第一話『血薔薇の娘、シャルラハロート』
拝啓、お母様
お母様が亡くなって早十四年。
あちらの世界で如何お過ごしでしょうか。
貴女様は私が一歳になる前に
亡くなられてしまい、
ほとんど思い出がありません。
お祖父様達から教えて頂いたように、
気に食わない存在は切り捨て、蹴り飛ばし、
唾を吐き捨て、己の目の前から排除して
いらっしゃるのでしょうか?
あまりにも強く、そして傍若無人だったと
伝え聞く私のお母様。
亡くなって尚、貴女によって多くの問題が
ずっと発生しています。
私達家族が暮らす辺境の地は
いつもと変わらず美しい青い空、
穏やかな風、白い雲、そして……
『小娘、ローズ・アーヴェンは何処にいる。』
目の前に聳えるは、闇を思わせる暗い鱗、
空を覆い隠すような大きな翼、
そして曇り空の如き重い鈍色の瞳を湛える
恐ろしい竜。
どうしてお母様のアレコレが、
娘の私に降りかかっているのでしょうか……。
竜に睨み付けられた、通称“血薔薇の娘”、
シャルラハロート・アーヴェンは
切実な悩みを胸に抱きながら、意識を
手放したくなった。
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「ではお祖母様、お散歩に行ってきますね!」
「ええ、今日は特に天気が良いわね。
気を付けて行ってらっしゃい、
エマ……シャーリーをお願いしますよ。」
「かしこまりました。」
黒に近い紫色をした豊かな長い髪を
上半分結い上げた、赤い目の愛らしい少女は、
丁度、同じタイミングで仕事に出掛けようと
していた祖母に笑顔で声をかけた。
日の光を浴びて輝く美しい銀色と、
シャルラハロートと同じ赤の目。
60代とは思えぬ美貌を備えた祖母、
ヴィレネッテに送り出されたのは
つい先程の事である。
シャルラハロートは自分の
専属メイド 兼 護衛のエマを連れ、
住んでいる城を出る。
そしていつも通り街を通り、少し離れた
小高い丘へ散歩に出掛けた筈、だった。
シャルラハロートが住む辺境の地、
シュラージュ領はリュゼーヌ王国という国の
北側に存在している。
この王国は、とある事情から
国土の半分にしか人間は住んでいないが、
それでも広大な大地や豊かな自然を狙って
周辺国から常に狙われていた。
現時点ではリュゼーヌ王国と戦争状態の国は
無いのだが、このシュラージュ領が
リュゼーヌ王国の最重要防衛拠点、
その1つとして今も存在している事実に
変わりはない。
現在シュラージュを支えているのは、
シャルラハロートの祖母にして
〖黎明の照らし手〗女辺境伯
ヴィネレッテ・アーヴェンの卓越した
領地運営手腕、その伴侶である祖父、
〖彗星の大英雄〗たるジョン・アーヴェンの
存在に他ならない。
そして彼女達の息子達、その伴侶、
シャルラハロートを含む孫達も
何か問題が起きれば率先して働き、
泥にまみれる事を厭わない。
そんな辺境伯家はシュラージュの人々から
とても愛されており、過酷だった辺境の地は
現在、経済面においても、防衛面においても
重要なリュゼーヌ王国の土地なのである。
しかし、そんな辺境伯の一族の中にも
ずば抜けた問題児がいて。
それがシャルラハロートの母、
他の貴族達に恨まれながらも恐れられた
『血薔薇』のローズ。
かの悪名高き血染めの薔薇は
父親の知れない我が子を産んだ後、
帰らぬ人となってしまった。
だが、一人残されたシャルラハロートに、
家族や使用人達が皆優しかったのは
幸いだっただろう。
容赦の無さと類い稀な剣術の才能を
生まれ持ち、3歳にして騎士団の隊員を
負かせたとされる稀代の天才、ローズ。
生まれついての強者だった彼女が
短い生涯の中で負けたのは、大英雄で父親の
ジョン・アーヴェンにのみ。
ローズがその傍若無人さを
咎められながらも処罰されなかったのは、
本人の異常なまでの強さに由来した。
自身が引き起こす問題以上の成果を
叩き出し続けた彼女を、人々は
認めるしかなかったのだ。
しかし、その娘でありながら…
そしてゴリゴリの武芸自慢が集まる
シュラージュの地に生まれながら、
シャルラハロートには全くといって良い程
武の才能が無かった。
あまりにも問題児だった母、
そして顔も分からぬ父。
それは貴族として生きていくには
あまりにも肩身の狭い境遇。
そしてシャルラハロート本人の気質も
大人しく、反撃するより我慢を選んでしまう。
そんなシャルラハロートは
ローズという故人に恨みを持った人間達が、
残された禍根や咎をぶつけるのに
ちょうど良い存在であったのだ。
王都の学校に通う為、体験入学に向かえば
他の貴族令嬢から嫌がられをされ。
茶会に出れば結んでもいない婚約の破棄を
声高々に叫ばれる。
その内、シャルラハロートは辺境の地から
出る事は無くなったし、家族も配慮して
誘わなくなった。
ここから出る事なく、祖母がつけてくれた
家庭教師から勉強やマナーを教えてもらう。
それ以外では視察に連れていってもらったり、
街を散策して領民の声を聞く生活。
「姫様!珍しい果物が入ったんで
城の方に納めさせて頂きましたよ!」
「そうなんですか?帰ってから
食べるのが楽しみです!」
この街なら歩いても、
罵声も蔑みの目を向けられない。
領民達はシャルラハロートへ、
気さくに声をかけてくれる。
「あ、シャーリー様じゃん!元気?」
「ねぇねぇシャーリー様、ぼく
前より文字書けるようになったんだよ!」
「コラ!姫様になんて事を!
すみません、シャルラハロート様……!」
「気にしないで下さい!
小さい子は元気で良いですね。」
母親に叱られた子供達は、親に連れられ
手を振りながら去っていく。
親子の背中が見えなくなるまで眩しそうに
見つめた後、彼女は散策を再開する。
「エマ、家族って良いものですね。
私も素敵な家庭を持ってみたいです……。」
シャルラハロートは胸の前で腕を組み、
後ろに控えるエマに話しかける。
頭をすっぽりとヴェールで覆い隠し、
見るからに怪しい見た目をしたエマだが、
かなりシビアで現実主義者な面がある。
忠義に厚いしっかり者は、冷静に
主へ意見を返した。
「……僭越ながら申し上げます。
お嬢様の伴侶となる方は、
ご家族の皆様からありとあらゆる面で
厳しいチェックが待っておりますよ。」
「……えぇ。」
「簡単に見つかるとは思えませんね。」
首をすくめるエマにそう指摘され、
真っ先にシャルラハロートの脳内に
思い浮かんだのは辺境伯夫婦の長男。
つまりシャルラハロートの伯父で、
次期辺境伯のウィンズ・アーヴェン。
彼は特にシャルラハロートを
気にかけており、我が子の様に
可愛がっているのは有名だ。
しかも本人は母譲りの儚げで美麗な
見た目とは裏腹に、
「剣で書類にサインしたい」とまで
語る根っからの武闘派。
相手を見定める~とか理由をつけて、
自ら相手をボコボコにするのが
目に見えている。
それに姉妹のように育ったウィンズの娘、
今年18歳のスノウなど王太子の
婚約者なのだ。
現在は王太子妃になるべく王都で
教育を受けており、彼女とはしばらく
会っていないが、昔から妹として
可愛がっているシャルラハロートの
相手候補など…ありとあらゆる手段を用い、
徹底的に情報を洗うのが目に見えている。
そうやって伯父(長男)一家総出で
潰しに来る可能性もある、いや、する。
「私って幸せな結婚、
出来るのでしょうか。」
「結婚すれば幸せになれる訳じゃないですよ。
幸せになれる相手でなければ、
結婚なんて地獄です。」
「エマって時々悲しいくらい現実的な事
言いますよね……。」
「世の中なんてそんなものなのです。
それにお嬢様は結婚そのものじゃなくて、
親からの愛に憧れてるだけでしょう。」
「うぅ、手厳しい……。」
辺境伯家は元々、大して権力を
必要としておらず、政略の道具として
シャルラハロートを何処かに
嫁がせる必要もない。
でも将来は辺境伯家に仕える誰かに嫁入りし、
歩み寄って家族になり、この地を
盛り立てる手伝いをしていくのだろう……
そう、シャルラハロートは思っていた。
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どうして私の人生には、
こう、いつもお母様がいるのかしら。
小高い丘から眺める、
優しい生まれ故郷が好きだった。
だからほぼ毎日、エマと共にここまで来て
街を眺めるのがシャルラハロートの日課。
なのに竜と、しかも人語を話したのだから
明らかに通常の竜種ではない。
まさか“現象”の竜と遭遇してしまうだなんて。
人間よりも遥かな高みにいるモノ。
世界の頂点。世界そのもの。
一頭が怒るだけで村は焼け、町は崩れ、
容易く国は滅び去る。
そんな恐ろしい“現象”の竜は、
己の母の名を口にした。
きっと、これはまたローズの因縁なのだ。
シャルラハロートのいくら捨てたくても
捨てられない、どうしようもなく重いモノ。
絶望するシャルラハロートを庇う為、
エマがサッと主の前に出る。
人間が到底勝てない存在の竜を前にして
恐ろしくない筈がない。
が、エマは一切の躊躇なく、
竜とシャルラハロートの間に入った。
『答えよ娘、ローズはどこだ。』
聞いただけで逃げ出したくなる、唸る重低音。
そして竜から放たれる威圧で、
立っているだけでやっとのシャルラハロートは
エマの服にしがみついた。
それでも鈍色の目から視線は逸らさない、
否、逸らせない。
『その髪飾りは私がローズにくれてやった物。
何故貴様が身に付けている?』
「えっ?」
『答えによっては、返して貰おうか……?』
竜が言った事をシャルラハロートは
咄嗟に飲み込めなかった。
痺れを切らしたのか、鋭い牙を覗かせた竜の
放つ圧に少しだけ殺気が混じる。
母が亡くなる少し前、
「シャルラハロートへ」と
祖母を通して渡された髪飾り。
紙のように薄く延ばされた金属を
組み合わせ、その上から赤色に塗られた、
思わず本物と見間違う見事な薔薇の髪飾り。
シャルラハロートが唯一母親から
貰えたものだ。
おそらく熟練の職人によって
丹精込めて作られ、金属で出来ていながら
着けている事を忘れてしまう軽さ。
かなり値の張る逸品だろうが、
飾り気の無かったローズが自分で
装飾品を買ったとは思えない。
誰かから渡されたのだろうと思っていた
髪飾りが、まさか竜に渡された物だったとは。
シャルラハロートは静かに
髪飾りを手に取り、胸の前で握り締めた。
きっと聞いた限りの母ならば、自分の背中を
押すどころか蹴り飛ばしてくれただろう。
覚悟を決めて、真実を、告げる。
「ローズ・アーヴェンは、
死んで……おります。」
『何?』
竜の目に明らかな困惑の色が浮かぶ。
それはそうだ、未だにローズが死んだ事を
認めない人間だっているのだから。
どれだけ殺しても死にそうも無い、
あの血薔薇が死んだなどと、強大故に
死から遠い“現象”の竜なら尚更
信じられないだろう。
母は俗に言うろくでもない人間だった。
自分を茨だらけの世界へ頼んでもいないのに
産み落とした挙げ句、置き去りにして。
けれど、そんな人でも自分にとっては
ただ一人の母親で。
ほんの僅かだけれど、確かな愛情を
その人から与えられて。
「ロ、ローズは……ッ、お母様は!
幼い私を残して亡くなりました!
今からもう、14年も前の話でございます!」
『……!』
唯一形に残る確かな親子の繋がりを、
取られまいと握りしめながら
シャルラハロートは力の限り、
今まで出した事の無い大声で叫ぶ。
「この髪飾りは、亡くなる前のお母様が
確かに私に下さったモノです!
貴方様にどう言われようと、
私が……お母様から、もらった、唯一、の……」
「お嬢様!」
強大な竜を前にした緊張、慣れない大声。
とうとう意識を手放し、シャルラハロートは
膝から崩れ落ちる。
そのまま地面に倒れ込むかと思われたが、
控えていたエマが咄嗟に抱き止めたお陰で
衣服にも汚れは無く、怪我もせずに済んだ。
偶然この光景を見た、領地を巡回する
兵士の誰かが助けが呼んでくれたのだろうか。
遠くから近付いてくる荒々しい馬の蹄の音を
ぼんやりと聴きながら、
少女が気を失う前に見たのは。
あれだけあった威圧感も偉大さもない、
迷子の様な顔をした一頭の竜だった。