キング・ゴールド編 第五章 二大陸戦争⑤
信じられない。ヒューリの目の前に迫る赤い津波のなんと猛々しいことか。
人ならざる巨人の如き一撃が、人から生み出され、今まさにヒューリを引きちぎろうとしている。なんという矛盾。なんという理不尽。
ただの人間であるヒューリにできる事は、前を見据え、人間と魔剣の力を発揮することだけだ。
ヒューリは、刀の柄を握り、上段に構えた。力はいらない。極限まで脱力し、体に染みついた【斬る】という動作を再現するだけでいい。
加速する思考は、ノイズばかりを吐き出す。
死にたくない、生きたい、怖い、恐ろしい、情けない。
くだらない。そんなことに思考を割く余裕はない。
「クソ」
簡単にはいかない。
死が迫る。落ち着かないと。でも、死が迫る。そんな気持ちになんてなれない。
体がこわばる。これじゃ……。
「……あ」
頭に小鞠の頭が浮かんだ。会いたいと心が叫ぶ。――ああ、不思議だ。混乱していた頭がそれで落ち着いてくれた。
――生きる為に斬る。
体に伝わる空気の振動が、未練がましく心を乱そうとする。だが、気にするな。体にも意識を向けない。外にも意識を向けない。きる、キル、斬る……すなわち刀を振る。
音が消えた。感覚は緩やかに。いつも暴れまわっている闘志は、川底の岩のように静やかに異彩を放つのみ。
一歩足が前に出た。
息を少し強めに吐く。
体の細胞の隅々までを動かし、重力を落とすように刃を振るう。
刀の魔力は爆発させない。あくまで刃に纏わせるのみ。
激しい赤色の津波に対し、それはあまりにも静やかな斬撃であった。
――【放浪永礼流 最奥の境地 次元断ち・散華】。
黒々とした刃が、表面を撫でるように津波に触れる。完璧な角度で入った斬撃は、津波を分ち、運動エネルギーを蹴散らしていく。
基本の上段切り。しかし、極みに達した基礎を超越した上段切りは、圧倒的な暴力を静かに無力化させた。
荒れ狂う波はもうない。左右に分たれ、ヒューリの後方へ霧散していく。
耳をつんざく音は止み、静寂が帳のように降りた。
「……お前、何をした?」
「別に特別な事は何も。ただ今までできなかった奥義が、やっと一回だけ成功しただけだ」
「奥義。あの男が伝えた技か」
ゾルガは獣性が滲む笑みを顔に広げた。
「面白い」
「ん、何のつもりだ」
ヒューリは相手の行動を訝しむ。その反応は仕方がないだろう。
なぜならばゾルガは、構えを解くと大剣を地面に突き刺したのだから。
「いやなに、本気を出そうと思ってな。お前は、全力で戦うに値する存在と認めた」
「今まで本気じゃなかったってか。本当にふざけてるぜ」
ヒューリは、ゆらりと刀を構える。
ゾルガは、両手を広げると手を鉤爪のように構えた。
「ッ!」
ゾルガから発するプレッシャーが増す。ヒューリの身体を押しつぶしてくるような感覚。
本気、というのはハッタリではない。
――考えろ。奴は剣を捨てどんな攻撃をする。
ヒューリの喉が鳴った。――と、同時に空に凄まじい咆哮が轟く。
ゾルガが驚いた様子で上空を見上げ、釣られてヒューリも空を見た。
「あ、れは?」
喉が干上がる。雪が舞う曇天の空は、黄金に彩られていた。金色の粒子が淡々しく漂う世界は夢心地のように現実味がない。
――ましてや空全体を覆うような、巨大な影を見たならば、誰だって夢と思うだろう。
地平線の端から端までを独占する黄金の影。輪郭はおぼろげで、しかし全身を握り締めるような存在感だけがはっきりと伝わってくる。
ヒューリはブルリと身を震わせた。
「千年龍……。ヨグルは、とうとうマリアの完全洗脳に成功したのだな」
「何! ゾルガ、どういうことだ?」
「文字通りの意味だ。お前の仲間は、俺らのものとなった。こちらが命じれば、他ならぬマリアの手によってゴールドブレスの連中は、瞬時に灰となるだろう。
千年龍は、エンシェントドラゴンに属する古龍だ。ドラゴンは、長く生きるほどに力を持つ。だが、千年龍は生まれた時から強大な力を持つ異端児。この世界が望んだ覇者。見る限り、召喚士として破格の力を持つマリアであっても、千年龍の完全召喚は不可能だったようだが、この力で十分だ。……問題は」
千年龍は、腕を振り上げる。攻撃をするつもりだ。狙いは、ひりつくような殺気で分かる。ヒューリは、驚愕の目でゾルガを見た。
「俺もろとも殺そうとしていることだな。ヨグルめ、裏切ったか」
「このタイミングで!」
「死にたくなければ、ギアに乗れ。――来るぞ」
「……クッソ、お前の言うことを聞くのは嫌だけど、仕方ねえ!」
千年龍が腕を振り下ろす。ただそれだけの動作で、大陸全体が揺れ、半径数キロメートルもの巨大なクレーターが出現した。
それは意志を持った災害だ。大勢の生き物が死に絶えた。生き残った者は、怨嗟の声を上げて天を仰ぎ見る。絶望の黄金は、ただ静かに地に満ちる怨念を眺めたのみだ。