思い出と記憶
「あ!見てみて、美味しそうなハンバーグ屋さんがあるよ!」
「ホントだ、すごいねえ、ログハウスみたい!混んでるねえ…美味しいのかな?」
「すごーい、あの公園、面白そうな遊具いっぱいある!見て、あの噴水、かわいい!」
「小さい子がいっぱいいるねえ、今度お弁当を持ってこようか?」
「あのお店入ったことあるよ、あのね、すごくかわいいぬいぐるみがいっぱい売ってたの、昔ひろ君と一緒に行ったんだ!」
「へえ、ひろ君にいっぱい買ってもらった?」
「うん!買い過ぎて大変だった!お部屋がぬいぐるみだらけになっちゃって!」
「ねえねえ、隣の車外車だ!運転席がすごく下の方にある!ふふ、目が合っちゃった!」
「車高低いね、たぶん1500万くらいするやつだよ…ちょっと怖いかも…。」
「もうじき信号が青になるよ、止まらずに…行けたー!運がいいねえ!」
「ホントだ、お母さん…マリちゃんは本当に運がいいねえ。」
「でしょう?私すごく運がいいの、だってね、大好きなドライブに連れてってもらえてるし!ありがとー!」
「どういたしまして。次は、どこ行く?」
「うんとね……この道を、右に曲がりたい!」
軽自動車の助手席には、老いた女性。
運転手は、中年男性。
後ろの座席から声をかけているのは、中年女性。
三人で楽しむドライブは、週に一度の楽しみとなっている。
老いた女性は、週に一度のドライブを楽しみにしているのだ。
中年男性は、週に一度のドライブを楽しみにしているのだ。
中年女性は、週に一度のドライブを楽しみにしているのだ。
ずいぶん昔、仲の良い家族であったこの三人は、今、全員別世帯で暮らしている。
中年男性は、自分の家族とともにかつて老いた女性が暮らした家に住んでいる。
昔老いた女性の部屋だった場所は、今、孫娘たちの部屋になっている。
中年女性は、生まれ育った家から30分ほどの場所に店を建てて自分の家族と共に暮らしている。
昔老いた女性が毎日顔を出したパン屋で、今も変わらずパン屋を営んでいる。
老いた女性は、同じ年頃の人たちと、仲良く施設で過ごしている。
昔老いた女性が親の介護のために毎日通っていた施設で、穏やかに毎日を過ごしている。
昔若かった老いた女性は、いろんなことを忘れてしまった。
自分の名前、自分の家族、自分のしてきたこと、自分が思ったこと、自分ができなかったこと、自分という認識。
昔若かった女性は、いろんなことを、覚えている。
自分の好きなもの、自分の言葉、自分の感情、自分が楽しいと感じた過去の瞬間。
色んな事を忘れてしまっても、毎日ニコニコと過ごしている。
色んな事を忘れてしまったら、毎日ニコニコと過ごせなくなるからと、かつて老いた女性は言っていた。
自分の親の介護でいろいろと思うところがあった女性の決意は固かった。
親を見送り、夫を見送り、老いた女性は施設に入った。
十年ほど施設内で元気に暮らしているうちに、老いた女性は記憶を少しづつ減らしていった。
「よかったねえ、お母さんドライブが好きで。」
「そうだね、いつもお父さんと仲良く出かけていたもんなあ。」
「大喧嘩してもいつも二人で出かけて、機嫌よく帰ってきてたよね。」
「いつもお土産買ってきてくれたなあ、大抵シュウマイか肉まんだったけど。」
「家族みんなでドライブ行くと、車内がうるさかったよね~。」
「ずっとしゃべっていたからなあ、おしゃべりな夫婦だったよ、ホント。」
「まあ…私もあんたも一緒になってしゃべってたけどね。」
「幸せな家族だったね、騒がしかったけど。」
「お母さんが子供の時は、ずっと黙ったまま暮らしてたらしいから…その反動もあったのかな?」
「子供の頃から、ずいぶん親に苦労したらしいからね…あんまり詳しくは知らないけど。」
「ひどい親だったんだろうね。」
「ひどい親だったと思うよ、思い出したくなかったんだろうね。」
「お父さんがお母さんを連れ出したんでしょう?聞いたことあるよ。」
「世界が変わったって、よく言ってたもんなあ……。」
「うちらが学生の頃は、ホントお母さん大変そうだったもんね。」
「毎日のように親に呼び出されてたし、気の毒だった。」
「結局ひどい親のこと、見捨てることができなかったんだよね。」
「子供の頃も、大人になってからも、酷い親に悩まされたんだよなあ……。」
「自分もそうなるんじゃないかって、ずっと心配してたね。」
「全然ならなかったけどね。」
「一度も呼び出してくれないもんね。」
「呼び出してくれてもいいのにね。」
老いた女性は、もう、中年女性の名前も、中年男性の名前も、思い出せない。
老いた女性は、もう、中年女性も、中年男性も、呼び出すことはない。
だから、中年女性と中年男性は、週に一度、老いてしまった母親のもとを訪れて、ドライブに出かけるのだ。
中年女性と中年男性、二人がそろう事もあれば、一人だけで行くこともある。
ドライブに誘うと、老いた女性は、無邪気な笑顔を向けて、大喜びする。
ドライブに誘わなくても、老いた女性は、無邪気な笑顔を向けて、大喜びする。
たまに二人とも行けないこともある。
ドライブに行けない老いた女性は、施設でニコニコと過ごしている。
ドライブに行けないことに気が付かない老いた女性は、施設でニコニコと過ごしている。
「ねえねえ、あそこ見て、風船配ってる人がいる!何やってるんだろう!!」
キラキラと輝くような笑顔を向けて、窓の外を指差す、老いた女性。
「ああ…ハウジングセンターのイベントやってるみたいだよ、ちょっと寄って行こうか?」
「いいの?!ありがとう!風船、いいなあ・・・!」
「もらえるかな?……とりあえず、行ってみようね。」
中年女性の脳裏に浮かぶのは、幼い頃の、思い出。
―――ねえねえ、あそこでふうせんくばってる!!
―――じゃあちょっと寄って行こっか!!お父さん止まってー!
―――ちょ!!急に言うなよ、ああー、駐車場通り過ぎた―!
―――いいじゃん、歩いて行こ~!
―――いこー!!!
中年男性の脳裏に浮かぶのは、幼い頃の、思い出。
―――おおきなきょうりゅうがいる!!
―――ホントだ!!何やってるんだろう、ちょっと寄って行こうよ!
―――いいねえ!おいしいものうってるかも!!
―――じゃあ、みんなで行ってみよー!!!
―――わーい!!!
―――わーい!!!
老いた女性は、いつだって、子供たちの言葉を聞いていた。
老いた女性は、いつだって、子供たちの気持ちをくんでいた。
子供たちは、大人になって。
老いた女性の言葉を聞き。
老いた女性の気持ちをくみ。
老いた女性とともに、時間を過ごしている。
老いた女性とともに、時間を過ごせるのは…あと、わずか。
老いた女性を、車いすの上にのせて、イベント会場に向かった中年の男女。
「すみません、風船って、子供じゃないともらえませんか?」
「いいえ、大丈夫ですよ、はい、どうぞ!」
若いスタッフの男性から赤い風船を受け取った中年男性。
それを、そっと、車いすの上でニコニコしている老いた女性に、差し出した。
「わあ、ありがとう!!」
大喜びの老いた女性を見て、中年の男女は、にっこりと微笑み合った。