9話 アマルガム・ストレージャー
「ポール! しっかりしろ! 大丈夫だ、父さんがついてるからな!」
ラフィットがベッキオと交戦している最中、ユリスたちもまた戦っていた。
「抉られているのは右脇腹……腸と腎臓が激しく損傷してるし、何より出血量が多すぎる……このままじゃ……」
ポールは奇跡的にまだ生きていた。心臓や脳など、損傷が即死に繋がるような重要な臓器が無事だったことが幸いしたようだ。
だが、昏睡状態で体温の低下と体の痙攣が見られる。かろうじて息はあるものの、間違いなく致命傷。小さな命の灯は、今まさに消えようとしていた。
(出血量が多すぎる。人工臓器なら錬成できるかもしれないけど、このままじゃ作ってる間に死んじゃうよ! どうすれば……)
「……けて!」
「え?」
「お姉ちゃん、父さんを治したみたいに、ポールを助けて! お願いだよ!」
「で、でも……」
「私からもお願いします! どうか、どうか息子を助けてあげてください!」
「そんな……」
すがるように懇願する親子に、ユリスは当惑していた。治療の手段が無いわけではないが、どう考えても時間が足りないのだ。しかし、こうして手をこまねいている間にも、ポールの死は刻一刻と迫っている。
「お姉ちゃんは天才錬金術師なんでしょ!? お願いだよ、何でもするから……お金だって……」
「お金ならいくらでも払います! だから……」
「ちょ、ちょっと黙ってて!」
金銭の問題ではない。今のユリスに一番足りないのは時間だ。思考を遮る親子の叫びに、優しさを見せる余裕など無かった。
「今考えてるから! 静かにしてて……」
ポールの瞳は虚空を写したまま、瞬きすらしない。弱々しかった呼吸はさらに小さくなり、体はみるみる冷たくなっていく。
(何か、何か方法は……)
人が死ぬ。幼い子どもが、目の前で。それを見ているだけで何もできない自分に、ユリスは大きな失望を感じていた。
(結局、私には何もできないの? 天才錬金術師になったはずなのに、何もできずに諦めるしかないの?)
ポールの脇腹から流れ出る血の勢いが、急激に弱まっていく。もはや心臓もほとんど動いていないのだろう。
(何をするにしても、とにかく時間が足りない! 時間を止めでもしないと、どうしようも……)
「時間を……止める……?」
ユリスの脳内に、一筋の閃きが差し込んだ。絶望的な状況の中で僅かに見えた光の糸。ユリスはそれを必死に手繰り寄せる。
「ゴルチェさん!」
「な、何だ!?」
「この家に水晶はある!?」
「水晶? 加工に使う紫水晶ならありますが……」
「それで良い! ジャン、それをありったけ持って来て!」
「わかった!」
「ゴルチェさんは大急ぎで水を汲んできて! とにかくたくさん! あの樽一杯になるくらい!」
「りょ、了解した!」
二人に指示を出した後、ユリスは背負った鞄を降ろし、中からすり鉢と二つの瓶を取り出した。
「お姉ちゃん! 持ってきたよ!」
「これだけあれば足りますか!?」
ジャンが紫水晶を、ゴルチェが水を並々入れた樽を転がして戻ってくる。それを待つ間、ユリスはポールを抱きしめて、少しでも体温の低下を押さえようとしていた。その行動のおかげで、ユリスの纏っていた衣服は血まみれになってしまったが、そんなことを気にしている余裕は無い。
「ありがとう!」
ユリスは袋に入れられた加工前の紫水晶をむんずと掴み、いくつかを袋に戻した後、それをすり鉢へと放り込む。
「まずは紫水晶を300グラム……」
そこへ瓶に入った銀色の液体を注ぎ入れ、少し掻き混ぜた後に今度は薄い青色の液体を混ぜ合わせた。
すると、結晶だったはずの紫水晶は溶解し、すり鉢の中身は青みがかった銀色の液体へと変化した。
「こ、これは……」
「吉祥者の儲蓄庫の素だよ! 紫水晶に水銀と『朝霧の雫』を混ぜたの。理屈は後! あとはこれを樽の水に溶かして……よし!」
「アマル……って、水銀だって!?」
驚くゴルチェをよそに、樽の中の水は薄く色づいた粘液へと変性していく。
「二人とも、手伝って!」
「手伝うって、どうすれば……」
「ポールを樽に沈めるの!」
「はぁ!?」
「良いから! 今は私を信じて!」
ゴルチェは躊躇した。いくら自分を救ってくれた恩人とはいえ、怪我をした息子をよくわからない粘液の入った樽に沈めようだなんて、頭がおかしくなったとしか思えなかったのだ。しかもゴルチェは職業柄、水銀が有毒であることも知っている。それを混ぜた液体であれば、不信感が尚更強まったとしても無理はないだろう。
「早く! このままじゃ間に合わなくなるよ!」
「だが、水銀の入った液体なんて……」
このまま何もしなければ、間違いなくポールは死ぬ。しかし、得体の知れない液体に息子を沈めるという行為に、ゴルチェは父親として踏み出すことができずにいた。
「と、父さん!」
「あなた、さっき馬糞入りの薬を飲んで回復したでしょう!? あなたの常識は、錬金術の前では無意味なの! この粘液にはもう水銀の毒性は無くなってるから! わかったら、早く手伝って!」
苦渋の表情を浮かべるゴルチェ。
「この子が死んでもいいの!?」
それだけは絶対にダメだ。ゴルチェはもう、ユリスの指示に従う他に道は無かった。
「くそ!」
ゴルチェはポールの両腕を抱え上げた。それを見て、ユリスとジャンも下半身を持ち上げる。
「いくぞ! せーの!」
そしてそのまま、ポールを樽の中へと放り込んだ。怪我人なのだからもっと丁重に扱うべきなのであろうが、一刻の猶予も無い状況に迫られた彼らを誰が責められるだろうか。
「これで良いんですね!?」
「うん、ありがとう! それじゃ最後の仕上げをするから、少し下がってて!」
ユリスは二人を下がらせると、何か筒状の物体を鞄から取り出す。そして、その物体から伸びる麻紐に火をつけた。
「お、おい! あんた、それって、まさか……!」
「どぉおりゃぁああああ!!」
ゴルチェがそれが何なのか気づいた時には、すでに手遅れ。ユリスが樽に向かって筒状の物体を投げつけると、それは耳を劈く轟音と共に爆発した。
「うわぁあああ!!」
「きゃぁああああ!!」
爆風に吹き飛ばされる三人。
「ぽ、ポールっ!」
ごろごろと転がりながらも、ゴルチェは即座に立ち上がり、もくもくと立ち込める煙に向かって叫んだ。
「ポール! ポール! そ、そんな……」
呼びかけも虚しく、煙の向こうから転がり出てきたのは息子が入れられていた樽の残骸。ゴルチェはがっくりと膝をついた。
「ふぅ、とりあえずは何とかなったかな」
うなだれるゴルチェの隣で、ユリスは息をついた。だが、それを見たゴルチェは当然の様に激昂し、ユリスに掴みかかる。
「あんた! おいあんた! 一体なんてことをしてくれたんだ! 息子が……ポールが、バラバラになって死んでしまった! 何でこんなことをしたんだ! 返せ! 息子を今すぐ返せ! この人殺し!!」
「酷いよお姉ちゃん! ポールはまだ生きていたのに……何で……何でとどめを刺したりしたんだ!」
「くそ……ッ! やはり錬金術師なんて信用した私が馬鹿だった……ポール……あぁ、ポール……」
ユリスの肩を揺らし、激しく糾弾するゴルチェとジャン。信じた相手に大切な家族を爆殺されるなんて、いったい誰が予想できようか。二人は、深い悲しみと激しい怒りに打ち震えていた。
「ちょ、ちょっと待って! 二人とも勘違いしてるよ! ほら、あれ見てあれ! あの子、死んでないから! 生きてるからーッ!」
「この期に及んで何を言って……何だ……? あれは……」
激しく揺さぶられるユリスが、必死に指さした方向へ視線を送ると、ゴルチェとジャンの目に不可思議な物体が飛び込んできた。
爆発による煙が晴れたその場所には、樽の残骸の他に、巨大な水晶の塊が落ちていたのだ。その薄いブルーの水晶の中には、小さな人影も見える。
「ポール……なのか?」
「ポール!」
真っ先に駆け寄ったのはジャンだ。それを追いかけるように、ゴルチェも水晶のもとへと走る。
「ポール! くそ、何だこれは! 今出してやるからな!」
水晶の中には、ポールが先ほどまでと同じ状態で閉じ込められていた。目は見開いたまま、完全に固まっている。
ゴルチェは近くに落ちていた瓦礫を拾い上げ、ポールを包む水晶を叩き割ろうと試みた。
「ダメー! ダメダメ! そんなことしたら、今度こそ死んじゃうよ! 絶対にダメ!」
追いすがったユリスの絶叫に、ゴルチェはすんでのところで手を止めた。
「壊したらダメって……いったいこれは何なんだ!?」
「はぁ、はぁ……その子は今、その状態で全ての生命活動を停止しているの。でも死んだわけじゃないから安心して。その吉祥者の儲蓄庫の中は時間が止まっていると考えてくれればいいかな。でもそこから外に出してしまったら、もうその子に訪れる死を止められない。だから、絶対にその水晶を壊しちゃダメだよ!」