020 すれ違う兄と弟
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これまででいちばんわかりやすいアドバイスだったと思う。
言われてみればララキはできるだけ自分の過去を振り返らないようにしてきた気がする。なかったことにしようとしているわけではないし、事情を知っている相手になら冗談めかして言えるものの、やはり楽しい思い出とは言いがたいからだ。
冷たい石だらけの結界。空はいつも黒っぽい雲が蠢いていて、でも雨が降ったことはない。
誰もいない一人ぼっちの世界。
お腹は減らないし自分も歳をとらないのに、両親の顔が思い出せなくなっていくことで、時間だけはちゃんと経っているのを感じた。疲れないし眠たくもならなかったけれど、何もすることがなくてとりあえず動き回り、飽きては眠り、起きてはまた結界じゅうを歩き回り、また眠る。
それだけの日々を何千回、何万回と繰り返した。
からっぽの毎日。死にたいと思っても死ぬことができない。餓え死ぬことはもちろん、尖った石を見つけて身体を傷つけたことも数知れないが、一瞬の痛みのあとすべてが幻のように消え去るのだ。
泣きたくても涙が出ない。だから、ただ大声で喚いた。
あたしを出して。ここから出して。いつまでこんなのが続くの。出して。出してよ。
──誰かあたしを自由にしてよ!
それが、ララキの故郷だ。
ライレマに会ったヤラムの街もある意味では故郷だが、それより前、それよりずっとずっと長い間、ララキがいたのはあの場所だ。生まれ育った国だったのだ。
「心を帰す、か……あそこに帰るのはちょっとやだなぁ……」
今でも眼を閉じれば鮮明に思い出せる。地面に転がった石の形も、そこに生えていた草木の匂いや雲の影までも、端から端まで覚えている。毎日それだけを見ていたから。
ララキを閉じ込めていた神は、今もあそこにいるのだろうか。
じつのところララキはその神らしい姿を見たことも、声を聞いたこともない。そしてシッカがどのようにその神と対峙したのかも知らない。
ララキが見たのは結界を壊して入ってきた傷だらけのシッカの姿で、だから恐らく激しい戦いがあったのだろうが、そのことを彼が具体的に語ってくれることもなかったのだ。
シッカは結界が二度と機能することがないように徹底的に破壊したと言っていた。だからもう、ララキがあそこに戻ったとしても、ふたたび囚われることはない……。
ララキは深く息を吸い、そして吐き、構えた。指が紋章を描く。
「あたしは自由だ」
ひとりごちる。自分に言い聞かせるために。
結界のことを思い出しても、もうそれを恐れたりする必要はないのだ。自由になった。その自由をくれたシッカが、代わりに責を負って苦しんでいる。それをなんとかするためにこうしてここにいるのだ。
今度はララキがシッカを自由にする番だ。
「──水流の紋!」
紋章が群青色に輝く。今まで描いた紋章のなかでいちばんきれいな光だと思った。
そこから同じ輝きを纏った水が、物語に出てくる龍のように美しく溢れ出る。奔流はまっすぐに流れ、闘技場の向こうでまだ寝息を立てていたカエルに直撃すると、驚く彼をそのまま円を一周してララキの元まで運んできた。
「やった! やったやった!」
『わーっ何なに!? 姉さんがやったの? びーっくりしたァ』
「へへーけっこう良かったでしょ。水の量も、流れの勢いもイメージどおり!」
プンタンはしばらく眼をくりくり回して驚いていたが、ララキの機嫌がいいのに気がつくと、ぴょこんと肩に乗ってきた。
『よーやっと気持ちよく歌えたみたいだな』
「うん、そんな感じ」
あの人にもらったアドバイスがよかったのだろうか。
もっとよくお礼を言えばよかったな、と改めて思うララキだった。せめて名前くらいは聞いておくべきだったかもしれない。
しかし浮かれてばかりもいられない。念のためもう一度同じようにできるかやってみる。
紋章を描いて、招言詩を唱える。同じように紋章が光る。水流も問題なく出たのを確認して、今度こそ安心してガッツポーズを決めた。
が。
「ただいまー、飯買ってき──んぶぁっ!?」
またしても誰かが入ってきたうえ、今度は見事に全水流が直撃した。
今度は確かめなくても声でミルンとわかる。
一滴残らず顔面に食らった彼を見て、さっきのお兄さんはよく対応できたなあと改めて感心するララキだった。
有用なアドバイスといい、きっとかなりの使い手に違いない。
というかこの訓練場の作りも悪いと思う。円が壁ぎりぎりで、結界があるとはいえ一歩でも中に入れば問答無用で術に巻き込まれる仕様なのだ。
せめて扉を開けるだけの空間くらいは円の外になるようにすればいいものを。
ミルンはびしょびしょになったまましばらく立ち尽くしていた。肩が震えているが、冷えてしまったのだろうか。
「だ、大丈夫?」
「……上達したじゃねえかよ……それより、俺はともかく、今ので昼飯が全滅した……」
「えーっ!?」
よりによってミルンが買ってきたのはサンドイッチだった。
いやサンドイッチでなくてもあれだけの水流を浴びればたいていのテイクアウト食品はダメになるとは思うが、とにかくパンが水を吸ってぶよぶよに膨れてしまっていた。
中の具も冷水まみれで美味しさの何割かを失ってしまっている。
しかも悲しいことに、ミルンが言うには焼きたてのできたてを買ってきてくれたらしいのだ。それもすべて台無しになってしまった。
「や……焼こう! 焼いて水分を飛ばして食べよう! ね?」
「そうだな……どうにかして食えるようにはしないとな。ちょっと待ってろ」
ミルンが何やら紋唱を始める。
岩壁の紋、と唱えて小さな岩の四角い壁を床から生やした。壁はふたつで、なんとなく三十センチくらいの間を空けて、平行に並んでいる。
それから更に別の紋章を続ける。見たことのない紋章だったので、なんだろうと眺めていると。
「鋼成の紋。んー……こうか?」
紋章から金属の塊が出てきて、左右に平べったく広がり始めた。
これが四十センチ四方くらいの大きさになるまで広がる間に、表面にいくつも穴があいていく。
穴の形も四角で、端から等間隔に整然と並び、その縁は丸みを帯び……やがて金属の塊は、一枚の網へと姿を変えていた。
それがふたつの岩壁の上にぽとんと落ちる。簡単な調理台の完成だ。
「器用だねえ。あ、火はあたしがやっていい?」
「いいけど焦がすなよ」
「大丈夫! いいアドバイスもらったから、ちゃんとできると思う」
「アドバイス?」
炎の紋唱で火起こしをして、網の上にまず具を並べる。パンは先に少し水を絞ったほうがよさそうだ。
焼きながらさっきのお兄さんの話をした。
たまたま部屋を間違えて入ってきた紋唱術師がいて、ミルンと同じようにララキの術を食らいそうになったが、すばやく対処したこと。その腕を見込んで制御のコツを聞いてみたこと。
そしてアドバイスどおりにしたら上手くいったのだということも。
実際、今もほどよい火加減で肉や野菜を焼いている。
「そりゃ奇特なやつもいたもんだ。急いでなかったのかね」
「ね、親切だよねえ。あ、そういえばその人ね、たぶんミルンと同じでハーシの人だと思うよ」
「なんで?」
「だって眼と髪の色、ミルンと同じだったもん。あと鼻の感じとか? 前から思ってたけど、ミルンて鼻の形変わってるよね。イキエスの人ともワクサレアの人とも違うし、スニエリタとも違うし……」
そこでパンを網に置こうとしていたミルンの手が止まった。
「……そいつの外見、もうちょっと詳しく覚えてないか? 服とか髪型とか」
「えっと、ミルンみたいに長い外套着てた。あと髪はすごい長かったよ。結ったり縛ったりはしてなくて、毛先までまっすぐで……腰のとこくらいまであったかな」
「ジーニャだ」
「え?」
「うちの馬鹿兄貴だよ。絶対そうだ」
言うなりパンを網に叩きつけるように置き、それからなんとも言えない声でミルンは唸った。
うああともぐううとも聞こえる声だったが、とりあえずまともな言葉の形ではない。彼自身何と言えばいいかわからなかったのかもしれない。
ララキはというと、うっそ、と言うしかなかった。
たしかに、ハーシ人で腕のいい紋唱術師という時点でその可能性を考えてもよかったのだ。でも本人を前にしてそんなことはちっとも思わなかった。
なぜかって、少しも似ている気がしなかったから。地下闘技場の参加者が間違えかけたくらい似ていたと聞いていたのに、ララキにはまったくそう思えなかった。
おっとりして優しい雰囲気の人だった。もちろんミルンも案外親切で気のいいやつではあるけれど、見た目にそれが滲み出ているわけではない。
言われてみれば顔の造りも多少は似ていたような気がしてきたが、いや、あの人が兄で、目の前のこれがその弟とは、うーん、ちょっと。
その、目の前のこれことミルンは、ちょっと不機嫌にパンをひっくり返している。意外なことに立ち上がって兄を探しに行こうとはしなかった。
「ねえ、たぶんまだ訓練場のどこかにいると思うけど、行かないの?」
「……ああ。どのみち祭りの日には面を拝めるからな。
今はそれより修練のほうが大事だ。ジーニャの馬鹿に構ってる暇はねえよ。……よし、そろそろ食えるだろ」
ミルンは焼きあがって熱々のパンに具材を挟み直すと、ひとつをララキに渡す。
受け取ったララキは熱さに思わずパンを落っことしそうになりながら、なんとか一口めを頬張った。ざくりとパンの歯ごたえが香ばしい。
苛々しながら焼いていたわりにいい焼き加減だった。こういうとこも制御できてるんだな、とララキは思った。
きちんと制御が出来ていれば手を抜いてもちゃんと発動する、とミルン自身が言っていたが、そのとおりだ。今までもこんな感じで野宿したりしていたのだろう。
兄を探して、ずっと。
「あのさ、ミルン。お兄さんが言ってたんだけど」
「なんだ」
「紋唱のときは故郷のことを思い出してるって……自然がたくさんあって、それがお兄さんにとっていちばん安心できる風景、みたいなこと言ってたよ」
「……そうかよ」
その先は言えなかったけれど、言わなくてもミルンもわかっていたかもしれない。
──心を故郷に帰すつもりで紋唱を行う。この行為には国境は関係がないからね──そう言う彼の表情はとても穏やかだった。
どうして帰らないのかはわからないけれど、少なくとも彼は故郷を捨てたわけではなさそうだった。もちろん、だからといって、ミルンや他の水ハーシ族の人たちが納得するわけではないだろう。
でも、彼の兄ロディルは、辛そうにはしていなかった。むしろ、温かい感じだった。
また会いたいな、と思う。
次があるとしたら大祭ルーディーニ・ワクサルスの日だ、きっとミルンは穏やかではないだろうけれど、なんとかして彼の協力を仰ぎたい。
彼がミルンと同じものを目指しているのなら不可能ではないはずだ。
アンハナケウに辿り着く。そんな気の遠くなるような果てしない夢を叶えるためには、たくさんの人の力を借りる必要があるのではないだろうか。
そして、なんとなれば幸福の国のこと。無事辿り着くことができたのなら、すれ違った兄弟も手を取り直して、彼らの故郷が救われる道を見つけ出せるだろう。
みんなでいつまでも仲良く幸せに暮らしました――おとぎ話なら、そんな終わりだ。
そんな未来をイメージして、思いどおりに気持ちよく歌えたなら、どんなにいいだろうか。
ね、と肩口のプンタンに言うと、カエルは返事の代わりにひと鳴きした。
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