血族
一面緑の田んぼ、雑木林から聞こえる蝉の音。
私は季節の中で夏が大好きだった。
自然の姿が、そして何よりも政二郎に出会うお盆が待ち遠しかったのだ。
田舎のお盆は大変忙しい行事である。
お客様の手土産を用意することに加え、うちの場合は1メートルほどある3段の盆だなを組み立てなくてはならない。
そして一番面倒なのが、4日間の間に大量の人がやって来るのだ。
私の父は地元の学校の校長なのでとても顔が広い。
同じ教師や昔の教え子達、高そうな着物を着た偉い人達、さらに沢山の親戚たちが連絡もなしに訪れる。それゆえにお盆はずっと在宅していなくてはならない。
この家に嫁いできた母は、大量の接待に毎年疲弊しきっていた。
しかし幼い頃の私はお盆が楽しみでならなかった。
なぜなら、私が水津家の長男だからだ。
「坊ちゃん、とっても大きくなったわね。」「小学校では副級長になられたのですって?将来はお父様と同じ校長先生かしら」「亮くんは顔が良いから俳優にもなれるぞ」
滅多に合わない親戚たちが自分のことを沢山褒め、菓子を持ってきてくれる。特に父親の姉たちは小遣いもくれるので進んで挨拶をしていた。
「良い子にしていると何か貰える」それ以外は特段の感情は無かったが、たった1人だけ気になる人がいた。
毎年スーツを着てやってくる、比較的若い男だ。
その男が来るのはお盆だけ。それも人が来なくなる夕方が多かった。
男の姿が見えると母は大慌てで父を呼ぶ。そして父は自分の書斎に招いて二人きりで話をするのだ。いつもは母にお茶を持ってこさせるのだが、この男の時だけは自らが茶を入れに台所へ来る。それが少し、不思議であった。
一度聞き耳を立てたことがあるが、男は父のことを「先生」と読んでいた。どうやら昔の教え子のようだ。
そしてその男は手土産に必ず珍しい菓子を置いていく。この辺では売っていないものだ。
それがたまらなく嬉しかった。
男とはいつも少しだけ話をする。
「坊ちゃんは今、何歳になりましたか」「お父上は毎日元気ですか」
そんな他愛のない話。
私は菓子を食べながら質問に答える。
その男がどこに住んでいるのか、何をしているのか、幼い私は聞こうと思わなかった。
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私が15歳になった年の夏。
お盆は終わったが例の男は来なかった。
その年、父が胃癌になった。
医者から治療を投げ出されるほど進行していた。
前年に国から教育勅語(明治23年)が発せられ、父は校長としての職務が相当忙しかったそうだ。そのおかげで病気に気づくのが遅くなってしまったのである。
教え子に跡を継いで貰い校長を引退し、今はずっと布団で横になっている。
「私はこの有様だ。お前に勉強を教えることが出来ない。だから、夏の間だけ家庭教師を付けることにした」
布団で動けなくなった父がかすれた声で言う。
「誰がつくの?」
「政二郎という頭の良い男だ。お前とは一回りほど歳が違うので、失礼のないように」
翌日家庭教師が来た。
毎年お盆に来ていたあの、男だ。
政二郎という男は東京の学校で高等文官試験の勉強が忙しく、ここ何年かお盆に来れなかったそうだ。
つまり将来は、外交官だ。
外国の領事館で働き、将来は天皇から勲章を頂けるかもしれない憧れの職業である。初めて聞いた時は腰が抜けた。
「よろしくお願いします、政二郎先生」
私はものすごく緊張しながら挨拶をした。
「政二郎だけで良いですよ。坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめて、亮でいいよ。」
「わかりました。亮くん」
彼は笑顔で言った。
政二郎は本当に頭が良かった。
歴史や地理学、数学まであらゆる知識を持っており、1つ分からない言葉を聞くと、100の言葉が返ってくる。
政二郎は、私の勉強を見る傍らに自分の勉強もしていた。その本は見るからに難しいもので、仏蘭西の憲法、民法、刑法などが表紙に書かれている。英語だけの洋書もあり、素人には全く分からなかった。
「言ってはなんだけど家庭教師なんてしてる暇ある?」と聞くと
「あなたのお父上からのお願いですから、断れませんよ。」と笑っていた。
政二郎との夏は楽しかった。
私には姉が1人いたが既に嫁に出ていたので、兄が出来たようで新鮮だった。
勉強に飽きた頃、たまには町へ遊びに行こうと政二郎を誘ってみたが、ダメですと怖い顔で言われてしまった。
「政二郎はいいな。頭が良くて」
私は筆を置いた。
「そんなことは無いですよ。」
「俺なんて田舎の長男だよ。家長として土地の管理してさ、親戚やら近所との交流してさ、それで一生終わりだよ。退屈だろ?政二郎は外交官になれば色々な国へ行くんだろ?羨ましいよ」
「何言ってるんですか」
政二郎は少し怖い顔をした。
「私は頭が良い訳では無い。あなたのお父上の教え方が上手だったからです。私は先生の血を引いている貴方か羨ましい。生まれながらに役割があるというのは、凄く稀有で幸せなことなんですよ。亮くん。」
「…そういうものかな」
「そういうものですよ」
あまりよく分からなかったので、ふーんとだけ私は言った。
「政二郎が俺の兄貴だったらいいのにな」
そう言うと政二郎は苦笑いしていた。
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政二郎の家庭教師期間が終わり、3ヶ月ほど経った冬のある日、父は胃癌のため亡くなった。
僅か50歳であった。
葬式の日、私と母と姉は朝から大忙しであった。自宅で葬式を行うので黒白幕を壁に括り付ける。自宅の前にある田んぼのあぜ道には数百人はいるだろうか、長い長い行列が出来た。それを見て改めて父は凄い人であったことを思い知らされる。
父の棺桶は居間にある仏壇の前に置かれた。
左脇に親戚、右脇に親族が座る。母と私と姉は棺桶の近くに座り、挨拶に来る方々に頭を下げていた。
行列の中に政二郎がいた。「この度は……」と母に挨拶をし、父の棺桶に手を合わせていた。
しかし奇妙だったのは、左脇の親戚を明らかに睨んでいったのだ。親戚たちは下を向いて見ていない振りをした。
何故ただの教え子だった政二郎が親戚を睨むのだろうか?
「なあ母さん、ちょっと聞きたいんだが」
行列が全て挨拶をし終わり、片付けに入ろうとした前に母に軽い気持ちで質問をした。
「なんだい?」
「政二郎って、この家と関係があるの?」
母は少し顔を歪ませた。しばらくして口を開く。
「あなたが生まれる前に居た、養子の方なの」
父に政二郎のことは亮に言うなと口止めされていたらしいが、母は色々語ってくれた。
20年前、父と前の奥さんとの間には長男が出来なかった。(私の姉が生まれたあとは子宝に恵まれなかった。)
「私の子にならないか」
そんな時に現れたのが、家業だった寺子屋に通っていた幼い政二郎だった。
当時12歳だった彼はうちの寺子屋で一番頭が良かった。学ぶことが大好きだった政二郎は、和漢三才図会(百科事典のようなもの)を全巻暗記し、天文や地理、生物などあらゆる事柄を知っていた。
農家の次男であったので、実に容易く養子に招くことが出来た。父はそんな彼を養子に出来たことがとても嬉しく、暇さえあれば彼を書斎に招いて論語や五経を教えていたという。
「先生の跡継ぎとして立派に努めます」
そう彼が言った時には、父は涙を流したそうだ。
しかし親戚達は、「血のつながりが無いくせによく言う」と裏でブツブツ言っていたらしい。
そして政二郎が家に来てから3年後の明治丙午(1876年)、私が生まれた。
念願の長男の誕生に、親戚たちは大層喜んだそうだ。そして必要の無くなった仮の長男、政二郎は家を出ることになった。
私はそれを聞いた時、何も言えなくなった。
政二郎が何故お盆は夕方に来ていたのか、それは自分をよく思っていなかった親戚に会わないため。
政二郎が父親と親しいのは、私が生まれなければ親子だったから。
政二郎は、長男を奪った私をどう思っていたのだろうか。一体どんな思いで話をかけていたのだろうか。
分からなくなった。
私は、政二郎と話さなくてはならない。
「姉さん、スーツの人、通った?」
受付をしている登志姉さんに聞いてみた。
「やあね。今どきスーツの人なんて何十人もいるから分からないわよ。自分で探しなさいよ」
そう言うと姉は玉串料の名簿をポンと投げてきた。
名前を探しているのではないのだが……と思ったが開いてみた。
比較的新しい欄に「水津 政二郎」とある。
何だ、家を出ても苗字は変えてないじゃないか。
私は彼を探した。バス停に向かって田んぼのあぜ道を歩いていると彼を見つけた。私は走り出した。
何となく、政二郎と会うのは最後なのではないかと思った。
全速力で走り息が上がる私。それを見つけた政二郎は足を止める。
「どうしました?亮くん」
「政二郎、もう、うちには来ないのか」
私は息を整える。
「僕はしばらく仕事で外国に行ってしまうからね。次は…来れるかわからないな。」
僕は言葉が出てこなくなってしまった。何を言ったらよいのかわからないのだ。
動揺している僕の肩を、政二郎はポンと叩いた。
「ま、頑張りなさい。君の父上のようにね」
では。と言って手を振っていった。
彼が見えなくなった頃、私の頬にはひとすじの涙が伝っていた。
のちに聞いたことだが、頭の良い政二朗は見事試験に合格し、外交官になったそうだ。
田舎の長男であれば絶対に叶うことのなかった夢である。
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1926年。年号が大正から昭和になり、私は50歳になった。
父が死んだ歳と同じだ。
私には父とは違い、4人の息子と2人の娘に恵まれた。
現在の仕事は、元々持っていた土地を生かして不動産事業を営み、生計を立てている。
将来は長男に継いでもらうつもりだが、最近は外国の動きが怪しい。大正天皇も崩御され、大きな地震もあった。
無事に家が存続していけば良いのだが……。
政二郎はというと風のたよりで外交官を引退したと聞いた。しかし結婚して東京に住んだそうで、地元には戻ってこなかった。
二度とうちの敷地に踏み入ることは無かったのである。
人は生まれながらにして役割が決まっている人などいない。既にあると思っていても、実際は空虚なものであり、ハリボテなのだ。
しかし人間は必死で役割を見つけようとする。それが生きる力に変わっていく。
ハリボテに支えてもらって生きるのだ。
毎年お盆になると、政二郎のことを思い出す。
異国で外交官を立派に全うした彼を、心の底から尊敬している。
読んで頂きありがとうございました。