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幸福の国の獣たち  作者: 空烏 有架(カラクロ/アリカ)
幸福の国 アンハナケウ
201/217

201 アウレアシノンの涙

:::


 雨が降っていた。

 まるで寡婦がすすり泣くような寂しい雨だった。


 女は傘一本を携えて道を歩く。

 従者を連れるような立場にはないし、馬車の類を所有する経済力もないけれど、行き先はそれほど遠くはない。

 ここは外壁にほど近いアウレアシノンの末端だ。


 内壁から遠いほど地価が下がって土地が安く、まして忌みごとなら尚のこと遠ざけられる。

 壁の内に住まう皇族と上流貴族を除き、ここでは誰もが外壁の際にある共同墓地に葬られるしきたりである。


 傘を持つのと逆の手には花束をひとつ。

 白いものだけを重ねて作る、ごく一般的な内容の献花だ。


 彼女が墓地にたどり着いたころ、その中に人影がひとつあった。


 ぐるりと敷地を囲う柵のほかに大きな建造物もないので、入り口からその人の姿はよく見えた。

 こんな雨に墓参りをする人間が自分の他にいたことも驚いたが、よりによって彼が立っている場所に覚えがあって、女は面食らう。


「……どちらさま?」


 傍まで行って話しかけると、人影はゆっくりと振り返った。


 軍服に短く切りそろえた黒髪と、温厚そうな顔立ちが女を見返して、ゆるく笑む。


「ディンラル・ロンショット少佐であります。あなたは確かナジエ中佐の……」

「ええ、娘のウリヴィヤよ、お久しぶり。

 随分立派になられたから、一瞬誰だかわからなかったわ。前にお会いしたときは確か、中尉でいらっしゃったわよね」

「はい。ご無沙汰してます。ウリヴィヤさんも……きれいに、なられました。もう成人されましたか」

「……あら意外、あなたも女を褒めるようになったのね。今年で二十一よ」


 ロンショットは笑って、しばらくヴァルハーレ卿と行動を共にしていたので、彼のが伝染(うつ)ったのかもしれません、と言った。


 その名前にウリヴィヤは曖昧に笑む。

 もう長いこと会っていない恋人の顔が脳裏に浮かんだ。


 いや、恋人だなどと思っていたのはこちらだけで、向こうからすればきっと都合のいい女のひとりにすぎなかった。

 最後に抱かれたのはいつだったろう?

 ウリヴィヤが彼を待っている間、彼は何人の女の元を訪ねただろう。


「しかしこんな雨の日に墓参りですか? それもおひとりで」

「それはあなたも同じでしょう。

 考えることは同じよ。今日はダルタコットの月命日だものね……」


 ウリヴィヤはそう言うと、持ってきた花をロンショットの前にある墓石に供えた。


 純白の花びらの上にも容赦なく雨が降り注ぎ、水滴が石の表面を滑り落ちる。

 頬を伝う涙のように。


 墓石には、ダルタコット・レンネルクの名と生没年が刻まれていた。

 彼はウリヴィヤの従兄で、数ヶ月前に殉死したのだ。

 軍人で、ロンショットの部下だったが、恐らくそのときは別々の任務に就いていたのだろう──軍の事情など知らないが、レンネルクの部隊は全滅だったと聞いている。


 突然の死だった。

 しかもどういう訳か外国に遠征していて、死亡した状況も不可解なものだったらしい。


 軍からはあまり詳しい説明がなかった。

 覚えているのは葬儀のとき、遺体の顔を見せてもらえなかったことだけだ。

 軍人だから戦って死んだのだろうし、それなら遺体の状態もきれいとは言いがたいものだったのだろうが、顔くらいは見たかったとウリヴィヤは思った。


 だから未だに彼が死んだという実感が薄い。

 それで毎月、それを確かめるように花を供えに来ているのだった。


「でも、あなたに会ったのは今日が初めてね、そういえば」

「忙しくてあまり来られなかったんです。葬儀にも出られなくて申し訳なかった……」

「そう」


 白い花の隣には、ロンショットが供えたらしい薄い色の花がある。

 雨に嬲られて萎び始めているそれが何時間前からあるものなのかと、ウリヴィヤは隣に立つ男を眺めた。


 彼も傘を差しているものの、ブーツはすっかり色が変わってしまっている。


 思わずロンショットの腕に手を伸ばした。

 軽く掴んだ袖は、ひやりと冷たい。


「随分冷えているけど、ずっとここに?」

「……恥ずかしながら……何と声をかければいいか、わからないんです。

 あんな形で部下を失ったのは初めてで……それに、どうしてだか、当時のことをうまく思い出せない」


 横顔に傘が影を落として、まるで泣いているように見えた。


「あなたはいい人ね」


 気づけばそう呟いていた。


 ロンショットが少し驚いたような顔をしてウリヴィヤを見る。

 人の好さそうな目尻(まなじり)の下がった眼が、雨のせいか揺れて見えるのを、ウリヴィヤはじっと覗き込んだ。


 そこに映りこんだ自分はちっとも悲しそうに見えない。

 ただ事務的に決まった日付だけここを訪れているけれど、墓石を前に死者と語らおうとしたことは一度もなかった。

 そもそも従兄といっても母方の親族であまり付き合いもなく、ダルタコット自身とも幼いころに遊んだほかは、年中行事で顔を合わせるくらいの関係だった。


「……たまに、他の人がお墓参りに来ているところを見るのだけど」


 供えた花だって、安物だ。


「ヴァルハーレは一度も見かけてないの。あの人だってダルタコットの上官ではあったはずよね」

「大佐は私以上に忙しい方ですから……」

「三ヶ月間、ただの一度も来てないわ。あの人は馬車だって遣獣だって持ってる。

 ねえ、紋唱術師って、遣獣があれば街外れにだってわずかな時間で飛んでこられるんでしょう? それなのに」


 葬儀に来なかったのはヴァルハーレも同じだった。

 彼もやはり任務が重なっていたと聞いている。


 それでもウリヴィヤには彼が冷たく感じられたし、墓地を訪ねるたびに管理人に尋ねては、「そんな人は来ていないよ」と返ってくるのが辛かった。


 いや、ほんとうはそんなこと、どうだっていい。

 ウリヴィヤはどんな理由でも場所でもいいから、もう一度彼に会いたいだけだった。


 従兄が命を落とすよりも少し前からだろうか、彼はウリヴィヤを訪ねてくれなくなった。


 こちらから会いに行ったこともあったが、門扉を守る使用人から冷たい拒絶の言葉を投げられた。

 多忙極まるうえに敵が多い彼は、自宅に身を置くこと自体少なかったし、自分で招いた相手以外は誰も通さないよう徹底させているそうだ。


 たまに耐え切れずに手紙なんて書いてみても、送ったところで返事などくれやしない。

 他の大勢の女の手紙に埋もれて後回しにされているのだろう。

 直接会えば優しい言葉をくれるのに、離れた途端あの男はこちらに無関心になる。


 とにかく会いたい、会って触れ合いたいというウリヴィヤの焦燥は、ここ数日で急激に強くなった。


 風の便りに聞いたのだ。

 ヴァルハーレの婚約解消──永らくウリヴィヤたちの前にそびえていた絶対不倒の壁、スニエリタ・クイネスから言い渡されたらしい。


 将軍の娘というのはかくも自由なものかと愕然とした。

 誰もが欲してたまらなかったそれを、持てる者は簡単に捨てる。

 またいつでも手に入れられるから。


 では独りになったヴァルハーレが戻ってきてくれたかというと、そうではなかった。


「……ワクサレアの王族と婚約するっていう噂は、ほんとうなの?」


 ロンショットの袖を掴んだままだった手が震える。

 その上にもうひとつ、革の感触が重なった。


 軍支給の黒革の手袋はやはり冷たく湿っていて、その中の手もきっと冷え切ってしまっている。

 それでも重なりあうところだけはわずかに温かく思えるのはなぜだろう。


 ウリヴィヤは顔を上げる。


「まだあちらからの返答はないようです。そもそも姫君はまだ十二、三歳だと伺いました。

 ……ですが皇后陛下が間に入っていらっしゃるそうなので、よほどのことがないかぎり断られることはないでしょうね」

「ああ、あちらのご出身だものね。そう……」

「……ウリヴィヤさん」

「憐れまないで。……私みたいな女はアウレアシノンにたくさんいるのよ、いつかこうなることくらいわかってたわ」


 どんな言葉をくれても、最後に彼が選ぶのは彼にとって役立つ女。

 彼の求める地位や権力を与えられる女だ。


 ウリヴィヤのような、家柄がとくに優れているわけでも、父親が将官でもない女が選んでもらえるはずはないのだ。


 わかっていた。

 彼がスニエリタと婚約したと聞いた日、何年も前のあの日からとっくに知っていた。


 それでもウリヴィヤの胸が辛く軋む。

 せめて会いにきてくれたら慰めになったのに、ウリヴィヤはとっくに彼から忘れ去られてしまっているのだ。

 きっと遊び相手の中でも優先度が低かったのだろう。


 こちらがどれだけ尽くしていたかなど、彼は覚えてもいない。

 ウリヴィヤより金のある女ならいくらでもいただろうから。


「ウリヴィヤさん、……帰りましょう。あなたの言うとおりここは冷えますし、雨もひどくなってきた。

 送りますよ」

「ごめんなさい……気を遣わせてしまって」

「さ、墓地の中では遣獣は呼べませんし、入り口まで戻らなくては」


 ロンショットに促されて来た道を戻る。

 雨が強まったようには思えなかったけれど、たぶんロンショットなりの優しさなのだろうから、あえて何も言わないでおいた。


 門は開きっぱなしになっている。

 管理人がいるし、昼間から盗掘するような恥知らずもこの街にはいない。


 その手前まで来たところで、ロンショットが急にぴたりと足を止めたので、ぼんやりと俯いていたウリヴィヤも顔を上げた。


 誰かいる。

 管理人とは別に、その話し相手がいるらしい。


 その人物は軍服を着ていて、ロンショットとウリヴィヤの姿を見とめ、ぱたぱたとこちらに駆けてきた。


「ロンショット少佐殿! よかった、お探ししていたんです。緊急の連絡が」

「どうした?」

「それがその……」


 彼はロンショットの部下らしい。

 ウリヴィヤを見てわずかに言葉を躊躇うような素振りを見せたが、ロンショットが続きを促したので、重く頷いてから静かに続けた。


「ヴァルハーレ大佐が、病院に緊急搬送されました」

「……何だと? 何があった? 大佐は今日、休暇を取られていたはずでは」

「はい。出かけられた先で襲撃を受けたとかで……私も詳しく聞いておりませんが、犯人はすでに送検されたようです。

 クイネス将軍は先に病院に向かわれました。少佐もなるべく早く来るようにとのことです」


 思わぬことにウリヴィヤは声が出なかった。

 ロンショットと彼の部下が話しているのを、どこか遠い世界のことのように聞いていた。


 足元の土が沈んでいくような心地がする。

 あるいは雨が傘を貫いて、ウリヴィヤを頭の芯から冷やしていくかのようだ。

 信じきれぬまま、頭の中で幾つかの言葉が反響している──緊急搬送、襲撃された──いったい、彼に何があったのだ。


「わかった、すぐに向かう。しかしヴァルハーレ卿ほどの方がやられる相手とは……」

「いや、それがその……犯人はご婦人だと」


 息を呑む音がしたのは、果たして自分の喉からだったのだろうか。


 ヴァルハーレが休暇中に出かけた先で、犯人は女。

 それだけ揃えば調べなくとも状況は明らかだ。


 彼のことだから日々の疲れと、そしてスニエリタにふられた屈辱を癒すために、どこかの女を訪ねたのだろう。

 そしてその出迎えた女に襲われたのだ。


 気持ちがわかる、とウリヴィヤは思った。

 自分でも、彼が次に自分を訪ねてきたら殺してやろうと思っていた。

 殺して、自分も一緒に死にたいと。


 彼は軍人でやり手の紋唱術師だ。

 男が正面切って戦って勝てる相手ではないが、女ならできる。


 彼を褥に誘って、煙管の吸い口に毒を塗るでも、心中なら予め自分の口に含んでおいてもいい。

 布団の中に刃物を仕込んだっていい。


 その方法を考えていた。

 もし来たら、きっと実行していた。


 倒れそうになるウリヴィヤをロンショットが慌てて支える。


 彼の胸に縋りつくようにして、ウリヴィヤは涙も流れない顔を、今どんなに醜く歪めていることだろう。

 できるなら誰にも見られたくはない。


「……私はヴァルハーレ卿の病室を訪ねます。あなたはこのモルツェ少尉に送らせましょう」

「は、了解であります。

 失礼ですがご自宅の場所を教えていただけますか?」


 差し出された手を一瞥して、ウリヴィヤは首を振る。


「いいえ、……いいえ、お願い、私も連れて行って」


 浅ましいことに、まだ会いたい気持ちが残っている。

 この際向こうに意識がなくたっていい。


 それにひとりで会いに行く勇気はなかった。

 もし見舞いに行って、そのとき周りに誰もいなかったら、きっとウリヴィヤは彼にとどめを差してしまう。


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