キング・ゴールド編 第一章 とんだ大事件③
――やれやれ、酷い雨だ。
男の呟きは、雨音にかき消された。
「ゾルガ様」
三人の男達は、撥水加工が施されたローブを脱ぎ捨て、片膝をついた。
そこは人気のない橋の下だ。ゾルガ、と呼ばれた男は、黄土色の長髪をかき上げ、雨にけぶる街を眺めた。
背が高く、逞しい体格をしている。ノースリーブの服から飛び出した腕は丸太の如く。手甲と下半身だけに装着された鎧には傷が複数ついていた。
顔は目を閉じていれば凛々しく見えた。だが、瞼を開ければ覗く鋭い灰色の瞳、それが狼じみていて荒々しい。
ゾルガは、低く落ち着いた声で言った。
「潜入は成功した。お前らは、この街に旅人を装って滞在。別命あるまで己が務めを果たせ」
「そ、そのゾルガ様。あなた様の武勇は誰もが知っております。誰もあなたのお力を疑ったりはしません。しかし、お一人で向かわれるのは」
「危ないか? その言葉は、俺に傷をつけられるほど腕前を上げてから言え」
「う……」
渋々といった様子で、三人の男達は頷く。
ゾルガは僅かに苦笑し、一人一人肩を叩いて回った。
「案ずるな。俺はヘマをしない。この程度でしくじるような男であるならば、すでに死へと導かれただろう。俺は勝利する。これからもな。だから、安心して我が帰りを待つがいい。
勝利はここに。永久なる楽園を求めて……」
男達は、瞳に涙を潤ませ一斉に心を言葉にして解き放つ。
「永遠なる楽園を求めて。約束の到達へ」
ゾルガは、満足げに頷き、背を向け去っていった。
※
ピンと弦を張ったような緊張感が満ちている。
ここは、首都サウザンドにあるゴード城の謁見の間。
ドラゴンの鱗を表面に張り付けた金の鎧を着た近衛兵達が、レッドカーペットを挟むように整列している。
そのレッドカーペットに仁王立ちしているマリアは、階段を上がった先にふんぞり返っている王に向かって鋭い視線を刺した。
王は、まるで絵本で登場する王様のようだ。
金の王冠に、豪奢な金の刺繍が施されたコート。内に覗くベストは、前面の飾りが非常に印象的だ。幾重もの宝石で、厳ついドラゴンの姿が彩られており、天井から降り注ぐ魔法石の光でキラキラと輝いている。
「一体、どういうつもりですの?」
マリアの氷のような声が広場を駆けた。若い近衛兵が一人、情けない声を上げる。
しかし、さすが王となれば器が違うのか、はたまた父の威厳が成せる業か。
ドン・ゴールドスタインは、マリアの殺気が混じった視線を真っ向から受け止め笑ってみせた。
「我が娘。見事な気迫だ。多くの人やドラゴンが、お前の前にはひれ伏すであろうな」
「うるさいですわ! 質問に答えなさい」
「よよよー、母は悲しいですわ」
父が座す席の隣で、王妃リューラ・ゴールドスタインがドレスの裾を目元に当て、嘆いている。今年四十歳のはずだが、リューラの見た目は二十代のように見える。マリアによく似た姿は魅惑的で、真っ赤なドレスがよく似合う。
マリアは、冷めた目で母を一瞥する。
「何が悲しいでしょうか。どうせ父にいらぬ策を授けたのはあなたでしょうに」
「そんな言い方しなくても。母はあなたに逢いたかったのですよ」
「リューラを責めるな、マリア。ロクに連絡も寄こさず仕事ばかりのお前が悪い。もう少し、親のことを考えてはくれまいか」
「その言葉、あなた方に言う資格はなくてよ。昔からそう。ワタクシの成すことすべてに難癖をつけ、事あるごとに結婚しろだのなんだの」
「お前のためだ」
「お前のため? あなた方の都合の為でしょう。ワタクシは、自分の道は自分で決めます。都合の良い人形が欲しければ、他を探してくださいまし」
「ああ、マリア。都合の良い人形などそんな……」
――静寂。それも気持ちの悪い静寂が満ちた。
身じろぎの音さえせず、一秒が一分、一時間に引き延ばされたような感覚を全員が共有した。しかし、激しい雷鳴のような咳が、静けさを破る。
「あなた!」
「だ、だい、ゴホ、ガハア」
王は、苦しそうに胸に手を当て、体を揺らしながら咳をした。王妃が心配そうに駆け寄ろうとするが、王は手を上げて制する。
「グ、ゲホ、ゲホ……。んん、スマンな。騒がせてしまった」
「お父様。どこかお加減でも悪いのですか?」
少し優しさのこもった声で、マリアは言った。
「いや、何でもない。何でもないのだ。それよりもな、マリアよ。お前を強引に攫うような真似をしたのには、理由がある」
「理由? それはどんな」
「……此度行う予定の闘技大会は、ただの大会ではない。お前の婿を選ぶための戦いの場なのだ」
マリアは、絶句した。父を案ずる心は消し飛んだ。――激しい、それはそう烈火の感情が、マリアの全身を駆け抜け、最後に声となって吐き出された。
「ふざけないでくださいまし。また、ワタクシの意思をないがしろにして、勝手に話を進めましたのね。ああ、そういうことですか。会社の方々と一緒にいれば、ワタクシは踵を返して逃げます。だから、そうなる前に手を打ったと。……最低」
「ああ、マリアちゃん。話を聞いて頂戴。理由が、理由があるのよ」
「都合の良い理由なんて、聞くに値しませんわ。ほっといて」
マリアは、両親の視線から逃れるように謁見の間を飛び出した。
悲しさに胸が裂けてしまいそうだ。涙が零れて、彼女の張りのある頬を濡らす。
長い廊下を駆け、螺旋階段を上り、また廊下を進んで外へ。
木製の扉を開けたマリアの視界に、眩い光と冬の冷たい外気が飛び込んできた。
ここはゴード城に三本そびえる尖塔の一本。西側にあるここは、マリアのお気に入りの場所だ。しばらく家に帰っていなかったが、時を止めたように変わらない景色が待っていた。
落下防止のために設置された手すりに手を置き、マリアは沈みゆく太陽を眺める。
――まず、異世界に行って驚いたこと。それは、太陽と空が織りなす景色がキング・ゴールドと変わらないことだった。
どこで見ても変わらない景色。眺めているうちに、乱れた呼吸は徐々に収まっていった。
「……どうして。ワタクシは、城を飛び出しても自由ではないのでしょうか?」
「それは、貴女が姫であらせられるからだ」
高い声は、マリアの左側から。視線を向ければ、小さなドラゴンがそこにいた。水色の薄い羽をこまめに動かし、風に流されないように小柄な体を宙に留めている。
「お久しぶりですわ。賢龍・ワイズ」
「お姫様こそ、お久しゅうございます」
ドラゴンは、小さい頭をコクリと下げた。体長はマリアの手のひらほど。小さすぎてドラゴンというより、トカゲのような印象を受ける。
「王族の相談役は、父のやらかしたフォローまでするんですね」
「姫様、それは誤解でございます。お父様は、姫様のこともちゃんと考えて此度の大会を開催するに至ったのです」
「どこがワタクシを考えているの? 確かに我が国は王族に絶えず強き者を加えることで、優秀な人間を輩出してきました。おおかた、今回の大会は強き人を見出すために開催したのでしょうけど、ワタクシの意思はどうなりますの。まだ、結婚なんて」
ワイズは、マリアの前にある手すりに着地すると、クリクリとした目を悲しげに伏せた。
「……王も苦渋の選択だったのです。しかし、時間がなかった。それは、二つの意味で……」
「二つの意味?」
マリアは、ツインドリルの毛先を人差し指で弄った。
ワイズは、興味深そうに指と毛の動きを目で追いながら語る。重苦しい声で紡がれた言の葉に、マリアは猫のような瞳を見開いていく。
「そ、んな」
「……だから、どうかご一考ください。時間はいかほども残されておりませぬが」
ワイズは、それだけを告げ、飛び去った。
一人残されたマリアは、日が沈んで暗闇が支配する時間になってもその場に居続けた。
星が煌めき、城下町では次々と明かりが灯っていく。
「じゃあ、ワタクシが取るべき選択肢は……」
呟きを聞き届けたのは風と星だけ。マリアは長いまつげを涙で湿らせた。