱え、乗り越えてきた思いを理解できる程度には、すでに長い付き合いになっていた。
彼女と共にヘルメットを被り、コックピットに座る。エンジンの始動手順が完了し、離陸許可が下りる。滑走路に出て、機体が震え始める。ターボファンエンジンの咆哮が、私たちを空へ押し出す。
「機内通信装置をチェック」
「感度良好です、大尉……離陸前に確認しましたよ」
「分かっている」
明らかに余計な行動であると分かっている。それでも。
「ザラの声が聞きたいんだ、私は」
機体が雲を突き抜けて、視界いっぱいに青空が広がる。翼の端から薄い航跡雲が引かれていく。
速度が音速を超えた頃、ようやく彼女が、かすかな笑みを浮かべていると分かる声で、短く返答してくれる。
「はい、大尉」