076 ウサギは外に出た
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三人がふたたび顔を合わせたのはその日の夕方になってからだった。
いちばん拘束時間の短かったスニエリタが最初に宿に戻り、次にララキが帰ってきて、今日もミルンが一番遅かった。といってもミルンも今日ばかりはちゃんとした合法的な仕事である。
適当な店で夕食を摂りながら互いを労う。さすがに一日肉体労働に勤しんだあとともなれば、冷たいお茶が五臓六腑に染み渡るようだ。
気になるのはスニエリタの表情が芳しくないことだった。
慣れないことをして気疲れしたのか、それともこちらの嫌な予感が当たってしまったのか、ミルンは測りかねていた。
どう声をかけたらいいものか悩み、とりあえずララキに任せてようすを見ることにする。
「スニエリタ、どうだった? あたしの担当したとこイベント会場から遠かったから、お客さんが歩いてるのしか見なかったけど、けっこう賑わってたみたいだね」
「ええ、思った以上に大変なお仕事でした……わたし、今まで生きてきて、今日がいちばんたくさんの人とお話したんじゃないかと……」
「そっかー。ちなみにどういう仕事? 売り子さんなんだよね」
「えっ、と……紋唱術を習っていない人でも、お水をお湯にできる道具の、実演販売です……」
「そんなのあるんだ、お風呂のときとか便利そう」
そうですね、と笑って答えるスニエリタの、笑顔がどことなくひきつっている。
「あの、おふたりは明日、どうされるんですか?」
「あたしは清掃の人手足りてないみたいだからもう一日頼まれちゃった。やっぱりイベントで人がたくさん出入りするからさ、ゴミのポイ捨てとかひどくて……スニエリタの売り子さん姿見てみたいけど、明後日の楽しみにしとこ」
「えっ、あ……そ、そうですか……」
「ミルンはどうすんの?」
「……情報集めでもするかな。シレベニの図書館は大陸最古とも言われるし、そろそろ今後の行き先を考えないと」
その予定は、確かにもともと考えていたことだった。
いつまでもこの街に滞在してはいられない。ほんとうなら、どんどん新しい地域へ出向いていって、少しでも多く神の試験をこなしていかなくてはらないのだ。
それに一箇所に長く居すぎると、スニエリタの追っ手に探知されやすくなる。
敢えて逃げ回ろうとしたくはないが、かといってまだスニエリタを家に帰すには早すぎる。
やっと少し前向きに考えるようになってきたというのに、今の状態でマヌルドに連れ戻されたら、すぐに元の木阿弥になるのは目に見えている。
中途半端なところで彼女を手放したら絶対に後悔する。最低限、もう大丈夫だろうと思えるところまでは見ていてやりたい。
……それ以上の意識を抱くことは、考えないようにしている。
あくまで旅の伴として誠意ある付き合いをするだけ、ミルンの自己満足のために彼女を指導するだけ、彼女に見返りなんて求めてはいけないし、個人的な感情を晒すのも極力避けたい。結果が見えているから、負け戦はしたくない。
皮肉なものだ。スニエリタには「やる前から失敗する未来を想像するな」と口をすっぱくして言い聞かせているミルン自身が、どうせ結実を望めないからと、芽に水をやることをはじめから諦めているのだから。
だが、これは紋唱術とは違う。絶対に自分の思いどおりにはならない。
もし、達せられる日が来るとしたならば、それこそミルンが神の紋唱を手に入れて、世の中の不条理を変えたときだけだろう。
だからどのみち、ミルンができるのはひとつだけ。
ただ旅を続けていくこと。どれだけ時間がかかろうとも、アンハナケウに到達すること。
たとえそのときにはもう、スニエリタが実家に帰っていて、他の男の腕に抱かれていたとしても仕方がない。
正直ミルンとしても、そんなことを考えるのは極めて不快だ。
思えば故郷にいたころ、隣村の娘に初恋らしいものをしたときも、毎日もやもやと思い悩んで煩わしいばかりだった。
ちなみにその娘とは別に何かしらの関係を築くこともなく、もしかしたら今ごろ結婚しているかもしれない。田舎なので充分ありうる。
たぶん自分は世間でいうところの奥手なのだろう。
こういうものに向いていないし、女の扱いが雑すぎると妹にもララキにも言われたくらいだ。生まれ持った性なのだからもうどうしようもない。
とか、どうとか考えながら寝たもので、その夜も寝つきはあまりよくなかった。
だいたい同年代の女子と同じ部屋で間に仕切りの類すらない環境で何も考えずに大人しく寝られる男がいるなら面を拝みたい。
無防備にもほどがあるだろう。せめて衝立を置け。
昨日はふらふらで帰ってきて倒れるようにして寝たからよかったが、今日に至っては「今からお風呂使うから覗かないでね」の一言で入浴中室内にいても放置されていたありさまで、湯上りの上気した顔で「おやすみなさい」と言われたこっちの気持ちも少しは考えてほしい。
──とくにララキ、おまえ、人に向かって女の扱いが雑だとか言えた立場か。
そっくりそのまま返す。おまえの男の扱いもたいがい雑だし、そもそも俺を男と思ってすらいねえだろ。
まあ俺もおまえを女と思ってないようなもんだけど!
しばらく女子の寝ているほうに背中を向けて耐えていたミルンだったが、途中で我慢の限界を向かえて起き上がり、とりあえず衝立を取りに行った。
せめて壁をくれ。直接寝息が聞こえるのはまずい。
予め寝台同士の間を極限まで空けていたので、衝立を置く空間は充分にある。
変にどちらかに寄せるのもどうかと思い、とりあえず真ん中あたりでいいか、と適当なところに設置。
これでどうにか寝られるかなと安堵したのも束の間、止せばよかったのについスニエリタのほうを見てしまった。
ララキに身を寄せて眠っている、まだあどけなさの残る白い顔。
やめようと思っても、自然と足がそちらに向く。
何度か寝顔を拝む機会はあったが、昼の明るいさなかでまどろんでいたり、あるいは"死んで"いて祭壇に寝かされていたようなときだったので、こんな薄暗い夜に見たのは初めてかもしれない。
本来なら光が一切差し込まない暗闇のはずのこの部屋は、光源となる紋章が天井に刻まれていて、夜間も薄ぼんやりと室内が照らされている。
美人だよな、と思う。初めて会ったときからそれは思っている。
単純に顔立ちが整っているという意味だけで思っていたつもりだったのに、今や私情が入り込んで、かわいいよな、と思ってしまっている。
ほんとうなら出逢うことさえなかった人で、こんな感情を抱くことすらなかったのに。
触りたくないと言えば嘘になる。いつかのように髪を撫でたいし、他のところも、……ただそれを言葉にして考えてしまうと、歯止めが利かなくなる。
こっちは男だ。十代の若い男が、気になる女を前にして考えることなんてそう多くはないし、結局最後に望むことはひとつしかない。
やっぱりだめだとかぶりを振って自分の寝台に戻ろうとした。そのとき、スニエリタのくちびるが眼に映った。
……やはり止せばよかった。
初めから見なければよかったのに、見てしまったせいで、今さら思い出してしまった。フォレンケの神殿で"死んだ"スニエリタを蘇生させるためにしたことを。
そのときはほとんど意識していなかったとはいえ、そして一般的な救命方法に従っただけとはいえ、胸元をさんざん触った挙句、くちびるを重ねたのだ。
思い出したとたん顔がかっと熱くなった。いや、残念ながら、顔だけでは済まなかった。
仕方がないので、結局その晩ミルンは一度は外に出なければならなかった。
勘違いしないでほしいが、簡潔に言うと、この部屋には風呂はあってもトイレはなかったからである。宿の共用便所は廊下の先にあった。
翌朝、スニエリタはイベント会場で売り子をしに、ララキは路上へ清掃をしに出かけて行った。
それらを見送ってからミルンは宣言どおり図書館に行く。
予定は一部修正することはあっても、大幅に変更するつもりはない。
シレベニ図書館は階層でいうと二階にあった。大量の書物を上の階層に収容するのは建築的には大丈夫なのだろうかと思ったが、街の中の各所に補強のための紋章が刻まれているので、たぶんよほど崩れたりすることはないのだろう。
シレベニは思っていた以上に紋唱術を駆使した街だった。
そのぶん維持と管理も大変そうだと、紋章と同じくらいあちこちで見かける整備員の姿を見て思う。
認定証と登録票を提示して入館許可を得たミルンは、まず神学関係の棚へ向かった。
近隣の神を洗いざらい調べておくのだ。それから歴史関係の書物にも眼を通し、宗教施設の確認をしてから、地理も調べておく。
どこへ向かうにも移動に時間がかかるのだから、できるだけ効率のいい経路を考えなくては。
粗方知りたい情報を押さえられたところで図書館を出る。
ほんとうなら、このあとは訓練場に行くか、あるいはこっそり地下クラブを覗きに行くつもりだった。
ヴレンデールでは賭博自体は違法ではない。公的に認められた賭け試合の場も存在する。
だが、それでも地下に違法クラブが造られるからには理由がある。
公式試合より緩いルールによる、ほとんど無法地帯といったほうがいいような試合運営であり、より過激で激しい試合が見られること。
賭けられる金額に上限が設けられていないため、より大きな額の金が動くこと。
そして何より、公式の賭け試合に参加するにはそれなりの手続きと煩雑な登録が必要となるが、地下クラブなら身元のはっきりしない怪しい人間でも簡単に出場ができること。
はっきり言って、シレベニはフィナナより治安が悪い。貧民街にはどこから流れてきたかわからない連中がたむろし、物乞いなんかかわいいほうで、ミルンも先日歩いてみただけで簡単に強盗の類に遭遇した。
周りが荒地だけに貧困層の暮らしもより辛いのだろうとは察していたが、内情は思ったよりひどかった。
岩積都市の構造を安全に保つため、貧民街から都市へ人間が流入しないようにさまざまな措置が取られていて、その中でわずかに零れ出た恩恵を大勢の貧民が奪いあうようにして啜っている。
とてもじゃないがララキやスニエリタを連れて歩くのは無理だった。スニエリタなんて何をされるかわかったものではないが、彼女に自衛をする力がほとんどない以上、ミルンだけで守りきるのは難しい。
だからもう一度あのクラブに行くときはひとりで行動できる日だけで、それは実質今日しかなかったのだ。
だが先日で充分稼げたし、荒っぽすぎてそれなりの怪我もさせられたし、今日はもっと重要な用事ができたので、そちらには行かない。
ミルンは歩き出した。二階層を降りずに、そのまま大きな通りを歩いていく。
なぜなら今日、この階の中央広場とその周辺の地区で、かの商業イベントの二日目が開催されているのだ。
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