変身、アルタネイティブ・レッド-01
駅から少しだけ離れた居酒屋の集中する裏通りを、一人の女性が歩いていた。名を近藤美佐子と言い、長い黒髪を下してスーツに身を包んだキャリアウーマンだ。
彼女が夜の居酒屋前を通り過ぎると、キャッチの男性が声をかけてくる。
良い魚が入っただとか、キャンペーンで五パーセントオフだとか。だがそれを無視して、先へと進む。
夜と言う事もあり、多くの看板はライトに包まれながら店名を鮮やかに彩っており、光が夜道を照らしてくれた。
裏通りから更に道を抜け、細い住宅地の密集する通りへと入る。ここまでくれば自宅はすぐそこだ。
美佐子は、保険営業員として働く女性であり、日々売り込みを行う仕事を主としていた。
売上は良く、上司からの人望も厚い。だが仕事以外の趣味は無く、仕事終わりや休日に何もせず、ただぼんやりと過ごすことの無意味さに、どこか飽き飽きしていた。
恋人でも作り、寿退社でも――そう考えはするものの、もう齢は三十を過ぎ、恋人に出来そうな男性も皆無だ。昇進の話もあるし、今はあまり物事を考えず、ただ働く事を全うしよう。
毎日毎日、帰り道に考える事を今日も違わず思考を巡らせていた所で――何時もと違う事が、その日にはあった。
自宅マンションの前に、一人の人物が深くフードをかぶりながら立っていた。体格的に男性、フードの付いた上着の色は黒色で、その全貌は見えなかった。
見た事が無い人だなと。そう楽観的に考えながら、マンションへと入ろうとした、その時。
美佐子の腕がギュッと掴まれて、そのままマンションとマンションの間、誰からも見られる事の無い影へと連れ去られる。
どこか、非日常の感覚がして、思わず美佐子が「キャ」と声を上げたその時だった。
フードの下が、見えた。フードの下は、人間のそれには見えなかった。
赤い瞳、鋭い牙、そして何より甲殻のようにも見えるその荒れた肌を見据え、思わず息を呑んだ美佐子に向けて、思い切り牙をむき出したそれは――ただ口を、閉じた。
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鮭の焼ける匂いが、起きたばかりの体を鼻腔から刺激するようだった。
菜箸を片手にフライパンで鮭の切り身を焼きながら、隣のコンロに火を灯す。
弱火に調整しながら海苔を取り出し、軽くあぶるように火を通す。
鮭も、旨味を引き出す様にじゅわっ――と音を立てながらあぶられていき、菜箸でそれを裏返すと、綺麗に焼き目が付いている事に頷く少年――久野洋平。
洋平は火の元確認をしながら、海苔を炙った火を止めて、キッチンの隅にある炊飯器を確認した。
炊飯器は既に役目を保温へと移しており、開くとモワッと湯気を立たせ、米の炊けたいい香りがした。
再び鮭の元へ。鮭も同じく香りを漂わせながら焼けていく。火を止めて、それを菜箸で摘み上げて、皿へと盛っていくと、その日の朝食は完成した。
洋平は「良し」と頷いて見せた。
耳元まで伸びる少しだけ寝ぐせの付いた短髪と、薄橙色のきめ細やかで綺麗な顔立ちが印象強い少年は、ご飯と味噌汁、そして出来立ての鮭の切り身と軽いサラダ、焼き海苔をお盆に乗せて、それをテーブルに置いた。
「待ってました!」
嬉々とした表情で、顔向きをタブレットから朝食へと移した女性――久野恵梨香は、洋平と同じ端麗な顔立ちをニッと微笑ませて、お箸を手に取った。
「頂きます!」
「召し上がれ。頂きます」
お盆に乗せられた二人分の朝食の内、一人分の朝食を手に取った恵梨香は、起きたばかりの空きっ腹に、まずは味噌汁をすすって、流し込んだ。
「――くあぁ、この時の為に生きてるようなもんよねぇ」
「そこの現代に疲れ切ったオッサン。タブレット」
「ん」
恵梨香から手渡しで受け取ったタブレット端末から、その日のニュースを確認する。新聞は取っていないので、ニュースは全てこのタブレットで確認するようにしている。
「今日は一日中晴れか」
「あ、お姉ちゃんのパンツ全部洗濯機に入れといたから、洗濯しといて。取っちゃダメよ」
「取らねぇよ、汗臭いパンツなんか」
「失礼な。顔写真付きで売りに出せば五万は取れるわよ」
溜息をつきながらタブレットをスリープモードにして、テレビの電源を付けた後に自分も朝食をとる事にする。
まずは姉と同じく味噌汁に口づける。赤みそと白みそのミックス、そして昔から得意な煮干しの出汁に満足しながら、今度は白米を口にする。
モグモグと咀嚼しながら、今度は鮭の切り身に。ぶわっと口の中に広がる旨味と鮭の熱さに少しだけ口を焼きながらも、今日も上手く出来たと自分を納得させる。
「――あら。また婦女暴行事件? 怖いわねぇ世の中」
テレビでナレーターが読み上げる文章には、婦女暴行事件が語られている。
洋平や恵梨香の住む、秋音市を中心とした婦女暴行事件は、ここ最近多く取り上げられている。と言うのも、発生件数が過去最高であるからして、近隣へ注意の意味合いも強いのだろう。
「姉ちゃんも気を付けろよ」
「そうね。私なんか食べられない所なんて無い位、旨味でいっぱいだもんね」
「マグロか」
「ヤダ。お姉ちゃんの事をマグロだなんて……エッチな子に育っちゃって」
「変態」
一言だけ罵倒の言葉を述べて、麦茶をコップに注いだ洋平は、ニュース番組に目を通す。
その事件は異質と言ってもいい。
まず、婦女暴行事件と言われているが、女性には何ら被害と言う被害が無い点だ。
暴行された形跡も無く、財布などの貴重品、および所持品には一切手を付けていないのが特徴である。
ではなぜ婦女暴行事件と呼ばれるか――その名の通り、女性しか狙わない犯行に加えて、被害者の女性が皆、一様に口と心を閉ざしてしまう事が原因と言える。
何もされていない筈なのに、まるで生気を奪われたように心を閉ざす女性達。
警察も自治体も捜査を行っているものの、確たる情報は無く、捜査に進展が無いのも特徴だった。
「こんな時に、ヒーローでも現れればね」
「そうだ、それが良い。ヒーロー……現れてくれれば」
恵梨香の何気ない言葉に、洋平も強く頷いた。
恵梨香はフッと微笑みを見せながら、洋平の頭を撫でると、食べ終えた朝食を胃に流し込むように麦茶を一気飲みして、立ち上がる。
「じゃあ、お仕事行ってきます」
「行ってらっしゃい。ホントに気を付けろよ」
最後に。恵梨香は洋平の頬に軽く口づけをし、満面の笑みを見せながら手を振って、玄関を飛び出していった。
その感触を楽しむ暇もないまま、洋平は自らの食べ終わった朝食の食器を、流し台に置いた後、洗濯機へと向かっていく。
ヒーロー。そう呼ばれる存在に、洋平は憧れを抱いていた。
幼い頃から、戦隊ヒーローや戦うバイク乗りの特撮物、巨人となって戦う特撮も見続けて、常に思ってきた。
――俺もあんな風になりたい。誰かのヒーローになりたい。
そう思って、十五年間生きて来た。
洋平はただ慣れた手つきで、全ての洗濯物を庭に干し終えて、リビングへと向かう。
時刻は既に、朝八時半。今から出れば、学校に間に合う。
制服が乱れていない事を確認して、カバンを掴む。戸締りの確認と火の元栓をしっかりと閉め、最後に玄関の鍵をかけて、学校への道のりを急いだ。