キング・ゴールド編 第五章 二大陸戦争②
冷気を含んだ風が、雪原を滑らかに吹く。
男は、その風を切り裂くように地面をしっかりと踏みしめ歩む。
黄土色の髪は風に揺られ、筋骨隆々の肉体が雪を蹴散らす。
鋭い灰色の瞳は、血に飢えた狼のようにギラリと妖しい光を放っている。
「ここは、故郷とは何もかも違う」
男、ゾルガは瞳を閉じた。
――脳裏によぎるは、戦いの記憶。
煌めくは刃。漂う臭いは、鉄と腐った肉の臭い。照り付ける太陽が人々の苦しむさまを嘲笑う。
戦場で生まれたゾルガの最も古い記憶は、忌まわしき奴隷の日々だ。
ろくでもない奴隷商人に、ひたすら戦いを強要させられた。
生きたい。俺は生きていたい。それだけを胸に抱え、勝利した。
体は大きくなり、商人の体が醜い豚のように太りきった頃、「生きたい」は「行きたい」に変じる。
隙をついて商人を血に変え、傭兵として自由を謳歌した。
だが、結局「行きたい」は、「どこにも行けない寂しさ」になれ果てただけだ。
戦、戦、戦。場所を変えても、世界を跨いでも、戦いは呪いのようにゾルガに付きまとう。
戦い以外を知らず、戦いでしか生を語れない。なんと、不出来な生き物だろうか。
友は死に、愛した人も炎に巻かれた。死なぬ我が身に、いい加減愛想が尽きる。
そんな時だ。あの男、異世界の放浪者に出会ったのは。
戦いを生業にしている者だと、一目で分かった。それと同時に、絶望的な力の差、例えるならば、大自然と人間が背を比べるような滑稽さを感じたものだ。
――ああ、この男ならば俺を殺してくれる。
必死になって頼み込んだ。しかし、あの男は刃を納めると、
「狭い視野だ……か」
(あの男は、あの時になんと言っただろうか)
ゾルガは、舌打ちをした。
「ゾルガ、ゾルガよ」
天から響く声。ゾルガは、歩みを止めた。
上を見上げれば、緑色の細長い体が渦巻いている。器用にも巨大な八対の翼を動かし蠢くそれは、邪龍ヨグルだ。
「何の用だ?」
「それはご挨拶だ。うぬを迎えに来たのだ。もうすぐゴールドブレスの軍団が海岸に訪れるぞ」
「そうか。いよいよだな」
ヨグルが、体をねじっている。笑っているのだろう。
「ああ、ここまで苦労したものよ。余の力【ブラック・マインド】は、憎しみの色が付いたマナを用いて対象者を洗脳できるが、いかんせん使い勝手が悪い。
いきなり洗脳することはできず、まずは相手が精神的に弱っている状態で力をかけなければならぬ。これは、王の病魔が良き役割を果たした」
「確かに。その事実が、勝手にマリアの心を弱らせた。あとは我が城で捕らえていたドラゴンの憎しみを利用して、徐々に洗脳を加速させる。俺達との戦を避けたいゴールドブレスが、マリア救出に全力を傾け、いきなりは戦にしないだろうという読みは当たったな。おかげで、洗脳する時間を稼げた」
「おおう、そうだとも。そして、うぬを大事な人だと錯覚させ、マリアを操りやすくした。今は、あれらに奪われたが、もう時間の問題よ。此度の戦で、余の力はさらに強まり、マリアを完全に制御化に置く。さすれば、王の軍勢を瞬く間に千年龍の力で滅ぼし、この世界を統一させる」
ゾルガは、大剣を天に掲げた。
「もうすぐだ。戦とは無縁の閉じた世界を作る。異世界との交流はいらぬ。俺とお前が支配する楽園で、悠久の安寧を手にするのだ」
「おおう、まさしく。その時を楽しみにしようではないか」
ヨグルは、渦を巻きながら陰鬱な笑い声を天へ響かせる。
ゾルガは、口の端を持ち上げ犬歯をぎらつかせた。
※
――痛い……。
まるで泥の中を泳ぐような重苦しさ。それが、マリアの全身を苛む。
景色と呼べるものは、この世界にはない。ただひたすらに負の感情だけがたゆたう。
怨恨、怨嗟、怖気、憎悪、悲愴、落胆。
それらは、マリアを束縛する鎖となって襲い来る。
ああ、細胞の余すところまで蹂躙されてしまう。
このままでは、何も考えられなくなるだろう。
……何で、こんなことに。
誰も答えてくれない。
だが、屈してはならないという気丈な意思だけが心に残っている。どうして、それを手放さないのか、マリア本人もわからない。
手を離せば、楽になる。だが、それは死よりも恐ろしい気がするのだ。
上下もなく、天と地が混ざり合った世界でマリアは、手を伸ばした。よく見えないが感じる。マリアの細い指が差す先に、負の感情が流れでる源泉のような場所があるのだ。あのどす黒い感情はどこからやってくるのだろう。
……待てども待てども、やはり答えは返ってこなかった。
※
「第一突撃部隊、構え」
カーヴァ南方の海岸。そこは戦場と化していた。
海の向こうから空を飛んでやってきたゴールドブレスの軍勢は、敵の遠距離攻撃をかいくぐり、今まさに攻撃を加えようとしている。
ゴールドブレス二万の軍勢に対し、カーヴァは三万もの軍勢を用意していた。
戦において数の不利は、勝敗を大きく左右させる要因といってよい。
しかし、カーヴァの軍団は統制が取れておらず、数の有利は機能していないようだ。
「王よ、ゾルガとヨグルがいないようです」
「何?」
ワイズの報告を聞いたドン王は、額の皺を深く刻んだ。
「……まさか、マリアの会社がやってくれたか?」
「彼女らと連絡が取れませんゆえ、詳細は分かりませんが……」
「ウウン、敵の罠の可能性も捨てきれん。だが、いずれにせよ攻めを緩める理由にはならんな。マリアの会社がやってくれたのなら、御の字。無理であっても問題はない。ここを突破し、ヨグルを瞬殺してくれる」
王は、杖を振って拡張魔法を発動させると、大声で叫んだ。
「皆のもの、敵は出鼻をくじかれた状態である。敵の指揮官が現れる前に、決着をつける。この戦こそが、キング・ゴールドの明日を決めるのだ。各々の奮戦を期待する」
黄金の国の兵は、鬨の声を上げた。
波及する声は津波のように押し寄せ、カーヴァの軍を圧倒する。
海岸線に広く展開したカーヴァ軍に対し、ゴールドブレスは槍のような陣形で突貫する。
「ああああああ」
「し、死にたくない」
「やめろ。炎が、あああああ、焼ける、俺の肌が!」
舞う血と焼けた肉の臭い。悲鳴が空に木霊する。
重苦しい救いのない怨嗟が場を満たし、鮮血に海岸は染まった。