catPark
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やっぱりよくないと思ったのだ。私を慕ってくれるベガというメス猫が妊娠してしまったのである。やっぱりよくないと思ったのだ。生まれてくる子猫が望まれない子なのかもしれないと思うと、やっぱりよくないと思ったのだ。
ベガが言う。
「でも、キャロルねえさま、私は生みたいと思うんです」
私はそれを受け、「まあ、ベガはイエネコであるわけだ。そのへんは飼い主が判断することだろう」と答えた。
ベガは泣きだした。
「彼のこと、嫌いじゃないんです。むしろ好きだから……生みたいんです」
だから、そのこと自体は悪いことだとは思わないのだ。
むしろ、微笑ましいことだとすら思うのだ。
ベガの飼い主とは私が話をつけたいと言いたいところだが、客観的に見ると、私はにゃあにゃあと述べることしかできないわけで。そうである以上、なんだかんだ言っても、ベガがうまく立ち回るしかないわけで。
「ベガ、なにかあったら、生まれてくる子ども、私が面倒をみてやるからね」
「キャロルねえさま、ほんとうですか!?」
「うん。同じ猫同士、同類なんだ。誰もが幸せになってもらいたいよ」
ベガがわんわん泣きだした。
「ありがとうございます、ありがとうございます、キャロルねえさま。キャロルねえさまのおかげで、私は力強く振る舞うことができそうです」
それならよかった。
ほっと胸を撫で下ろし、私は微笑んだ。
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まもなくして――うまいこと抜け出してきたらしい、ベガがぶちの子猫をくわえて私の前に姿を現したのである。子猫の名はオリオン。飼い主がそう名付けたらしい。なかなかセンスのある名ではないか。
しかし――。
「ベガ、すぐに家に帰りな。オリオンを見せに来てくれたことは嬉しいけれど、飼い主を心配させちゃいけないよ」
その間もオリオンは「にゃあにゃあ」鳴いている。怖い怖い、不安不安、そんなふうに訴えているようにも見えるいっぽうで、「おそとは楽しいね」と言っていはしゃいでいるようにも映る。
「はい、すぐに帰ります。心配なさらないでください」
ベガはそう言い、にゃあぁと笑った。
「私の子どもをどうしてもキャロルねえさまに見せたかったんです。キャロルねえさまは私の唯一無二の恩人ですから」
そこまで言われるほどのことはしていないのになと、思う。
にゃあにゃあ鳴くオリオン。私は自らの子を思うくらい愛おしくなって、彼のことを抱き締めた。するとだ、オリオンはびくっと身体を震わせた。私がびっくりして身体を離すと、またにゃあにゃあと鳴く。まさか、この子は……。
「ベガ、この子は――」
「そうです、キャロルねえさま。目が見えないようなんです」
私は愕然とした。
まさか、そんなことが……。
「病気か? なにか悪いものにやられたのか?」
「網膜というのがよくないようです。原因はわかりません」
私は顔をゆがめはしたが、泣いたりはしない。
世の中、そういうこともあるだろう。
にゃあにゃあ鳴かれようが、私はオリオンのことをぎゅっと抱き締める。
「キャロルねえさまに優しくしてもらえるオリオンは、とても幸せです」
ベガはそう言い、しくしく泣いた。
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今日はなかば、飼い主に許されて、オリオンを連れて表に出てきたらしい。じつに理解のある飼い主ではないか。私はもっぱら近所の猫の住処となっている二丁目の空き地にて、二匹を迎えた。ベガは元気だ。母親としての貫禄も出てきたように思う。オリオンは不安そうだ。目が見えないものだからとにかくにゃあにゃあ鳴く。だったらあまり外に連れ出さないほうがよいだろうと思うのだが、連れてきてくれたわけだ。無下にはできない。
私は二匹に駆け寄って、用件を聞くことにした。
「この子が、オリオンが、手術を受けるんです」
「手術?」
「はい。うまくいけば目が見えるようになるだろう、って」
すばらしいことだと思った。
たとえば、耳が不自由なまま死んでしまった仲間がいた、オス猫だ。
彼にどれだけ素敵な音を伝えたかったことか、考えだすときりがない。
「ダメ元なんですけれど」
「苦笑なんて浮かべるな。きっとうまくいく。信じて待つことだ」
「そう言っていただきたくて、キャロルねえさまを訪ねました」
「おまえの飼い主はいいニンゲンだな」
「そう思います。たかが猫のことなのに」
「たかがなどと言うな。ペットを家族と捉えるニンゲンは少なくない」
「そうですね、そうですね」ベガはぐしゅぐしゅと鼻を鳴らして泣いた。「私はキャロルねえさまほどの女性を知りません。ありがとうございます、ありがとう」
女性、か……。
いまの私はほんとうにそうなのだろうかと、私自身に疑問を投げかけたくなる。
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私はむかしイエネコだった時期があり、その際に避妊手術を受けた。子を孕むため生むための臓器を摘出された。悲しくはなかった。当時はイエネコとしてずっと過ごしていければよいのだと考えていたからだ。子どもは要らなかった。自分の幸せだけがあればよかった。
だけどある日、捨てられた。
悪い飼い主だったとは思わない。ただ、家のなんというかこう、資金繰りのようなものがうまくいかなくなり、引っ越さざるを得ない状況に陥ったとともに、なんとなあく捨てられた。はっきり「おまえは要らない」と言われたわけではない。「もう飼えない」と言われたわけでもない。ただ気がついたら一人になっていた。幸い私には、一人で生きていくだけの力があった。気も強い。だからいまもそれなりにがんばることができている。
誰も憎んでいない。
誰も恨んでいない。
私はそういう猫である。
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ベガがオリオンを連れてやってきた。にゃあーっと鳴いて、オリオンは私に抱きついてきた。めでたく目は見えるようになったらしい。にしたって、いきなりここまで懐かれる言われはないと思うのだけれど。ベガが「キャロルねえさまに優しく抱き締めてもらったことを覚えているのだと思います」と言った。そのとおりなのだろう。匂いとか感触とか、そういうものってとても重要だ。そうなのだろうって思うのだ。
私が歩くと、オリオンもとことこついてきた。コンクリートの土管の中に入ると、やっぱりにゃあにゃあ泣きながらついてくる。ベガは泣き声のような口調で「オリオンはほんとうにキャロルねえさまが好きなのね」と漏らす。大げさだなぁと思いつつ、私は土管の真ん中で丸くなった。オリオンも丸くなる。またにゃあと鳴いたオリオン。「またここに来てもいいですか?」、そんなふうに問いかけてきたように思われる。
「ベガ」
「はい、キャロルねえさま」
「オリオンが大きくなるまで、もうここには来ないように」
「キャロルねえさまなら、そうおっしゃるだろうと思いました」
ベガは苦笑のような表情を浮かべた。わかってもらえたのであれば嬉しい。ここいらは比較的人通りも交通量も多くはない「穴場」だけれど、それでもそれらがまるきりないわけではない。私としてはベガとオリオンが幸せであればいいわけだから、危険をおかしてまで訪れてほしくない。
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今宵も私は土管の上に立って、気高さを忘れることなくまんまるお月様を眺めている。そこにベガが現れた。黒い毛並みはきれいで、私の顔を見るとにこりと頬を緩めて見せた。
「どうした? ベガ」
「今日、私の子が死んだと聞かされました」
背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「ああ、違います。オリオンのことではありません」とベガは言った。「私はオリオンを含めて四匹生んだのですけれど、そのうちの一匹が亡くなったという話です」
そういうことか……。
私は少々の安心とともに、納得した。
「ゲンキという名前をつけてもらって、それはもう元気いっぱいの子だったのですけれど、もともと心臓に疾患があって……」
「ならばしかたない」
「はい。そうだと思います。ゲンキは最後まで愛してもらったそうです。飼い主のご夫婦はそれはもう泣かれたようです」
いい話だなぁと思い、私はまた夜空を仰ぐ。
ゲンキくんはきっとしっかり弔ってもらったのだろう。
「私にはわからないよ、ベガ」
「なにがですか?」
「子を生むという感覚が、だ」
「あっ、ごめんなさい。私、無神経ですね」
「そういうことじゃない。おまえのことをうらやましく思うことは事実だが」
「ヒトは狂気の悪魔のようだと感じたことがあります」
「子を取り上げられたときに、そう感じたんだな?」
「はい。だけど、いろいろ知ったときに、それは誰にとっても正解なのだと知りました」
私は深くうなずいた。
「誰もが幸せになれるようにニンゲンがそう判断した。悪いことではないんだよ。愚かでないニンゲンも、いるんだ」
「あの……キャロルおねえさま? 今度、ウチに来ていただけませんか?」
「ほぅ。それはどうしてだ?」
「ウチのご主人様はとてもおいしいごはんをくれるんです」
「そういうことなら必要ない。むしろ、おまえが野良と仲良くしているのがバレることのほうがまずい」
「ウチのご主人様は、そんな――」
「おまえはおまえの幸せだけを思っていればいい。そこに私は必要ない」
それは強がりでもなんでもなかった。
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私はなにせ女王様のような立場にいるので、神社の境内にて執り行われる週一の会合においても音頭をとることを強いられる。「隣町の猫とは仲良くしましょう」、「くさったエサは食べないようにしましょう」、「ヒトの善意にはすがりすぎないようにしましょう」、そういったことを周知した。いつものことである。それから質疑応答の時間となり、ああだこうだと答えている段になって気づいた。ベガとオリオンが後ろのほうに並んでいるのだ。集会が終わり、私は二匹に近づいた。すると、まっさきにオリオンがばふっと抱きついてきたのである。ベガはころころと笑っているではないか。
「ベガ、オリオンを連れてあまり外には出るなと――」
「キャロルねえさま、ごめんなさい。でも、オリオンがどうしてもと言うものですから」
オリオンはこれでもかというくらい私の胸にすりすりと頬をこすりつける。かわいいなと感じた。ああ、そうか、これが母が抱く感情かとも思った。
「キャロルねえさま」
「うん、なんだ?」
「私の夫の話です。聞いていただけますか?」
深刻な顔はしていない、ベガ。それでもなんだか悲しそうだ。
「私の夫は殺されてしまったんです」
私は眉根を寄せた。
「誰にだ?」
「ニンゲンにです」
今度は首をかしげた、私。
「どうして、どうやって殺されたんだ?」
「駆除と言ったほうが正確かもしれません。メス猫を妊娠させて回っていたんです」
野良のオスにありがちな話だなと思った。
「だからといって、殺すほどのことではないとも考えるがな」
「いろいろと、物騒な夫だったんです」
「そうか……」
オリオンは夜に舞う蝶を追いかけ、立ち上がって両手を振ったり、ぴょんぴょん跳ねたりしている。
「でも、私はほんとうに幸運です。愛を知る立場に立てたんですから」
「そうだな」
ベガとオリオンは、ほんとうに幸せだと思う。
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ある日、ベガが真っ青な顔をして、私が住まう空き地を訪れた。
「キャロルねえさま、キャロルねえさま、オリオンが、オリオンがいなくなってしまったんです」
私は驚き目を見開いて、土管の外に出た。
「どこに行ったの? 見当すらつかないの?」
「わからないんです……」
ベガは肩を落とし、しくしく泣くのである。とにかくなにがなんだかよくわからないから、とりあえず私のもとを訪れたのだろう。頼れる者に頼る。頼りたくなる。わかる話だ。
私は走った。あちこちですやすや眠っている仲間を叩き起こしてオリオンの捜索をお願いした。みな、嫌とは言わなかった。むしろ協力的だ。このへん、人徳である――なんて言うと偉そうか。
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三毛猫のミケにゃんが一報をもたらしてくれた。あちこち駆け回り、あらゆる手を使って探した果てに見つけたらしい。オリオンは隣町にいるようだ。親分にいじめられている場面を目にしたのだとの情報を得たようだ。隣町の親分と私はあまり仲がよくない。だから最近私の仲間に加わったオリオンを狙ったのだろう。さらっていじめているのだ。ただのいじめならまだいい。いじめにくじけてしまうほど猫は弱くない。でも、オリオンはまだ猫の世の右も左もわかっていない。オリオンに限って言うと弱い。ちょっと暴力を振るわれただけでも打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれない。
私の仲間はみながみな、「ついていきますよ!」と言ってくれた。「キャロルねえさまとは一心同体です!」って。だからこそ、連れていくわけにはいかない。戦争になってしまうとややこしいのだ。私一人で連れ戻すのが、最善なのだ。
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隣町の親分・ピカソは、自身の縄張りである公園、その砂場の上で、オリオンのことをべしべしべしべし叩いていた。「痛い痛い」と頭を抱えているオリオンである。私は見かねて「やめな!」と叫んだ。ピカソがこちらを見てにやぁと笑った。もうゆるせなかった。私はまっすぐに駆けて、ピカソに襲いかかった。ピカソも迎撃態勢。身体の大きさでは敵いっこない。だけど素早さならこちらが上だ。相手の視界の外に出て、それから飛びかかる。おしりをひっかいてやって、うなじに噛みついてやった。ピカソが逃げる。追いかけるようにして、彼の仲間も逃げていった。
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帰り道、私はオリオンに問いかける。
「いったい、なにがあったの?」
「家のお庭で遊んでいたら、ピカソさんが現れて。首筋を噛まれてさらわれてしまったんです」
私は呆れた。
「ピカソも思い切ったことをしたもんだね」
「ぼくがダメなんです。もっと暴れて逃げればよかったのに……」
「気にすることないよ。あいつ、力だけは一番だからさ」
「お母さん、心配してますよね」
「あんたが帰れば万事オーケー。問題なし」
「……がとう」
「ん?」
「ありがとうございます、キャロルさん」
オリオンは泣いた。
そして、お礼を言われて悪い気がする猫などいない。
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近所の神社。週一の集会だ。私は境内にいる。今夜も偉そうにああだこうだと講釈を垂れる。けれど、無駄なことをただただだらだら述べているかというと、そのつもりはないのである。家族や恋人の大切さを説いているのである。私は子を孕むことはもうできないし、それでもかまわないと考えているのだけれど、だからこそ、私の知りうる限りの経験則を後輩諸君に伝えたい。なにが間違いでなにが正しいだなんてことはないのだけれど、私は伝えたいことを伝える、みなに幸せになってもらうために。
うしろのほうにはベガとオリオンの姿がある。ベガもオリオンもにこにこしている。幸せそうだ。そうあっていい。幸せでなければ猫ではない。そんなふうにすら思う。
「解散!」
私がそう言うと、みな、はけていった。みなが義務感に迫られてではなく自主的に参加してくれている。それが我が町の集会のいいところだ。これからもずっと続けていければと思う。――正直、私はめんどくさかったりするのだけれど。
境内から下り、ベガとオリオンに近づく。やっぱりにこにこ笑ってる。つやつやとしたベガの黒い毛並み、オリオンのブルーの瞳、両方、今夜も美しい。
「キャロルねえさま、今夜もとても素敵でした。感動しました」
「よせよせ、ベガ。私は与えられた役割を果たしているだけだ。それより、オリオン」
「はいっ、キャロルねえさま!」
「もうどこも痛くないか? もし痛いところがあれば、私が改めてピカソの頭を引っぱたきに行ってやるぞ」
「だいじょうぶです! もうどこも痛くないです!」
「ならよかった」
私はオリオンの小さな頭をよしよしと撫でてやった。
ベガとオリオンと一緒に、満天の星空を見上げた。
「猫として生きるだけでもたいへんなのに、ニンゲンはほんとうに幸せなんでしょうか」
「愚問だな、ベガ。猫もニンゲンも一緒だ。幸せな奴もいれば、不幸せな奴もいる」
「みんな幸せになりたくて生きているのに、皮肉な話ですね……」
「その皮肉に抗うために、みんながんばって生きているんだよ」
「ねえさま、ねえさま」
「なんだ、オリオン」
「今日はお泊りします。ねえさまと一緒に寝たいです」
するとベガがオリオンの首のうしろを噛み、彼のことを軽々と持ち上げた。
「お母さん、やめてよぉ。ねえさまと一緒に寝たいよぅ」
一つ微笑んでやると、ベガはオリオンを立たせ、柔和な目を見せ、それから二人、去っていった。
私はまた、夜空を仰ぐ。
誰かを愛することは簡単だ。
誰かに愛してもらうことは難しい。
そのへんの真理は、猫の世界もヒトの世界も大差ないのだと思う。
私は空き地へと続く帰路につく。
最近、土管の中に誰か親切なニンゲンが毛布を寄越してくれた。
ヒトの世話になるつもりなんて毛頭ないのだけれど、優しいヒトはいる。
うざいくらいに大声で叫んでも得られないものはある。
軽々しく謳ったことが現実になることもある。
私はただひたすらに、毅然とした猫でありたい。