不思議の始まり。その2。
「起きてよ、タッくん」
耳元で誰かの声がした。やさしい恵子先生の声には程遠く、お母さんの、殺気に満ちた声とも違っていた。
あまりに心地よい眠りだったので、もう少し余韻を楽しみたい気分だった。
「タッくん、早くしないと捕まっちゃうよ」
何かの手が、僕の体を揺さぶった。その手の動きは段々強くなってゆく。
捕まるって? 誰に?
僕はゆっくりと目を開けた。霧に煙った中に、ネコの顔があった。
記憶が蘇って来た。あのぬいぐるみ?
「タッくん、早くここから離れなくっちゃ」
ネコが強引に僕の手を引いて、起こそうとする。霧が晴れて、次第に周りが見えてきた。
ワン、ワン、ワーーン。
遠くから、犬の鳴き声がした。凶暴で危険な響きだった。
「タッくん、早く起きてよ」
その声は段々と大きく、緊張感が増して来た。
僕はゆっくりと立ち上がった。なんと周りは一面のお花畑。紫の花だった。
ラベンダー?
そう、それは、僕にとって特別な花だった。
「ここは、どこなの?」
「タッくん、早く!」
ボーゼンとしている僕の手を、あのネコが力強く引っ張った。体の割に力がとても強い。
なんで?
ワン、ワン、ワン。ワーーーン。
犬の鳴き声が、次第に近づいてくる。僕は縺れそうな足を必死に動かした。転びそうになりながら、必死に動いた。
気持ちは焦っているのに、体が思うように動いてくれない。体中から冷汗があふれ出した。もどかしさと戦いながら、足を動かそうとした。
5メートル、10メートル。少しずつ、体に感覚が戻って来た。地面が柔らかいのを感じた。
ワン、ワン、ワワワーーーン。ウヲーーヲヲーーーーン。
犬の声が、突然大きくなった。50メートルほど向こうの森から飛び出して来たからだ。
怖くて、後ろは振り向けない。でも、獰猛な犬たちが、花の絨毯を引き裂いて来る、ザザザーっという音が聞こえた。
近いかも・・・。
いやだーーー。助けてーーー。
心臓は、口から飛び出してしまうくらい高鳴っている。15メートルほど走ったところで、僕の目に不思議なものが飛び込んで来た。
無いっ。地面が、ないっ。
ダンガイ、断崖、だんがい・・・。
イヌ、犬、いぬ・・・。
噛まれる、かまれる、カマレル・・・。
痛い、いたい、イタイ・・・。
「タッくん、飛ぶんだ!」
ネコ君が叫ぶ。恐怖で足を止めようとしている僕の手を、思いっきり引っ張った。
地面の無い空間に、ネコ君が僕を強引に引きずりこんだ。
痛い、いたい、イタイ・・・手が痛い。
無い、ない、ナイ・・・地面が無い。
なんだろう。恐怖とか、焦りとか、痛さとか、ゴッチャマゼになった感情で、僕の頭の中は真っ白になった。それでも、足が踏みしめるものを失った感覚だけは、はっきりしていた。
落ちてる・・・? ボク、落ちてるの?
怖くて、下は見れない。
落ちる。オチル、おちる・・・。
死ぬ、シヌ、しぬ・・・死んじゃうの?
夢よ、サメテ、オネガイ、シマス・・。
お母さん、助けて。何でも言う事聞くから・・。
ワン、ワン、ワワワーーーン。ウヲーーヲヲーーーーン。
気が変になったのかもしれない。犬の声が、下のほうから聞こえてきた。
ボク、さかさまに落ちてるのかな?
でも、そんな感じでもなかった。
「タッくん、もう大丈夫だよ」
ネコ君の声に、恐る恐る目を開けると、さっきまでいた断崖のところで、2匹の猛犬が僕らに向かって吠えているのが見えた。ネコ君は、背中に生えた羽で空中に浮かんでいた。そして、気が付くと僕にも羽があって、同じように空中に浮かんでいたんだ。
「行こう」
ネコ君は、向こうにある森を指差して言った。
オ、シッコ、モレ、タ、カ、モ...。