第11話 同盟
母に呼ばれて畑仕事を終えると、とっくに昼時の時間だ。
背負っていた竹籠をおろしてから、母が食卓に用意してくれた雑炊をかき込む。
「ゆっくり食べなさいな、子供じゃないんだから」
「わかったってば」
私が昼食をとっている間に、母は竹籠いっぱいの茶葉を取り出して鉄鍋で炒り始めた。雪菜が気を利かせて薪を持ってきてくれる。母は両手に箸をもって、茶葉を持ち上げてはゆすってパラパラと落とす。水分を十分飛ばしてから、竹ざるに移して揉んでいく。
あとは外で干すだけね、と、母さんが竹ざるを玄関先に持っていこうとする。ちょうどその時、父が水牛を引きながら山を下りてくる姿が見えて、
「おかえりー」
「おう」
父が肩にかけたバッグを下ろして、市場で買ってきた野菜を見せてくれる。いつもより随分多い。バッグはぱんぱんで、今にもはちきれそう。
「うちの茶葉が高く売れたからな。どこの茶農家も最近は景気がいいらしい」
ようやくこの村でも道路工事が始まったおかげでトラックが何台も来ていたぞと、父がパイプをふかしながら興奮気味に伝えてきた。インフラ整備のおかげで出荷量が昔と比べ物にならんくらい増えている、長老たちの決断は正しかったな──と。
雪菜が父の長話に相槌を打っているのを横目に、お気に入りの湯呑を取り出した。数日前に干した茶葉を入れて湯を注ぐと、黄色みがかった釜炒り茶が出来上がる。一口含むと、渋い味わいが舌に広がった。
市場に若い兵士があふれていた、と父が言う。武装した新兵たちが大勢いたらしい。「群体」への反攻作戦の実施が正式に決まって、誰も彼も浮き足だっているようだ。
「本当にやる気なんですか」
雪菜が不安げな表情で尋ねて、
「雲南の人たちがの中国を『群体』を攻撃する、だからあなた方にも支援を求めていると、そう聞きましたが……」
「その通りだ」
父はどこか得意げな様子だった。
「東には中国側の『群体』、西にはミャンマー側の『群体』、その狭間に雲南の連中と、我々が存在する。連中と我々は、これまで互いを隣接する『群体』の手先と誤解したまま何年も不毛な戦いを続けてきた。だがついに和解の時が訪れ、真の敵に立ち向かうべく互いの手を取り合うことができたのだ。我々は雲南の連中と協同して『群体』へ反撃する」
もうちょっと正確に説明するとね、と、雪菜の肩を叩いた。雲南の東に中国側の『群体』の航空基地と工業地帯があって、今後の戦局を切り開くために雲南の臨時政府軍が攻撃計画を立案したの。その間、雲南本土を防衛する戦力は手薄になるから、こちらから援軍を送るっていうわけ。
「でも、そうなると私たちは」
「もちろん、ミャンマー側の『群体』に備えた戦力は残しておく。シャン空軍も最低限の支援にとどめるつもりみたい。私もこっちに残るよ」
シャン空軍。
ミャンマー北東部・シャン州の少数民族を束ねることで結成された空軍組織。
創設の際、アメリカの民間軍事企業であるCCASが資金援助をしてくれたらしい。
私たち龍族も含め、シャン州に点在する少数民族は決して足並みがそろっているとはいえない。かつて私たちと銃を向けあう仲だった勢力も少なくない。「群体」という共通の敵を得なければ、莫大なコストがかかる航空戦力を合同で保有することもなかっただろう。
曲がりなりにも、私たちはつながりを得た。
これからは、つながりを守るための戦いが始まる。
「雲南との和解にずいぶんと時間がかかったのね……」
雪菜がぽつりと呟く。
「あくまで噂だけど、『群体』の妨害もあったらしいんだ。私たちも何度か雲南の臨時政府に和平使節を送ろうとしたことがあったけど、その度に『群体』の戦闘機に攻撃されてしまったんだよ」
「それに加えて……雲南も長い間、あななたちシャン空軍を『群体』だと誤解していたのよね?」
「そうそう。だから私たちは、パイロットを亡命者に仕立て上げて雲南に送り込んだこともあった。結局、彼らも『群体』に暗殺されて失敗してしまったんだけど……」
「群体」は航空基地をいくつも建設していて、今回の反攻作戦で叩くのもその一つだよ──そこまで説明すると、雪菜も一応は納得してくれたみたいだ。
急にいびきが聞こえてきた。母の膝の上で、父が大きく口を開けたまま昼寝をしていた。ついさっきまであんなに張り切っていたというのに。母はといえば、子守唄のような鼻歌を歌いながら編み物をしている。
「ねぇ、あんたたちが話してる『群体』って何なの?」
唐突に母がそう尋ねてきた。
「え? 母さんも気になるの?」
「あんたたちがずっとそんな話をしていりゃ流石に気になるさ」
「群体」とは何か。
それが一番難しい問いかけだ。
人間モドキの集合体、というのが何度も使われてきた説明だ。人間モドキといっても手の指が六本あるとか目が三つあるとかそういう類ではなくて、精神のありようというか、意識の備わり方が違う、ということらしい。やつらは集団として思考し、行動する、と。
要するに、集合精神というやつだ。
じゃあ「群体」を構成する人間モドキたちが実際にどんな暮らしをしているのかと聞かれると、さあ何とも言えない。たぶん誰も答えられない。そもそも見たことがない。
「——私は見たことがある」
雪奈がそう言った。
私の心を読み取ったかのように。
「私がまだ学生だった頃の話……日本人学生として上海に留学していたとき、最初の『群体』と遭遇したの」
「楊春鈴少尉」
宣春燕が私と相見えた、何度目かのときのこと。
「あなたは若くして優秀なパイロットになったそうね。あなたを指導した教官パイロットのように」
「李少佐のことですか」
宣春燕は大きく頷いて、
「彼の輝かしい戦績の数々は彼自身から聞いた。その中に私たちの仲間も含まれていることは残念だけれど、過ぎたことを責めても仕方がない」
「お互い様でしょう」
「だけど……一つだけ例外がある」
彼女の顔に影が差した。揶揄いや冗談で言っているわけではなさそうだ。
「私たちが命がけでこの基地へと飛んできたのは、あの人の思いを継ぐため。私たちとあなたたちをつなごうとした、あの人の悲願を達成するため。その思いを抱えたまま、雪降る峰々に墜ちていったあの人を弔うため」
「あの、一体、何の話を……」
「ええ、分かってる」
問いかける前に彼女に遮られてしまう。
「あの頃は特に情勢が緊迫していた。『群体』と誤解されてあなたたちに撃墜されたことくらい、私にも想像できる。だけど時々考えてしまう。もしあの時、あの人が──輝華が無事に辿り着いていたら、あなたたちとの戦争はもっと早く……」
そこで彼女は被りを振って、
「いえ、無知だった私に今更口出しする資格はない。私は輝華の幻を見た。幻と心中しようとさえした。輝華への執着を断って初めて、私は真に守るべきものを理解した」
「あの!」
反射的に机を叩いていた。
彼女は目を丸くして、口をぽかんと開けていた。
「あなたの気持ちは、その、分からなくもないですが」
拳を緩めながら、慎重に言葉を選ぶ。
「人と人とのつながりは、悲しいことに永遠ではありませんから」
「……そうね」
その日、彼女は私の言葉に初めてうなずいた。
「彼女は──輝華は学生寮のルームメイトだった。あの日、輝華が私の手を引っ張ってくれなければ、私は上海で死んでいた」
雪菜の語り口に、気づけばじっと耳を傾けていた。
「最初に上海が地獄と化した。二日後には南京や重慶も壊滅状態になって、羽田行きの旅客機に乗ったときに初めてニュースを聞いたの。人々が武器を持って暴れまわっている、街が燃えているって、ずっとそんなニュースばかりだった」
私が日本へと脱出した頃、中国大陸の沿岸部は完全に壊滅していた、と雪菜は説明した。
「『群体』っていう言葉もその頃から聞くようになったの。それまで普通に暮らしていた人たちが、突然銃やナイフを持って襲ってきた理由なんて誰も分からなかった。いつのまにか軍隊まで乗っ取られて戦争が始まっていたし、同じことが世界中で始まっていたのよ。この世の終わりだって、本気でそう思った」
「それで……あなたを救ったルームメイトは?」
「ああ、そうね……輝華は私を救ってくれた後、雲南へと逃げのびた。その後、中国政府が雲南に臨時首都を置いて、中国軍の生き残りもやってきた。そこで輝華は──上空を飛ぶ戦闘機を見かけた。それが彼女の天職になったのね」
初めて知った時は驚いたけどね、と雪奈が笑った。あんなに物静かだった輝華が戦闘機乗りになるなんて想像もしなかった、と。
「世間は狭いものね……」
「え?」
「なんでもない」
そうそう、と、私は半ば強引に話題を変えようとして、
「今夜、うちに泊まってくれるって聞いたけど」
「うん。たぶん、今日で最後だからね」
なぜ最後なのか明言しない優しさが雪奈らしかった。だから私もいつも通りだ。残された時間は、できるだけ穏やかに過ごしたい。
「春鈴は、三人目になるんだね」
「え?」
「私が今まで出会った、戦闘機乗りさん。今話した輝華は二人目なんだよ」
そして一人目は……ずっと年上のお姉さんだったんだよ。
「雪菜にもお姉さんがいたんだね」
「本当のお姉さんみたいな人だったし、実のところ遠い親戚だった。ずっと昔に死んでしまったけれど、こんなことを話してくれた。『言葉はね、人が使うか、人々が使うかで、その様相も威力もまるで変わるものなの』って」
「群体」が生まれた理由、知ってる?
雪菜の問いかけに、聞きかじりの知識をなんとか引っ張り出して、
「世界中の国々で、ナショナリズムだか、愛国心だかがアホみたいに高まって生まれたとかなんとか……」
「国、というか、同じ言語を話す人々の共同体意識が異常なほどに高揚して、個々人の意識が文字通り一体となって生まれた集合精神、なんだってね。どうしてそんなことが起きたのかは謎だけど、『群体』の話を聞くたびに、私は一人目の彼女のこと──キャロルのことを思い出すの」
そのキャロルは、合衆国という国に飲み込まれたらしい。彼女の物語は英語で語られ、広められていった。雪奈以外にも彼女を姉のように感じた人々もいるのかもしれない。あるいは娘だったり、母だったりしたのかもしれない。名を持つ一人の女性としての彼女は消え失せ、合衆国の一部となった……。
「でも雪菜は今でも彼女を知っている、って?」
「そういうことに、なるのかな」
雪菜は思案顔になって、
「人間の国家も『群体』も、案外似たものなのかもしれないね」
雲南との和平協定が正式に締結されたのは、それから三日後のことだった。