第15話 民族
何度かモスクへ足を運ぶうちに、この街の地理にも明るくなってきた。田舎町といっても、中心街や商店街に行けばそれなりの賑わいがある。住宅街もなかなかの規模で、決して小さな街ではないようだ。
「群体」による大規模なロケット弾攻撃は修羅場を現出させた。
1980年代のイラン・イラク戦争で作られたシェルターに退避した人々の数は明らかに定員を超えていた。じっと息を潜める少女、勇ましい言葉を放つ青年、誰にともなく怒鳴る男、赤ん坊を必死であやす母親……ジェットエンジンの音が空から響いてきた。
飛行場に戻れずにいた私とザラは、友軍機がロケット砲を爆撃してくれることを願った。とはいえ、「群体」の地上戦力が迫ってきたということは、それを支援する航空部隊も飛んできているはず。友軍が航空優勢を確保できなければ、逆にこの街が爆撃される可能性もある。
「地上で犬死にしたくはない……」
「それ以外の死に方を望むのか?」
私のふとした呟きは、背後の男にも聞こえていたらしい。
「私の死に場所は二択だ。ベッドの上か、コックピットか」
「なるほどね」
背中合わせで互いの表情が見えないが、男は納得してくれたらしく、
「君は軍用機乗りというわけか」
「ええ、戦闘機を操縦している」
「F-4ファントムか? あるいMig-29……」
「F-14トムキャット。二人乗りの戦闘機だ」
ロケット弾の第二波が次々に着弾したらしく、轟音と共に地上が震えた。衝撃で体がよろめいたが、なんとか踏ん張る。
「ということは、隣にいる彼女は君の相棒というわけか」
その言葉にぎょっとして振り向く。隣のザラも同じ反応をみせていた。
男の体格は、明らかに常人のそれを超えていて。
男の眼差し──モスクで遭遇した、あの男の眼差しだった。
「尾行するなら、もう少し上手くやるべきだ」
「気づいていた……いましたか」
「君の相棒が何度も接触を試みていたからね。共にモスクで祈りを捧げたり、かと思えば入り口で待ち伏せしたり。君との二人がかりは今日が初めてだが」
気づかれぬよう誰かを追跡したり、その逆の立ち回りをしたりする経験は、少なくとも君たちよりは積んでいる──男の低い声が響いた。
「やはりあなたは軍人、あるいは過去に軍歴を有する方ですね。それも他国の……アメリカ人ですか?」
「今はただの老いぼれだよ。過度な期待はしないでくれ」
ロケット弾の攻撃がやんだ。
シェルターの入り口近くにいた青年が恐る恐る外へ出ていくと、他の者たちもあとに続いた。ここへ逃げきれず地上にとどまった人々も多いのではないかという私の予想は、残念ながら正しかったようだ。土煙が晴れていくにつれ、血の匂いと共に手足や頭を失った者たちが路上に現れた。誰かのむせび泣きや怒号が、後に続く。
忌々しいことに交通インフラも麻痺してしまったので、今すぐ飛行場に戻ることができない。その辺りの事情も男にはお見通しだったようで、
「私の仲間に車を回させよう。三十分ほどで用意できるはずだ」
そのついでに、と男は続けて、
「君たちのために謎解きをしてあげよう。これ以上尾行されてはかなわんからな」「恩に着ます」
ザラはずっと口を閉じたままだった。いつも通りというべきか分からないが、随分と険しい表情をしていた。私の聞き間違いでなければ、この男はザラの恩人だったはずだが。あるいは恩人ゆえに、一言では形容できない類の思いでも抱えているのか。
不意にザラがこちらへ振り向く。
「分からないのですか、大尉」
「何が?」
「本当に分からないのですか、大尉。彼こそが……彼こそが、この戦争の始まりを世界中の誰よりもよく知る人間ですよ」
「……期待しないでくれと言ったばかりだろ」
男がようやく、ザラに話しかけた。
「期待しないでくれ? よくそんなことが言えますね。かつて私たちをまとめ上げてくれたあなたが」
「私の言葉を忘れたのか。自分の足で立って生きていけと、そう教えたはずだ」
「そのためにあなたへの想いも断ち切れと?」
ザラの両手が拳を作った。見たことのない反応だった。
「どれほど多くの……どれほど沢山の人たちがあなたに期待していたか分かりますか? アメリカを裏切った男などと呼ばれようと、私たちにとってあなたは英雄だった。その立場ゆえにあなたに手を差し伸べられなかった人たちも、本当はあなたのことをずっと気にかけていた」
初めてだった。
饒舌なザラを見るのは、これが、初めて。
「マチルダも……あなたの妹もそうだった」
涙がこぼれて。
コックピットにいる時は、あれほど冷静な彼女の瞳が潤んで。
ザラの心をこれほどまでに動かす人間を初めて見た。同時に、彼が何者であるか、私も思い出しつつあった。随分と昔に見たニュース映像の記憶を、脳裏から引っ張り出して。
アメリカを裏切った男。人類で初めて「群体」と接触した男。ザラたちに、すなわちソルド人のために力を尽くした、米軍特殊部隊の大男。
目の前の男の顔が、かつてテレビや新聞に何度も引っ張り出されたそれと重なる。無数の顔写真の下に記されたその名を、ようやく記憶の底から引っ張り上げた。
——ユリシーズ。
アメリカ情報軍所属、ユリシーズ・ミッチェル中尉。
アフガニスタンとパキスタンに挟まれたその小国は、ソルディスタンと呼ばれていた。
イスラム圏に囲まれながらも、独自の言語と宗教を持つソルド人の国家。19世紀にイギリス領インドに飲み込まれ、第二次世界大戦後に独立を果たすも、民族分布を無視した国境画定により一部のソルド人地域はアフガニスタンに編入されてしまう。やがて動乱の時代が始まり、ソルド人たちも否応なしに戦火に巻き込まれていく。
「9.11テロを契機にアメリカがアフガニスタンに介入して以降、ソルディスタンもまた、対テロ戦争の最前線となった。タリバンやイスラム過激派の拠点と見なされ、米軍による空爆が始まった。そうした武力行使とは別に、この国に対しては一風変わったアプローチが取られた」
客間のソファに背中をあずけたユリシーズは、そう話を切り出した。
「それを実行したのが、私の所属していたアメリカ情報軍だった。新設されたばかりだから早めに実績を上げたい、だが広大なアフガニスタンで作戦を実行するには部隊の数が足りない。そういうわけで、『試験的な』作戦の実施場所として選ばれたのがソルディスタンだった」
当時のアメリカは対テロ戦争に対する最適解を模索していた、とユリシーズは続けて、
「21世紀の対テロ戦争を戦っていく中で、アメリカは紛争国の文化や歴史、風土や生活様式等の要素を考慮することを検討し始めた。その種の非軍事的要素を分析することで、紛争国で生まれ育ったテロリストの行動原理等をある程度まで分析し、把握できないかと考えた。軍事における文化人類学の応用だ。その構想を実現した結果、情報軍が創設された」
雲をつかむような話にも思えたが、ある程度の理屈はなんとか私にも理解できた。学者が行うようなフィールドワークを専門とする部隊、とはなんとも不思議な印象を受けた。だが、アメリカは現実にそのような部隊を組織し、戦地に送り込んだのだ。
「作戦は、一定の成果を上げた。私たちの部隊はソルドの人々に溶け込み、生活を共にして多くの情報を得た。彼らの価値観や文化を学び、共同体の一員として暮らせるレベルにまで達した」
だが、その直後に全てが崩壊した——ユリシーズの言葉に聞き入っていた時、急に外が騒がしくなった。
思っていたより早いな、と、ユリシーズが呟きつつ、私とザラを手招きした。随分と早いが、迎えが来てくれたようだ。
三人で外に出て、しばらく呆気にとられる。路上を埋め尽くさんばかりの勢いで、何台もの車が目の前に止まっていた。
「一台だけでいいと伝えたはずだが……」
「我々の同胞を護送せよとのご指示でしたので」
若い男が車から降りてきた。他の車のドアも次々と開いて、大勢の人間たちが私たちを取り囲む。思わず身構えたが、ユリシーズが私を制した。
「彼らは私の仲間だ。君と……ザラを守ってくれる」
「久しぶりだね、ザラ」
若い男が彼女に話しかける。
彼女は——私が見たことのない表情を浮かべていて。
「空軍に入隊したことは知っている。あのザラが立派な軍人になったんだなって、皆で喜んでいたよ」
「私は……私は」
「だけどもう、背負う必要はないんだ。ぼくらのためだけに、ソルド人のためだけに戦ったり、身を捧げたりする必要はない。これからは君自身のために戦い、そして生きろ」
ユリシーズが、ザラの肩に手を置く。
大粒の涙を、ザラは静かに流していた。
その横顔に、思わず見惚れてしまう。
「さっきの話の続きだが……今ここで話そう」
ユリシーズは言った。情報軍の作戦は失敗した、私たちが溶け込み、理解しようとしたソルディスタンという国は混沌に叩き落された、と。
「ソルド人は独自の言語や宗教を持つ民族だ。その起源を辿ると、太古の昔、ソルディスタンを支配した一人の王に行き着く。王は部族社会だったソルディスタンを一国家として統一した後、公用語を制定して全土に普及させることを計画した。その際、王は決して地方語を弾圧するような真似はせず、むしろ各地の地方語の語彙や文法を取り入れた真の公用語を作り上げた。同様の方針は社会政策や生活規範にも及び、『ソルド人』という共同体思想を発生させた」
王は紛れもなく名君だった。だが名君すぎた。
ユリシーズの語り口には、いつの間にか惹きこまれてしまう何かがあるようだ。
「ソルド人としての連帯意識、共同体意識はあまりにも強力になりすぎた。価値観や生活様式どころか、些細な思考までが統一され、しかもソルド人たちはそのことに全く気が付いていなかった。まるで皆の一挙手一投足が連動するような、どこか異常な社会と化していたにも関わらず、誰もが当然のこととして受け入れていた」
「それって……それじゃあ、彼らはまるで……」
まるで「群体」じゃないか。
「ああ、そうだよ」
ユリシーズが落ち着いた口調で答えて、
「私は……私の部隊は、人類で初めて『群体』と接触したんだ」
私たちを取り囲むソルド人たちは、しかし、誰もが穏やかな表情を向けていた。彼らからおよそ敵意や、殺意といったものは全く感じられない。
「2010年代から世界中で次々と『群体』が発生して、この戦争が始まった。だが奴らと違い、はるか昔に誕生したソルド人の『群体』は非常に穏やかな性質のものだ」
「では、何が問題だったんです」
「……大虐殺だ」
ユリシーズはそこで一度言葉を区切って、
「ソルディスタンでは、大虐殺が起きた。ソルド人の『群体』と接触したことががきっかけとなり、現地の情報軍部隊が虐殺行為に走った。集合知性に飲み込まれた戦闘員がいかなる危険性を秘めているか、私たちは何も理解していなかった」
ユリシーズの語りが場の空気を支配していた。口を挟む者は一人もいなかった。
「不幸中の幸いと言うべきか、私は戦闘で追った傷によって一時的に部隊を離れていた。だが、だからこそ、やり場のない悲しみと怒りが募った。アメリカに帰還しても、その苦しみは続いた。医者にはPTSDだと言われたが、今思えば、私は贖罪の念にかられていたんだろう」
呪いから逃れることは許されなかった──ユリシーズの表情にこみあげる感情が見てとれた。
「そして、私は一人でソルディスタンに戻った。再び銃を握り、行き場を失ったソルド人たちを集めて部隊を作り上げた。私を憎む者も大勢いた。それでも、彼らはもう、『群体』の何たるかに気が付いてしまったから、米軍の占領下となったソルディスタンに残ることはできなかった」
「そして、アフガニスタンに来て……私を救ってくれた」
ユリシーズの手に、ザラの手が重なった。