172話 乾坤一擲
アイニスは強化人間だ。常人なら致命傷となるような深手でも、時間さえあれば回復することができる。
「油断……したつもりは……」
自らの吐いた血溜まりの中で、アイニスは力なくそう呟いた。
「……くそッ!」
ラフィットは額に汗を浮かべながら吐き捨てる。アイニスの傷がただ鋭利な刃物でつけられたものなら、彼はこんなにも動揺しなかっただろう。
アイニスの体を貫いたグリフォンの爪には毒がある。そして、強化人間の唯一と言っていい弱点が毒だからだ。
マリナの治癒魔術と同様、アイニスの体も毒を癒すことはできない。同じ強化人間であるピエールも、彼女の体を造り変えたマルコも、毒には抗えなかった。
「形勢逆転……ってわけでもないか。最初から私が勝つことはわかってたことだし」
落ち着きを取り戻したマリナは、冷たい視線で倒れたアイニスを一瞥する。そこには聖女と称される慈悲深さは微塵も感じられない。
「あなた。どこの誰だか知らないけど、調子に乗りすぎなのよ。くだらないことをベラベラと。じいじやウォルターさんが私を殺させるためにあなた達に手を貸した? そんなのあり得るはずがないじゃない」
「お前……この期に及んでまだ俺たちが嘘をついているって言うのか?」
「えぇ、その通り。そうに決まってる。どうやったかは知らないけど、浄業の玻璃のことを知ったあなた達は、その力を受け付けない手段を手に入れたに違いないわ。だってほら、あなた達の仲間には錬金術師がいるんでしょう? だったらそのくらいのことできても不思議じゃないもの」
「……」
マリナは親しい家族や仲間の裏切りを信じられずにいた。そして残酷な現実から逃避した彼女が辿り着いた都合の良い答えがユリスだ。
錬金術師は世の理を覆す存在。そんな錬金術師を擁する敵なら、浄業の玻璃で嘘を見抜けなかったとしても無理はないと。
だが、現実には錬金術を以てしても瞳力に干渉することはできない。そのことを知っているはずのラフィットはそれ以上マリナの発言を否定しなかった。彼の心の中に、一度は鳴りを潜めた憤怒と憎悪が再び溢れ出していたからだ。
(自分たちの行いを顧みることもせず、傲慢に正しさだけを主張するか)
そうなれば、もう冷静ではいられない。鮮血に染まったアイニスが視界の端に映る。その姿も彼の怒りを助長した。
「お前は……」
「もうあなたの話は聞きたくない。ステラさんとガリアーノさんはあの扉の奥にいるんでしょう?」
二体のグリフォンと灰狼ネブルがマリナの元へと寄り添う。マリナはその頭を撫でながら、洞窟の奥を見据えた。
「みすみす行かせると思うのか?」
「あなたの許可なんていらない。私はふたりを助け出してアンベルスへ帰るだけだもの。それとも、あなたひとりでまだ何かできる気でいるのかしら」
状況は絶望的だ。まともに戦えばネブルだけでも歯が立たないというのに、それに加えて二体のグリフォンが相手では、ラフィットに勝ちの目は皆無と言えるだろう。
「見くびるなよ」
それでもラフィットは引かない。引くわけにはいかない。
だが、彼は捨て鉢になっているわけではない。憤怒に身を焦がされようとも、冷静でいられなくても、今の彼の頭は目的達成のためだけに働いている。
左手に持ったクロードの剣を肩に回し、ラフィットは地に伏せるように低く構えた。
「見くびっているのはどっち?」
マリナは不機嫌そうに一歩下がり、三体の召喚獣を前へ進めた。三対一となったこの状況で負けるわけがない。彼女はそう確信している。それは正しい。だが、そこにはふたつの誤算があった。
(必ずチャンスは来る。ユリスには酷な思いをさせることになるが……)
ひとつ目の誤算は、ラフィットが勝てなくても良いと考えていること。
魂の在り方は私次第で岩に擬態したユリスの元へマリナを誘導できればそれで良い。そうすればユリスが麻酔薬でマリナを完全に無力化することができると。
いくら最強の召喚術師と言えど、眠らされてしまえば何もできない。非力なユリスでもナイフ一本で全てを終わらせられる。
マリナさえ討ち果たすことができれば、残るドーリスも大幅に弱体化する。聖剣ラインディルを手にしたドーリスはマリナの加護が無くとも一騎当千の力を持つが、それでも絶対に勝てない相手ではなくなるのだ。例えラフィット自身の命がここで燃え尽きてしまったとしても、ヴェロニクかクロードか、きっと誰かが目的を達成してくれる。ラフィットはそう信じていた。
「……すぐに終わらせてあげる」
味方がひとり倒れたというのに、まるで衰えないラフィットの闘志にマリナは警戒感を少しだけ強めた。
(向こうに何か策がある……? いえ、考えても仕方ないわね)
圧倒的な戦力の差が生んだ慢心か、プライドを傷つけられた怒りからか、マリナも冷静とは言い難い。そして、彼女は勝負を急いでいた。もうこの場にはいたくないと。そして、不愉快なふたりの発言が嘘であることをすぐにでも確かめに行きたいと。
「行きなさい!」
マリナが右手をラフィットに向けると、三体の召喚獣が一斉に飛び掛かった。狭い洞窟内を更に狭くした雲煙の鳥籠の中、逃げる場所などありはしない。喉笛を搔っ切るための鉤爪が、心臓を貫くための嘴が、頭蓋を噛み砕くための牙が、猛烈なスピードでラフィットに迫る。
その中で、ラフィットはマリナを見ていた。三体の召喚獣の僅かな隙間、ユリスが化けた岩との位置関係を確認しながら。
左手に構えた剣はフェイク。彼は右手に装着した義手を外し、それを頭上へ放り投げた。
「摘み取るは泡沫の夢」
「ッ!?」
突如としてラフィットの右腕に出現した剛腕にマリナが驚愕する。
(何あれ!?)
マリナが把握していたラフィットの瞳力は、相手の右腕を奪う虚ろな略奪者のみ。想定外の能力の発動と、現れた右腕の圧倒的な迫力に、勇士としての直感が彼女に告げる。このままではマズイと。
(……ッ! でも!)
回避は間に合わない。いくしかない。
(あれがあいつの奥の手! これさえ凌げば!)
刹那の時、マリナの覚悟に応えるように、二体のグリフォンの鉤爪と嘴がラフィットの命を刈り取ろうとする。
「はあッ!!!」
だがラフィットの方が一瞬速い。グリフォンの攻撃が当たる直前で彼の、否、ウォルターの剛腕がグリフォンの巨躯にめり込んだ。
僅かな抵抗を感じさせたグリフォンの体は、ゴム毬のように弾け、もう一体を巻き込んで血飛沫を上げながら吹き飛んでいく。
「行って!」
だがマリナも怯まない。飛んできた二体のグリフォンを薙ぎ払い、ネブルが突っ込んでくる。ラフィットの体は先の攻撃の反動でぐらついていた。
「グァルルッ!!」
ラフィットはどうにか体を捻って躱そうとしたが、獰猛な牙は彼の左肩を容赦なく抉った。
「やった!」
「ぐぁ……ッ」
余りの苦痛に思わず呻き声を上げるラフィット。マリナは勝利を確信したが、その確信は一瞬で崩れ去る。
「グル、グルルッ!」
左肩に突き刺さったネブルの牙が抜けないのだ。それは俄には信じがたい光景だった。超人と呼ばれたウォルターならまだしも、アンベルスの6人でもないただの戦士に灰狼を抑え込む力などあるはずが無いと。
「そ、そのくらいで!」
牙が駄目なら爪がある。ネブルが完全に無防備になったラフィットの脇腹を引き裂こうとしたその時。
「……な……ッ」
マリナは絶句した。
今まさに敵を仕留めたと思った瞬間、ネブルの腕が突如として地面から現れた巨大な石槍に貫かれたのだ。それはマリナにとってふたつ目の誤算。
そしてその直後、頭上に放られていた鋼鉄の義手がラフィットの右腕に帰ってくる。
「俺たちの勝ちだ」
左肩にはネブルの牙が突き刺さったまま、ラフィットは擲弾発射砲の砲口をマリナへと向けた。




