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幸福の国の獣たち  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
西の国 ヴレンデール
52/217

052 おもかげ温(ぬく)し、骸は冷たし

:::


 ララキがワシ相手に立ち回っていたころ、ミルンはイタチを悪戦苦闘しつつも倒していた。


 イタチ自体がそこまで強敵だったわけではないが、雷属性を持っていて水系の技が通じにくかったのと、的が小さくて素早いせいでなかなか当てることができなかったのだ。

 しかも最近どころか昨日加わったばかりの新顔を模していたので、動きの癖などをよく知らない。それで思いのほか時間がかかってしまった。


 ともかくイタチが消滅したのをやっと確認できたので、ミルンは次の化けものを探そうと振り返った。

 何匹かはララキたちが引き受けてくれたようだが、あと何匹残っているだろうか、恐らくもっとも難易度の高いワシは自分が担当しようと思いながら。


 だが、ミルンの背後にはすでに、それが立っていた。


 クマだ。体格も歩きかたもミーをそっくり真似て、ぼろぼろの身体でミルンに迫ろうとしている、できればいちばん戦いたくない相手だった。

 空ろになった眼窩から涙のように血を垂らして、そいつはミルンの前に立ちふさがる。


 違う、と吐き捨てるように考える。

 こいつはミーじゃない。ミーであるわけがない。


「忌女神とやらの性格の悪さだけはよーくわかる試験だな……」


 すばやく描紋し、放つ。


瀑戟(ばくげき)の紋!」


 紋章から打ち出された水流の矛が、まっすぐクマを貫いてから炸裂する。いわば流閃の紋の上位互換にあたる術だ。


 ミーは炎の属性を持つため、水の術に弱い。それを模した怪物なら効果があるはずだ。

 想定としてはクマの身体が粉みじんに吹き飛んで、そこへあと二、三発叩き込めば終わる。


 だが、思ったより威力が出なかった。クマはその一瞬動きを止め、身体を大きく震わせたあと大量の血を吹き上げたが、それだけだった。

 本来ならもっと激しく肉体が損傷するはずだったのに、四肢のひとつも失うことなくクマの歩みは再開した。


 さすがにミルンも狼狽した。

 フィナナの訓練場で兄に言われた言葉が脳裏にちらつく──"無意識に威力を抑えている"。


 まさか、今も。

 いやそうとしか思えない。

 属性的な相性が悪いわけではなさそうだし、着弾時の手応えはあったのだ、そのあとで術がミルンの制御を外れてしまったとしか考えられない。


 困惑が生んだ一瞬の隙を、クマは容赦ない一撃で知らせる。

 ミルンは思いきり張り飛ばされ、煉瓦敷きの広場の地べたを、なす術もなく惨めに転がった。


 すぐ起き上がるが、鼻に焼けるような痛みが走る。血の臭いもした。


 クマはゆっくりと歩いてくる。

 走ってはこないのが、まるで嗤われているように思えた。

 まともに攻撃できないのだろう、と。……それがミーの形をしているから。


 ミーとは、故郷の森で出逢った。

 出逢ったというよりは出くわした。兄ロディルに連れられて、紋唱術を教えてもらうのに人里では周りに迷惑がかかるからと、敢えて森の奥の、普段は行かないような深いところへ入ったのだ。

 冬の初めの寒くなりはじめた時分だった。


 たまたまミルンが放った術が、冬眠していたミーの穴ぐらを壊してしまった。

 大切な眠りを阻害されて怒ったクマに、ロディルとミルンは半日近く追い掛け回され、最後はロディルがミルンを庇って怪我をしてしまった。

 あのロディルも当時は紋唱術を使いこなせてはおらず、幼い弟を守りながら戦うには力不足だったのだ。


 ミルンは必死に、とにかく兄を死なせまいとがむしゃらにクマと戦った。

 倒せるような力はなかったので、彼女の動きを止めるので精一杯だったが、それを見た兄が契約するように言ったのだ。


 言われるがまま契約の紋唱を行うと、クマは意外にすんなりと受け入れてくれた。


 ──あなたには優しさと強さがある。お兄さまを守ろうと必死になっている姿に、それを感じました。


 彼女は、契約を決めた理由をそのように語った。

 それからミーはずっとミルンの頼れる仲間で、大事な友で、ときには母親の代わりすら務めてくれた。

 ミルンの母は族長である夫に従ってしばしば里を離れなくてはならなかったので、子どもたちだけの寂しい夜はミーが温めてくれたのだ。


「……確かにな、ミーには攻撃できねえわ」


 自嘲気味に呟いて、ミルンは手を握る。もちろん拳で紋唱は描けない。


 クマが近づいてくるのを、すぐそこまで迫っているのを知りながら、走って逃げることもない。

 むしろ待っている。ぼろぼろの腕がもう一度自分に伸ばされるのを、そのひび割れた爪が届く距離まで近づくのを。


 死んでいるくせに、そいつは呼吸している。荒い吐息には腐臭が混ざり、涎の代わりに粘ついた血が顎の端から滴り落ちる。


 ミーもいつかはこんな姿になって死ぬんだろうか。きっとミルンは戦い続ける人生を選ぶから、彼女も一緒に戦って、戦い抜いて、最後は傷だらけになって死ぬだろう。

 そのときは、ミルンも一緒に死ぬのだと思う。


「でも……」


 ついに目の前に立ったクマが、その腕を大きく振りかぶった。


「てめえは、やっぱどう見たってミーじゃねえよ!」


 ミルンが握りしめていた拳は、そのままクマの胸元へ突き出され、腐ってぼろぼろの皮と肉を突き破った。


 思わぬ反撃にクマの怪物は声にならない咆哮を上げる。これが実際に生きているほんもののクマなら大したダメージにはならなかっただろうが、しょせんは朽ちかけの動く死骸に、ミルンの怒りを受け止めきれるはずもない。


 腹が立っていた。

 人の相棒を、外見だけとはいえ勝手に借りて、挙句にこんな無残な姿にして差し向けてきた忌神に。

 そして、上っ面を似せただけの怪物を相手に、攻撃できなかった自分にも。


 クマの横っ腹を思いきり蹴り飛ばして、その勢いで腕を引き抜くと、描く。

 ほとんど考えもせずに選んだその術は、初めてミーと対峙したあのときに描いたものと同じ紋章だった。


 あの日のことを思い出すと今でもぞっとする。ほんとうに一歩間違えば自分も兄も死んでいた。それくらい野生のミーは恐ろしかったのだ。

 身体は大きいし力も強い、それなのに素早くて身軽で、おまけにめちゃくちゃ鼻も利く。

 地上でクマより危険な獣なんて他にいないだろうと思う。だからこそ、仲間になるとどれほど心強いか。


 それに比べたらこんな偽者、とっとと唾吐いて忘れてしまえ。


水鏡(すいきょう)の紋!」


 地面から垂直に伸びた水の壁がクマを阻む。そこへ畳みかけるように次の術。


龍濫(りゅうらん)の紋!」


 何本もの水流があらゆる角度から放出され、身動きのとれないクマへと弾丸のように降り注ぐ。

 その身体をめちゃくちゃに叩きのめして、毛皮を引き裂き、肉を潰し、もはや獣の形すら留めなくなっていく。


 もう完全にミーには見えない姿にまで落ちぶれた、かつてクマに似ていたそれへ、とどめの一撃が放たれる。


「……流閃の紋ッ!」


 激流の槍は、いっそ見慣れた以上の破壊力でもって、完膚なきまでにその亡骸を葬った。


 骨まで粉々に砕けたあと、それの残骸は薄黒い灰と化した。そして風に吹かれるまま消えていく。

 その最後の一粒がなくなるまで、ミルンは無言で見送った。


 広場の入り口あたりから声がする。見ると、ララキたちが手を振っている。


 全員ぼろぼろだった。ミルンもようやく鼻血を拭っって、それからふたりの元へ歩き出した。


 新しい獣が出てくるようすはなく、どうやらこれで試験とやらは終わったらしい、と安堵の溜息が出る。

 念のためふたりにも確認をとったが、出現していた獣はすべて倒したようだ。


 しかもワシと戦ったのはララキだというので驚いた。スニエリタも手助けしたそうだが、それでもあの大敵とやりあうなんて、出逢ったばかりのころを思うとすごい進歩だと思う。

 まあ当の本人は「あたしは強い遣獣持ってなくてよかった、って初めて思ったよ」などと呑気なことをぬかしていたが。


 ともかく三人で互いに回復紋唱をかけあったりして一息ついたところで、ミルンの背後で強い風が吹いた。

 なにごとかと慌てて振り返ると、小さな竜巻が砂を巻き上げながらこちらに近づいてくるのが見えた。

 敵かと思って身構えるミルンとスニエリタに、大丈夫、とララキが言う。


 やがて竜巻は止まり、消えた。その中に何かがいる。


 金の毛並みを持つオオヤマネコと、妙に顔だけが白い、おかしな獣だ。頭に何か被っている。

 鈍色の斑点を散らした黒い身体は、恐らくハイエナだと思われるが、……なぜか他の獣の頭骨を仮面のように装着している。


 フォレンケ、とララキが呟いた。


 たしかにその名の神はヤマネコの姿をしていると、ルーダン寺院の修行僧が言っていた気がする。では、その隣の骨を被ったハイエナは。


『……面白くないわ』


 恐らく忌女神サイナであろうハイエナは、消え入りそうなほど細い声でそう言った。


『ひとりくらい死んでくれたっていいのに』

『ちょっとサイナ、それはクシエリスルでは禁句だよ。


 えーっと……ララキ以外は初めましてだね。ボクはクシエリスルの神、"荒山(こうざん)の守護者"フォレンケだ。そして隣の彼女が忌女神のサイナ。このたびの試験の主催者だ』

『……』

『あー……サイナに代わりましてボクから一言、みなさん試験突破おめでとうございまーす』


 機嫌が悪いらしい忌女神はむっつり黙り込み、かわりにフォレンケがよく喋る。


 これまで神の降臨というとシッカとゲルメストラくらいしか見たことがなかったミルンには不思議な光景だった。

 シッカはもちろん一言も喋ったことがないし、ゲルメストラも独り言のように一言ふた言話しただけだったので、なんとなく神とはそういうものだと思っていた。なのでサイナの態度のほうがまだわかる。


 フォレンケだ。こんなに世俗的な口調でべらべら喋る神がいていいのか。

 しかもルーダン寺院にあった神像のような男らしさや逞しさが微塵も感じられない高音で、かろうじてオスではあるようだがほぼ子どもの声ではないか。


 思わずララキに聞いてしまった。おい、あれがフォレンケなのか、と。

 ララキは頷き、なんかかわいいよね、と答えた。


 ……かわいくていいのか、神。


『さて、約束どおりきみたちをガエムトに会わせよう。ただその前にいくつか準備してもらうことが……』

『フォレンケ』

『なんだい』

『私、あの方には会いたくない』


 言うが早いか、サイナは煙のようにすっと消えてしまった。

 フォレンケはそれを見て眼をぱちくりさせたあと、大きな溜息をひとつ吐いてから、苦笑いした。つられてミルンたちも苦笑してしまう。


『……もー、忌神ってほんと自分勝手なんだから』


 フォレンケはそこで尻尾を一回転させた。途端に景色がぐらりと揺れ、足元が沈むような感覚になる。


 気づいたときにはもうそこはアランの街ではなく、どこかの遺跡のような場所に変わっていた。

 日干し煉瓦を積み上げた壁がずっと遠くまで続いている。スール・アランにも似ているが、それよりはるかに規模の大きな建造物だ。


 周りはざらざらした砂礫ばかりの沙漠だった。砂の色がかなり濃く、粒が大きいうえに石も混じっていて、アランからかなり離れた地域であるのは間違いない。

 遺跡もよく見ると大きな岩盤の上に建てられているようだ。

 全体が扁平な形をしている遺跡の、唯一高くなっている部分の先端にフォレンケが立っている。


 ひっきりなしに風が吹く。フォレンケの周りで、渦を巻くようにして。


「ねえフォレンケ、ここにガエムトがいるの?」

『うーん、ちょっと違うよ。でもそのうち()()のは確かだからね。

 とりあえず、さっきも言ったけど準備が要るんだ。まずはきみたちの連れている獣たちを全員呼んでくれる? ララキはヌダ・アフラムシカも呼び出してね。ここは結界だからそれほど消耗はしないよ』


 言われたとおりに紋章を描いた。だが、招言詩を唱えるのにこれほど緊張したのは後にも先にもこのときだけだったと思う。


 ついさっき、遣獣そっくりの死骸に襲われたのだ。そしてそれをこの手で殺した。しかも最初にそれが現れたのは、スニエリタの描いた紋章の中からだった。

 もうそんなことはないと思いながらも、今描いたこの紋章からあのおぞましい怪物が出てくるような気がして、声が震えた。


 まず、アルヌ。次にシェンダル。……最後に、ミー。


 いつもどおりの手応えのあと、いつもどおりの姿で彼らは現れた。

 珍しく三体を一度に呼んだものだから、戦闘中だと思ったらしく、いちいち身構えたり辺りを見回している。そしてフォレンケの姿を見て驚いて背筋の毛を逆立てるのが、なんだか笑えた。


 同時に込み上げるものもあったが、それは飲み込む。それでも少しは顔に出ていたらしい。


『坊ちゃん、どうかしました?』

「……なんでもねえよ」


 相変わらず心配性のミーがこちらを覗き込んでくるのが、今はどうにもくすぐったかった。


『メスが増えている……!』

『シェンダル……おめー案外能天気だよな。メスどころじゃねぇだろ、神がお出ましだぞ、神』

『神とはいってもオスだろう』

「さっき女神いたぞ。すぐ帰ってったけど」

『それは惜しいことをした』


 こちらも相変わらず残念犬公だったので相対的にアルヌがまともに見える。

 そのアルヌがおおっと声を上げたので何かと思いきや、ララキがシッカを呼び出したところだった。

 プンタンは略詩をつけたのですぐ呼び出せるようになったらしいが、シッカは正式な招言詩でなければならないので、どうしても呼ぶのに時間がかかる。


 ミルンとしてはずいぶん久しぶりに見たライオンの神は、沈む間際の夕陽のような光に包まれていた。


 言葉を失い、消滅の恐れがあるほどに弱っているというが、一見そうは思えない。

 少なくともフォレンケよりは圧倒的に貫禄がある。彼自身は一言も発さないのに、その身を覆う黄金色の輝きを見ているだけで、その熱に飲み込まれそうになる。


 自然とその場に膝を衝いていたが、それを当たり前だとさえ思うのだ。悪いがあのヤマネコ相手にはこういう感覚にはならない。


 ちなみにフォレンケはというと、尻尾をぴんと立ててシッカに駆け寄ったうえに「お久しぶりです!」と敬語で挨拶していた。

 同じネコ科の動物を姿に持つ神同士で、ほどほどの体格の差に加えてその態度なので、何かの先輩と後輩のようにしか見えなかった。……クシエリスルの神はすべて同列の扱いだと聞いたことがあるのだが。


 そのあとフォレンケはあたりを見回し、全員が揃ったことを確かめてから、ふたたび遺跡の高台へと戻った。


 ようやくガエムトと対面するのだ。

 なぜそのために遣獣を出す必要があったのか、未だにその説明はなされていなかったが。


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