第13話 祖国
アメリカ人と出会った。
質素ながらも小綺麗な客間のソファに腰かけ、時折思い出したように掌の古傷を摩る姿からは終始穏やかな空気が発せられていた。父親ほどの年齢だと聞かされていたけれど、その語り口に耳を傾けているだけで年月の厚みを感じ取るには十分だった。
「では改めて……ジャミーレ・ヤズディ大尉です。隣の彼女は」
「知っているよ」
男は片手を上げてやんわりと制止してから、
「何年ぶりだろうね、ザラ」
ザラ・カルザイはいつも通りの無表情——ではなかった。仮面と話しているようだ、などと皆から言われてきた彼女の、その青い瞳に、今は揺らぎがみとめられる。
私たちの目の前にいる男にはそれほどの価値があるのか。
私が一年近く腐心しても溶かすことができなかったザラの心を、この男は視線一つで無意識の領域まで開かせた。そのことに気が付いてから、畏怖と衝撃、それから、少しばかりの恥ずかしく醜い感情が湧きおこった。
「私が……私がどれほどっ……」
「言い訳をするつもりはない」
言い訳ができるような余裕さえ、この男にはずっと与えられてこなかったのだろう。人類として初めて「群体」と接触し、祖国を捨ててまでその脅威に立ち向かってきた男。受難の歳月を生き抜き、今なお銃を握り続ける男。
裏切り者か、生ける伝説か。そのどちらも背負って、彼はあまねく世界を渡り歩いてきた。
聞きたいことは山のようにあったが、質問攻めなどと言う無粋な真似はせずに彼の言葉を待つことにした。感情の発露という人間らしさを見せたザラと、彼女の言葉を淡々と受け入れる彼の間に、容易に立ち入ってはいけない何かを感じ取った。
「アフガニスタンの情勢については私も聞いている。できうる限りの支援はしたつもりだが、やはり力不足だったことは否めない。どのような言葉も受け入れる覚悟だ」
「違う……違う違う違う!」
ドンッ、と音がして客間のテーブルが震えた。ザラが拳を握っていた。
過ぎ去った歳月はあまりに長すぎた。少なくとも、彼女の目元を潤ませるには十分すぎるほどに。
やはり席を外すべきだろうか。そう思って腰を上げようとすると、ザラに袖を掴まれた。強い力で引っ張られて、傍聴人が必要とされていることを悟った。
男の方はと言えば、十分前から変わらぬ表情のまま私たちを見つめている。私が再び腰を下ろすと、こちらも名乗らねばな、と男が口を開いた。
「アメリカ情報軍、特殊作戦部隊……いや、そんなものは過去の栄光か」
今の私は、ただの私だな。
男は自嘲気味にそう呟いてから、
「私が、ユリシーズ・ミッチェルだ」
私たちの戦いに、第二次イラン・イラク戦争とかいう不正確極まりない呼び名をつけたバカがいた。たしかに最初に遭遇した「群体」はイラク方面から侵攻してきたけれど、あれは人間をやめた化け物として扱うべき存在なのだ。同じような化け物は後にイラン国内からもわらわらと湧いてでてきて、南に逃れた私たちとこの国を二分した。
世界中がずっと似たような戦況だったから、雲南の中国人たちが「群体」に対する史上初の反抗作戦を開始したというニュースは久々の朗報だった。私たちだって、イスファハーンやケルマーンの防衛線を破られたことはなかったけれど、最重要任務であるペルシャ湾防衛の重責はイラン空軍にもじわじわとのしかかっていた。
イラン及びアラビア半島内の油田地帯、ペルシャ湾を含む原油タンカーの航路を死守せよ——かつて対立していたアラブ諸国と共に湾岸地域の航空優勢を維持しつつ、空対艦ミサイルを積んだ「群体」の戦闘機をイラン空軍が次々と撃墜しているのはそういうわけなのだ。
かつて皇帝がこの地を統治していた時代のように、アメリカ人たちは再びイランへの支援を始めた。アフガニスタンが完全に「群体」の勢力下に入り、大量の難民がイランに流れ込んできてから、もはやイデオロギーを云々している場合ではないと彼らは気づいたらしい。それはこの国の指導部も同様だった。反米主義を掲げていたイスラーム国家としての政体はゆっくりと、だが着実に崩れつつあった。
「アフガニスタンの新北部同盟を国軍に編入する」という公式発表にこの国の人々は大層驚いたけれど、現実的な解決策は一つしかなかった。空軍も早急に人員を補充するべく、今やアフガニスタンから逃れてきた人々にも門戸を開いていた。
ザラ・カルザイ少尉はその第一期生であり、私とペアを組んだ新しいレーダー迎撃士官だった。F-14戦闘機に搭載されたAN/AWG-9レーダーを操作するRIOは職人のような存在であり、ザラは非常に優秀な人材だ。
「絶好の飛行日和だな」
「はい、大尉」
機体の周りを一緒に歩いて点検し、コックピットに乗り込む。整備員が外部電源をつなぎ、エンジンに空気を送り込み始めたのを確認してから、二人三脚で始動に取り掛かる
機内通信装置をチェック。射出座席の安全装置を解除。ザラがキャノピーを閉める。酸素スイッチをオン。クランクスイッチを右に倒し、回転数を上げてから右エンジンのスロットルをアイドル位置へ。油圧、ノズル、燃料流量、タービン内温度……どれも正常。同様に左エンジンも目覚めさせる。
油圧のチェック。外部電源とコンプレッサーを解除。HUD、垂直ディスプレイインジケーター、水平状況ディスプレイの電源を入れる。HSDの画面を後席の戦術情報ディスプレイに切り替えて、ザラに慣性航法装置のアラインを指示。アライン中に、ザラが飛行計画に従ってウェイポイントを入力していく。
自動飛行制御システムのスイッチを入れる。無線、戦術航法装置、レーダー高度計、水平儀——一通りの設定が終わったところで、タキシング開始。
滑走路上に出てから、可変翼の操作レバーを奥へ動かして押し込み、カバーを倒す。マスターリセットボタンを押す。一旦手動で可変翼を展開してから、自動モードに切り替える。
スロットルをミリタリー推力まで上げて滑走開始。速度130ノット付近でゆっくり操縦桿を引くと、機体がふわりと浮き上がる。ギアアップ。
F-14が大気を切り裂きながら翔け上がっていく。
私にとっても、空軍にとっても、ザラは特別な人間だった。
高価なF-14をイラン人以外の人間に触れさせること、ましてや搭乗させることなど、「群体」発生前の時代なら考えられないことだ——そう言って嘆くパイロットもいたけれど、私たちの人材不足が、戦力不足が深刻なレベルに達していることは動かしがたい事実だった。
「どこで英語を習ったの?」
「アフガニスタンにいた頃、駐留米軍の飛行場で勤務していました。飛行場内のラジオ局から声の仕事をもらって……」
「なるほどね。どうりで流暢に話せるわけだ」
ザラは英語だけでなく、ペルシャ語もすでに習得していた。並のイラン人と比べても遜色ないレベルに到達していたけれど、本人はまだまだ苦労する場面の方が多いと感じているようだった。それで私は彼女の辞書代わりになった。何でも頼ってほしい、私にできることであれば何でも……。
「大丈夫ですよ」
パイロットとRIO、という機上での関係にザラは地上でもこだわり続けている印象があった。待機室で雑談をするときも、基地の食堂で食事をするときも。任務中はありがたいけれど、気を抜いてもいい時まで肩肘張られるのは正直私も疲れる。
広告塔だからじゃないのか、と、飛行隊の仲間たちには言われた。虎の子の戦闘機を操縦する女性搭乗員のペア、というだけで世間からの注目度は段違いだった。おそらく空軍もそれを分かっているだろうし、「アフガニスタンから逃れてきた新北部同盟との共同戦線」という指導部の新たなプロパガンダにも便乗しているのだろう。
「アフガニスタンに居た頃……私と同じソルド人の男の子が近所に住んでいました」
いつだったか、珍しくザラから話してくれたことがある。
「彼は」
少し間をおいてから、ザラは、
「彼は、兵士になりました『群体』発生前の時代のことです。出稼ぎでアフガニスタンからイランに渡った後、ファテミユン旅団と呼ばれる民兵組織に加わりました。イラン革命防衛隊の訓練を受けて、イラクやシリアに送り込まれて、|イスラム国のテロリスト《ダーイッシュ》を何人も殺して、それから──」
死にました。
「彼が戦死した後、遺族にイラン市民権が与えられました。ソルド人でありながらイランのために殉教した者の遺族として、アフガニスタンへの強制送還を免除されたんです」
吐き捨てるような口調だった。
他の多くのソルド人も同様の扱いを受けています、とザラは続けた。「群体」発生前の時代から、数多のソルド人たちがイランへ逃れてきたことは私も知っていた。彼らの中からも多くの民兵が生まれ、次々とイラクやシリアに送り込まれた。アフガニスタンで壮絶な差別を受け、隣国イランに逃れても安い民兵として使い潰される──ソルド人の若者たちの多くが異郷の地で命を散らした。
仕事仲間としてのザラは、本当に優秀だった。彼女は空を飛ぶことが好きなのだと、何度も共に出撃した私はとうに分かっていた。もちろんそんな憧れだけで空軍に志願したわけではないだろう。どうせ戦わされるのならば花形の戦闘機乗りになってやる、使い捨ての駒ではないことを証明してやる。本人は絶対口にしないだろうが、秘められた思いが決して単純ではないことは薄々察していた。
普段、寡黙で無表情な人間としてのザラには皆が手を焼いた。邪険にしているわけではなかったが、距離を縮めづらいのは事実だった。一番一緒にいるのはお前だろ、なんとかしてくれと肩を叩かれて期待されても正直困る。カウンセリングは専門外だ。
それでも、ソルド人としての彼女にあれこれ言う者は一人もいなかった。波風が立たなかったのは、この飛行隊に理性的な人間たちが集っていたからだろう。余所にはそうでない部隊もあったと聞いたが——
長い戦いになりそうだった。