083 荒野の風
:::
二日ほどかけてようやくムナの町に到着した。
草もまばらな荒地の真ん中で、細い川沿いにぽつりと佇む小さな町だった。
とりあえず、いつどこで試験が始まるかはわからないので、三人は急いで宿の手配と食事の確保をした。
きっとまたしばらく結界に閉じ込められることになる。
中にいる間はほとんど時間の経過を感じないが、またゲルメストラのときのように空腹と疲労をまるごと残したままほっぽり出されないとも限らない。
しかし神の結界というのも厄介なもので、これまでのララキたちの経験からすると、中でそれほどあれこれした覚えがないようなときであっても外では平気で一週間くらい経ってしまうようだ。
なので先に食べておいてもあまり意味はないかもしれないが、気持ちの問題としてそうせずにはいられない。それほどまでにゲルメストラの仕打ちが身にしみていたとも言える。
スニエリタにはそのときの記憶はないが、ララキたちが煽るので一生懸命食べている。
元が小食なのでちょっと辛そうだ。
そういうわけでお腹いっぱいになった三人は、来る試練に向けて荒地での練習に繰り出した。
「スニエリタ、せっかくだからウサギ見せてよ。早めに挨拶しとかなきゃ。あたしもプンタン呼ぼうかな」
「あんまり無駄に呼ぶなよ、それだけで消耗するんだから」
「でも次の試験ってやつにも呼べるかもしれないじゃん、呼ぶのも練習だよ」
「なんだそれ。でもまあそうだな、ミー以外はガエムトに会ったとき以来だしたまにはいいか……」
「じゃ、じゃあやってみます……」
スニエリタは緊張したようすでそろそろと紋章を描き、唱える。
「果てなき荒野を駆ける者に問う……その名は繁栄を表わし、その実は白玉の精霊を示す。汝は星に応え、万命の理に従ずる花々の詩によって、ここに顕現するものなり。──素兎"フランジェ"」
紋章は淡い緑色に光った。
そして真っ白なウサギがそこからぴょんと飛び出して、スニエリタの前の地面に降り立つと、きょろきょろとあたりを見回した。ウサギのほうでも呼ばれることに慣れていないのだ。
ララキとミルンもそれぞれの遣獣を呼び出す。
プンタンとアルヌはもちろん元から友好的で明るい性格のため、ウサギを見るなり真っ先に挨拶を交わした。
フランジェと名乗ったウサギは折り目正しくお辞儀をしている。メスらしい柔らかな声で、言葉遣いもかなり丁寧なものだった。
なんかスニエリタと雰囲気が同じだなとララキは思った。
そうなると案の定ミーとフランジェではお辞儀合戦の様相を呈する。
外見、とくにサイズ感はまったく異なる二匹だが、性格は似ているかもしれない。
意外だったのはシェンダルの反応だ。
以前にコミを初めて見たときはメスが増えたとはしゃいでいたので、今回もそうなるだろうと思っていたら、無愛想に挨拶だけしてフランジェから離れた。
かといって興味がないわけではないようで、なぜかミルンの背後からそっとウサギを観察している。
「……どったのあれ? シェンダル、変に大人しいけど」
『ああ、あいつはミルシュコに似てんのさ』
近くにアルヌがいたので聞いてみたところ、イノシシはぶっひっひと笑いながら答えた。
『簡単に言えば照れ屋ってこった。大方フランが好みだったんだろ』
「あー……ついでに趣味まで似てんのね……。
そうだ、ミーちゃんには教えてあげなきゃだった、ミーちゃん! ミーちゃんちょっと! 大ニュース!」
『はい、なんでしょう?』
「じつはねミルンがスニエリタをね……」
『……まあっ!?』
「しかもねスニエリタはね、……だから、……ってあたしは思うわけ」
前にフィナナの訓練場だったかで、ミーが彼の恋愛事情を知りたがっているふうだったのを覚えていたララキは、ここぞとばかりに情報提供に勤しんだ。
やはり恋バナは共有せねばなるまい。なぜならそのほうが楽しいからだ。
どうもこちらの不穏な動きに気づいたらしいミルンがめちゃくちゃ睨んでいるが、それは無視する。
ミーは眼をきらきらさせながらララキの話を聞き、嬉しそうに眼を細めた。
ちなみにララキがお伝えした内容には多分にララキの主観が入り混じっているが、まあ概ね事実ではあるのでいいだろう、細かいことは気にするな。
『よかったです、坊ちゃんにもやっとそういうお相手ができて……。
じつは私、リェーチカさんから、坊ちゃんの周りの女性関係に注意するように言われていたんです。もちろん「いい雰囲気になりそうな女性がいたら取り持て」という意味で。
坊ちゃんったら今の歳まで恋人がひとりもいなくて、このままでは将来どうなるかと私もリェーチカさんも心配で……』
「そっかぁミーちゃんも大変だねえ。っていうか妹にまで心配されてんのかミルン……」
『恥ずかしがり屋というか、奥手なんですよねえ。決して坊ちゃんに魅力がないわけではないと思うんですけど』
そうだね、まあララキにはじゃがいもかとうもろこしにしか見えないけどね。
という心の声は置いておいても、女の子への対応がものすごく雑か妹扱いの二択のようなので、そりゃあ伝わりにくいよなとララキは思う。
いい人には違いないのだけれども、それをちょっとやそっとの付き合いで汲み取れる女の子は少ないだろう。あとまあケチだし。
せめて本人が多少なりと好意を伝えるとかすればいいのだが、それがどうも苦手のようだから尚更だ。
スニエリタへの態度を見ているかぎり、わりと言動に滲んでしまうところはあるので、ある程度時間をかければなんとか相手が察してくれるかもしれない。
しかし同じくスニエリタから察せられるところでは大人しく控えめな女の子が好きらしいので、相手も察したところで行動に移せないタイプなら先に進むことはない。
もっとも、スニエリタに対しては単なる奥手で立ち止まっているわけではなさそうだが。
まあ確かに相手がいいとこのお嬢さまで気後れするのはわかる。
それだけでミルンが元々持っているいろんなコンプレックスを刺激してしまって、なかなか自分の気持ちに素直になれないところもあるのだろう。
どうしたもんかしら、とララキは腕組みしながらミルンとスニエリタがなにやら話しているのを眺めていたが、これといっていい案は思いつかなかった。
でもなあ、けっこういい雰囲気なんだよなあ。
ミルンもやるときはやる、みたいな部分もあるから、下手にララキがちょっかいを出さないほうがいいかもしれない。
それにしてもだんだん羨ましくなってきた。
好きな人とずっと一緒にいられて、いつでも顔を見られて言葉を交わせることが。
ララキなんてそれを実現するために旅をしているのだ。
思えば最後にシッカの顔を見たのはいつだったろう、あれもガエムトに会ったときだっただろうか。
それに声なんてもう何年も聞いていない。
どんなに明るく振舞っても、ふいに寂しくなる瞬間はある。
一度そんな感情が顔を上げると、しばらく無視することもできなくなって、ずっと頭の中がそれでいっぱいになってしまう。
シッカに会いたい、なんでもいいから話をしたい、名前を呼んでほしい、頭を撫でてほしい、手を握りたい。
人の心配をしている場合ではなかった。一刻も早く旅の目的を叶えるためにはララキも前に進み続けなければならないのだ、こうしてはいられない。
その日の午後、急にもくもくと練習に打ち込み始めたララキを見て、ミルンたちは不思議がっていたらしかった。
らしかった、というのはララキは集中していてよく知らなかったからだ。あとからプンタンに聞いた。
・・・・・*
ムナの町に着いて一日目は何事もなく終わった。
翌日の朝、ミルンはララキに何か夢を見なかったかと尋ねていたが、ララキは首を振って否定した。彼女はたまに夢で何かしらの情報を得ることがあるらしい。
また一日練習なのかな、とスニエリタは思ったが、ミルンは近場の遺跡を見にいこうと言い出した。
シレベニの図書館で予め調べておいたようで、この町から少し離れたところに古い寺院跡があるそうなのだ。
そこに祀られていたのはフォレンケではなく、かといって今回試験を行うとされている神とも違うらしい。そもそも試験を行うのは忌神なので目に見える場所にはそういう施設が造られないそうだ。
ともかく三人は徒歩でその寺院跡を目指した。今日は日差しが強いので、布を頭に軽く被せて歩く。
スニエリタの息がちょっと上がってきたころ、それらしい場所に辿り着いた。
隣を見るとミルンもララキも平気そうな顔をしているので、自分だけこんなに体力がないのは情けない、とスニエリタは思った。ふたりの迷惑にならないように身体を鍛えなくては。
ともかく寺院跡は、跡というだけあってほとんど土台しか残っていないようだった。
周りをぐるりと囲んでいたであろう塀も、その中の建物も、そのほとんどがまともな形を保っていない。
風雨にさらされただけではここまでならないと思うので、きっと人間の手で壊されたのだろう。
神を祀った建物に手をつけるなんて罰当たりだが、それが当たり前のように行われていた時代もあるにはある。昔この大陸ではあらゆる場所で戦争が行われていたそうだから。
となると相当古い建物なのだろう。
ここにいたという神は、もう消えてしまったのだろうか。
「あ、見て見て。壁のとこ、古いわりに紋章みたいなのがあるよ」
「にしちゃ、えらい簡素だな。紋唱術の黎明期ぐらいのもんかも知れない」
「今からすると貴重ですね……。ところでミルンさん、こちらは、何という神が御座したのですか?」
「オーファトって武芸の神だ。ここいらは製鉄も盛んだったしな」
「ここずいぶんぼろぼろだけど、そのオーファトってのはまだ大陸にいるんだよね? ちょっと呼んでみようかな」
「そりゃここは廃寺だから瓦礫しかねーけど、もうちょい西に行けば跡じゃないちゃんとした寺があるぞ」
じゃあ今はやめたほうがいいかな、とララキ。
とりあえず瓦礫と土台の中を、出っ張ったところに脚を引っ掛けたりして転ばないように、気をつけながら見て回る。
永い間放置されているせいか、荒地の中でも内部には草が茂っていた。
自然とスニエリタが最後尾になる。
足元に注意を払いながら一生懸命ついていこうとしていたら、ふいに目の前のララキが立ち止まったので、その背中にぶつかってしまった。すぐにララキが振り向いて、ごめんごめんと謝ってくる。
彼女の肩越しに、人影が見えた。
恐らく寺院が健在だったころ、建物の中心を支えた大黒柱だったのだろう、ひときわ太くて大きな柱が唯一といっていいほどきれいに残っている。
そのいちばん上に誰かが座っていた。ふつうの人なら絶対に届かない場所だが、鳥などの遣獣を持つ紋唱術師なら可能だろうか。
その人影を見て、ミルンとララキは同時に言った。──カイさん?
誰だろう、スニエリタが知らない人だ。
三人の姿に気づいたらしいその人は、なんと何の術も遣獣も使わずに、見事な動きでそのまま下へと降りてきた。
ミルンのよりも少し色の明るい銀の長髪を、ゆるく編んで肩口に垂らした男の人だ。なんとなく服装や顔立ちからハーシ人のように思う。
背が高く、歳も自分たちより十は上だろうか、彼はゆったりとした足取りでこちらに向かってくる。
身体じゅうから自信が漲っているようだとスニエリタは感じた。
「よ。面白いとこで会ったな」
「ほんとだね! で、カイさんはあんなとこで何してたの?」
「見晴らしがいいんでな。ヴレンデールが端から端まで見えそうだった。ま、だからって大して面白くもないけどよ」
「またそういうこと言うー」
カイさんという人はからからと笑い、それからスニエリタを見ておやっという顔をした。
「どうしたスニエリタ、随分雰囲気変わったな」
「あ、あの……」
「ほらさあ、旅してればいろいろあるんだよね、とくに女の子には。ねースニエリタ」
「ははあ。ふーん、ほうほう、……へえ?」
「なんで俺のほう見るんすか、何想像してるか知らないけど違いますから!」
スニエリタはおろおろしていたが、ララキのふわっとしたフォローにカイさんはそれ以上突っ込まなかった。
どうやら操られていたころに面識のあった人らしい。
いろいろある、で済まされていいのかわからなかったが、聞かれないのなら無理に言う必要もないだろうか。ララキの背後でそっと息を吐いた。
これからもこういうことがあるかもしれない。スニエリタとしてはできれば思い出したいのだが、それは無理なのだろうか。
またララキに頼んで神に相談してもらおうか。
そんなことで軽がるしく神を呼ぶなと言われるだろうか。
でも、きっとこの問題は人間の医者にはどうすることもできないだろう。
「ところでミルン、おまえハーシに戻る予定あるか?」
「考えてないっす。ハーシ自体には戻っても、たぶん里のほうには行かないかな」
「親御さん寂しがってんぞー」
「そりゃカイさんには言われたくないですって……それとももう旅、ここで止めるんすか?」
「いや。まだやることがあるんでな」
カイさんはそこでどこか遠くを見つめるような瞳をした。地平線よりももっとずっと遠い場所を、見えないと知っていて眼を凝らしているような、そんな眼だった。
この人にも何か旅をする特別な理由があるのかもしれない。ララキやミルンのような、壮大な目標が。
いや、そもそも大した理由もないのにふらふらしているのなんてスニエリタくらいなのかもしれない。
とにかくふたりについていきたい一心でここまで来たが、今後、彼らの旅が困難になっていくのなら、スニエリタはどこかで離脱しなくてはならないのだろうか。
それを思うと、寂しいし悲しい。
いつかは家に戻りたいと思いながらも、なんだかんだで今の毎日が楽しくて、ずっとこのままふたりと旅をしていたいとも思ってしまう。
せめて旅の終わりまで一緒にいられたらいいのに。
そのためには強くならなくてはいけない。
でも、足手まといにならないくらい強くなったら、そのときこそミルンは満足してスニエリタを帰らせてしまうだろうか。
荒野を風が吹き抜けて、そのままスニエリタの心に吹き込んでくるようだった。
→