118話 被験体291号
姿を露にしたマルコの触手。それは赤黒く湿っていて、まるで別の生き物の様に蠢いている。自らの肉体を実験台にした結果、マルコはこの異形を手に入れたのだ。
(あの触手だけは、絶対に食らっちゃだめだ)
飛んでくる矢を容易く弾く速さ。10m以上の距離からアンを捉えたリーチ。マーティンの腕を吹き飛ばし、ウォルターにさえ重いダメージを与えた破壊力。そのどれもが脅威だ。
未だ全貌のはっきりしないマルコの触手。ラフィットとウォルターは慎重に間合いを詰めていく。
だがふたりが仕掛けるより前に、何者かのすすり泣く声が聞こえてきた。
「えぐっ……ひぐっ……」
「この声は……」
マルコと相対した今、視線を逸らすことはできないが、ラフィットたちにとって聞き覚えのある声だった。
「おや。あなた、生きていたのですか」
地面から生えるように、アイニスが姿を現した。ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、マルコに迫っていく。
(ずっとついて来ていたのか)
「主よ……我が主よ! 先ほどのお言葉は何かの間違いでございますよね!? 私めのことを失敗作などと……」
「間違い? 何のことです。被験体291号……294号でしたかな? まぁ、どっちでもいいですね。それより、こちらの4名に対し、あなたたちふたりは敗北したのでしょう? であれば、あなたたちが失敗作であることに何の疑いがあるというのです。真に私の研究が成功していれば、負けるはずなど無いのですから」
マルコはアイニスの名前すら覚えていなかった。彼女の名前は、彼の実験に必要のない情報だったのだろう。
「そ、そんな……私めは……私めは……」
「あぁ、でもそうだ。丁度良いところに来てくれましたね」
「は、はい! 何でしょうか!」
一転笑顔で、アイニスはマルコに体を寄せる。自分を必要とされたことが嬉しかったのだ。
「あなたの右脚を置いていきなさい」
「……え?」
だが、彼女の期待は脆くも崩れ去った。
「あとでアン様を修復する際に使いますので。エルフの肉はまだ使い道がありそうですし、代替品が必要なのですよ」
どこまで行っても、マルコにとってアイニスはただの実験道具。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「どうしました? 早くしなさい。それとも、私の言うことが聞けないと言うのですか?」
「あ……あ、あぁ……」
アイニスは再び涙を溢れさせ、その場にへたり込んでしまった。
「右脚を置いたら、294号と一緒に廃棄場へ行くのです。そのくらいは片足でもできますね?」
「……わかり……ました……」
アイニスは地面の岩を斧状に変化させ、両手でそれを握りしめた。右脚を見つめる瞳には涙が絶えず溢れ続け、その手は震えている。
それでも意を決したように目を瞑り、手にした斧を振りかざす。そしてそれを振り下ろそうとしたその時。
「馬鹿な真似はやめんか!」
ウォルターがアイニスの腕を掴んだ。斧はわずかにアイニスの腿を傷つけたが、彼女の再生力で傷はすぐに塞がった。
「何をするのですか! 離しなさい!」
「やめろと言っている! そんなことをして何になると言うのだ!」
「主は私めに右脚を置いて行けと言ったのです! それで主の役に立てるなら、私めは喜んで従いますとも! あなた様にとっても、アン様の脚を治せるのならその方が好都合でしょうに!」
「喜んで従う、だと……?」
ウォルターの肩は、わなわなと震えていた。
「そんな訳があるか! 慕う者に名前すら呼んでもらえず、道具としてしか扱われていないそなたが! 今も泣いているそなたが! 喜んでいるわけがなかろうッ!!」
ウォルターは一喝すると、アイニスの作り出した石斧をその拳で打ち砕いた。
「な、何てことを……」
その様子を見ていたマルコは首を傾げていた。
「ウォルター様、なぜあなたがその者を庇うのです? あなたにとっても、その被験体など取るに足りない存在でしょうに。お仲間であるアン様の修復より、その被験体の方が大事だとでも言うのですか?」
ウォルターは再び石斧を作り出そうとするアイニスの腕を抑えながら、その問いに答える。
「……わからんだろうよ。理屈でしか物を考えられんそなたにはな」
「ふむ、理屈ではないと。心の問題、ということでしょうか? まったく合理的ではありませんねぇ」
「傷心の女子がいれば庇うのが男の甲斐性。傷つけた相手が人でなしであるなら尚更だ。そなた、頭が良いはずなのにそんなこともわからんのか? それに、ここでこの娘を止めなかったと知られれば、後でアンにどやされるからな。それは勘弁願いたいのだよ。がっはっは!」
「……」
そこで初めて、マルコは苛立った表情を見せた。
「ひッ!」
「!? むんッ!」
そしてアイニスに向かい、無言で攻撃を仕掛けた。それもウォルターが防いだおかげで難を逃れたが、アイニスの顔は恐怖で引きつっていた。
「ご自慢の弁舌はどうした」
「……私、自らを気の長い方とも人格者とも思っておりませんので。えぇ、理解しましたとも。皆様とはやはり、相容れないということを」
「がっはっは! こちらはとうに気づいていたというのに。学者先生は随分と察しが悪いんだな」
言い合うふたりに割って入るように、ラフィットはマルコの斜め後ろからボウガンの矢を放つ。だが、その矢をマルコは触手で掴んでしまった。
「これは……毒ですか。なるほど。これで291号たちを撃退したというわけですね」
「……確かに死角から撃ったはずなんだがな」
「簡単なことですよ。あなた方も見ていたでしょう。私がアン様の肉を食らうところを」
マルコの瞳力は、捕食したものの特性を奪う万物は美食なりて。アンの肉を飲み込んだマルコは、その能力でエルフの鋭い五感を身に付けていた。だからボウガンが矢を引き絞るわずかな音を聞き逃さず、視界の外からの攻撃にも対応できたのだ。
(それにしたって、飛んでくる矢を掴むなんて簡単にできる芸当じゃないんだがな)
「そなたは離れていろ。あやつの本性はもうわかっておろう。もう自分を傷つけるようなことはするんじゃない」
「ウォルター……様」
「ここを出たら、これから先の人生はそなた自身で決めるのだ。良いな」
先のマルコの発言を鑑みれば、アイニスがどういう境遇を経てここにいるのか、想像することは難しくない。どうして狂信的なまでにマルコに入れ込むのかも。
「ここを出たら、ですか。楽観的ですねぇ。あなた方を逃がせばまた邪魔が入るでしょうに、私がそれを許すとでも?」
「お前の方こそ楽観的だな。逃げるだと? 俺たちは、ここでお前を殺す」
「……私に勝てるつもりなのですね。それも良いでしょう」
そう言ったマルコの背中から、またしてもずるりと赤黒い触手が現れる。
(二本目!?)
ラフィットがそう思ったのも束の間。マルコの触手は増殖するように次々に現れ、最終的に9本もの触手が背部で蠢いていた。
「ご注意ください。私は強いですから」




