183 訃報
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想像を絶する光景が広がっていた。
広く深かった森が無残に切り開かれ、その中心は洗ったように何もなくなっている。
根こそぎ倒された樹々がそこかしこに積み上がり、恐らく戦闘の名残であろう黒い煙がぶすぶすと上がっているが、それ以上燃える気配はない。
その中心部に、こちらに背を向けて佇んでいる男がひとり。
浅黒い肌、鉄錆色の頭髪からは王の証たる額飾りが覗いている。
長い腰布に覆われた足元には大きな黒い染みが広がっていたが、それは燃え尽きた土と、そこに焼けついた誰かの血痕らしかった。
その姿を見て誰よりも早く声を上げたのは、同郷の女神ヴニェク・スーだった。
「アフラムシカ! ドドはどうなった!?」
駆け寄ろうとする女神を、傍らにいた男が抑える。
こちらは北限の神アニェムイ、本来の姿はシロクマであったが、今は体格に優れたハーシ人に身をやつしている。
「安易に近寄ったらダメだ、ヴニェク。ドドはさっきカーイに化けてただろう。
なら、アフラムシカにだって化けられるはずだ」
「……む、そうだな。すまん」
「ヌダ・アフラムシカ殿! 失礼を承知で問うが、貴殿が真にアフラムシカ殿であるとの証明は能うるか否や!?」
刀を構えながら最前列のオーファトが尋ねた。
ここに向かう道中、彼が先陣、その後ろにヴニェクとアニェムイが入り、ルーディーンは殿を務めるということで話がまとまっている。
最後尾のルーディーンはアニェムイの大きな背に庇われている形だ。
アニェムイの太い腕とオーファトの細長い刀、その隙間から前方のようすを伺い見て、ルーディーンの血の気が引いた。
どこにもない。
ドドはもちろん、もうひとり、いるはずの神の姿がそこにはない。
「カーイは……カーイはどこですか、アフラムシカ……」
震えた声でそう尋ねると、アフラムシカがゆっくりと振り返った。
深い悲しみを湛えた蒼金色の瞳。
顔には幾筋も血が滴り落ち、身体の前面もそこあった刺青の柄が見えないほど血まみれだった。
表情は落ち着いているが、悲嘆の感情が彼の全身から流れ込んでくるようだ。
そして、そのくちびるが、躊躇いがちに開き、彼はこう告げた。
「……カーシャ・カーイは……もういない。ドドとともに、滅び去ってしまった……」
「な……」
「そして、すまない。私が私であることを証明するものなどない……だが、ドドが滅んだという証なら、ここにある」
彼は右手を差し出した。
拳が握られていて、それをゆっくりと解くと、そこに歪な紋章がある。
ドドのものだった。
それがむき出しでここにある。
その場の全員が息を呑み、それがぼろぼろと崩れていくのを、黙って見守った。
ほんの数秒ですべてが風の中へと消えていった。
あとに残ったのは耐え難いほどの沈黙と、耳を切り裂くような風の音だけ。
他には何もない。何の痕跡も、残ってはいないのだ。
信じられなかった。
こんなにもあっさりと、何の別れの言葉もなしに、あの男が姿を消すだなんて、思ってもみなかった。
「ああ……なんて、こった……」
アニェムイが、諦めきれないような声でそう呟いて、あたりを見回す。
ルーディーンはそれを呆然と眺めている。
オーファトが振り向いてアニェムイの肩を叩き、アニェムイが、やがてがっくりと項垂れる。
そのうちヴニェクが飛び出してアフラムシカのところに行った。
彼らが何か話しているのを、ルーディーンはなぜか壁一枚隔てて聞いているような感覚に陥った。
この場の何もかもに現実感がないのだ。
すべてが嘘、造りもの、まやかし──そうであってほしいという心の願いが、ぼろぼろと零れ出している──。
「とにかく戻ろう、アフラムシカ。おまえも無傷ではないのだろう?」
「ああ……」
「すまない、わたしたちがもっと早くに駆けつけていれば、きっとカーイを死なせることもなかっただろうに……いいかアフラムシカ、ひとりで背負おうとするなよ。おまえのせいじゃない」
「……ありがとう、ヴニェク」
あの気性の荒いヴニェク・スーが、アフラムシカのことを気遣っている。
いつもなら、もっと違う状況だったなら、きっと彼女はもっと強い言葉を放っただろうに。
一方、オーファトは刀の一本を地に突き立ててあたりのようすを確かめていた。
この中でアフラムシカ、カーイ、ドドのいずれとも付き合いが深くなかったせいか、今は彼がいちばん冷静であるようだった。
しばらくして彼は刀を抜き、納得した表情でそれを鞘に収める。
アニェムイは俯いたまま、悔しそうに悪態を吐いた。
握り締めた拳がぶるぶると震えている。
それを、ルーディーンは未だ、無言で見つめ続けている。
そうして、それから、五柱の神々は、元来た道をゆっくりと戻り始めた。
いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
排するべき支配者を廃したのだ、代わりに大きな損失はあったけれど、これから元の平穏へと帰っていかなくてはならない。
ドドを倒しても大紋章の改訂はどのみち必要な作業なのだ。
ルーディーンは帰り道もいちばんうしろを歩いていた。
目の前のアニェムイの背中が、来るときの半分ほどの大きさに思えた。
やがて広場に戻り、そこで待っていた神々に、疲れきっているアフラムシカに代わってオーファトが説明をした。
アフラムシカはヴニェクに連れられてラグランネたちのところへ行き、ルーディーンも一緒にそちらへ戻って彼の治療を手伝った。
アフラムシカの全身は、いたるところにありとあらゆる負傷があった。
無心でその傷を塞いでいると、ふいにオーファトの声が耳に飛び込んでくる。
「……真に残念ながら、カーシャ・カーイ殿は相討ちにて滅されたとの由……」
途端に広場のあちこちで、悲鳴が上がる。
ルーディーンは頭を思い切り殴られたような感覚を味わった。
まだ信じられないのに、追い討ちのようにもう一度その事実を叩きつけられて、どうしていいのかわからない。
思わず手が止まり、震えだすのを、ぐっと握って耐える。
「嘘……」
ラグランネが呆然と呟き、そして、ルーディーンを見た。
ルーディーンは黙って、ただ頷く。
女神の瞳がみるみるうちに潤んでいくのが見える。
それを見て、どうして、とルーディーンは思う。
そのうちラグランネは耐え切れずに口を覆い、声を押し殺して泣き出した。
ティルゼンカークが寄り添ってその肩を抱いてやっている。
どうして、──どうして私は泣けないのだろう。
泣きじゃくるラグランネの姿を見て驚くほどに腑に落ちる。
この反応が正しいように思える。
けれどルーディーンの眼は乾いたまま、わずかに滲むことすらなかった。
それともルーディーンならそれが正しいのだろうか。
何百年も彼を冷たく拒み続けた女が、その死に際して今さら涙を流したところで、もう遅すぎるのかもしれない。
いや、それどころか嘆く資格などないのではないかとさえ思える。
あちこちから慟哭の声が聞こえてくるのが、まるで自分を責めているようだった。
実際にはルーディーンに向けて何か罵倒を投げかける者などいないのに、彼らはただカーイの訃報を嘆いているだけなのに、どうしてこれほど居た堪れないのだろう。
この身を裂かれたようにあちらこちらが痛むのだろう。
わからない。
わからない。
確かなことはひとつだけ、女神の祈りを聞き遂げる者など、この世にはない。
それだけが、はっきりとわかった。
: * : * :
身体がひどく重い。
意識の糸はいつでも途切れそうなほどか細く、ぼんやりとした空虚の中に『彼女』はいた。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうと、彼女は必死で考える。
つまり世界を歪めてしまったあの男のことだ。
そう、あのヒヒの神が大紋章に介入して、きっと今ごろ大陸は大混乱に陥っている。
もしくは誰もが異常に気づかず平穏に暮らしているのかもしれない。
他の神も彼女と同じように囚われているのだろうか。
連絡の手段のすべてが絶たれているのではっきりとはわからないが、大勢の神をすべて別々に閉じ込めようと思っても、必要な場所を確保するのは難しいという現実的な問題に思い当たる。
となれば就縛しているのは己だけなのか。
ではなぜ自分だけがこのような目に遭っているのか……いや、それは深く考える必要はないだろう。
というか想像したくもない。すべての黒幕はあのドドで、自分は女なのだから、目的は見え透いている。
あれからドドは何もしてこないが、それは単にきっと自分の順番が回っていないだけ、あるいは不要になった他の神の処分に忙しいのだろう。
だからそのうち、そのときが来る。考えるだにおぞましい。
どうにかこの状況を脱する術はないか、囚われた瞬間から考え続けてはいるが、未だ明瞭な答えは得られていなかった。
力の大半は封じ込められているし、そもそもまともに意識を保っていられない状態だ。
思考などまとめられようはずもない。
こうしている間も誰かが被害に遭っているかと思うと吐き気を催してくる。
幸か不幸か、ここにその悲鳴は届いてはこないようだけれど。
焦ってもどうすることもできない。
ここがどこなのかもわからないまま、ひたすらに、無為に時間が過ぎていく。
それがあるとき、変化が起きた。
恐らく外で何かが起きたのだ。その影響がはっきりと伝わってきたわけではないが、彼女の耳に、かすかに誰かの声が届いた。
『……誰かいるのか?』
聞き覚えのある男の声だった。
彼女は答える。
自分はずっとここに囚われていること、力がかなり制限されており、自力では脱出できそうにないこと。
言葉を念に込めて送り返すのだけでも相当に疲弊して、途中で何度か意識が落ちそうになる。
だが、この機を絶対に逃してはならないと、彼女の本能が鋭く叫んだ。
声の主に助けさせるしか道はない。
『なんでおまえが……どういう理屈なんだ、そりゃあ』
声の主はなぜか心底不思議そうにそう言って、それからしばらく黙り込んだ。
理屈も何も、あのドドの下卑た欲望の結末だろうと彼女は思うので、彼の疑問とするところがよくわからなかったが、尋ね返す気力はない。
とにかく彼の意見を待った。
この男ならきっと解決策を出してくれるだろうという期待も持てた。
そして実際、少ししてから対話は再開された、けれども。
『残念ながら、俺も今はそう自由ってわけでもない。形は違えど、おまえと同じように囚われた状態ではあるからな』
では、どうするというのか?
『俺の脱出する算段はついてる。ただ状況が読み切れてねえから今すぐにってわけにはいかねえが……まあ、出るときはついでにおまえも出してやるから、そんときは手を貸せよ』
むろんこちらもそのつもりだ。
こんな目に遭わされたのだから、落とし前をつけさせなければ気が済まない。
恐らくこの場所自体が結界であろうから、脱出さえできれば多少は力も戻るだろう。
自分へのこのような侮辱、支払いは高くつくということを奴に思い知らせてやるのだ。
絶対に許さない。
彼女は頷き、取引は成立した。
『あと、そうだ、おまえも外の状況を少しは知っといたほうがいいだろ……』
そのあと彼は、彼の知るかぎりのことを教えてくれた。
大陸やアンハナケウが置かれている状況、クシエリスルの状態について、それは彼女の想像より多少ましな部分もあれば、想定より悲惨なことになっている部分もあった。
傷つけられた神々の話には頭を抱えたし、タヌマン・クリャとその信徒の娘のことは寝耳に水だ。
そしてそれ以上に彼女を驚かせた事実がひとつあって、それについては完全に言葉を失った。
最初に彼が見せた奇妙な反応にも合点がいった。
自分でも、どういう理屈でこんなことになってしまっているのか、驚いて何も言えなくなってしまう。
けれど、さすがにそれは己の身に関わることで、推測はできるのだ。
恐らくこういうことだろう、と。
それをなんとか彼に伝えると、興味深そうな相槌が返ってきた。
『……なるほどな。もしかすると、そのからくりがこの状況をひっくり返すのに一役買うかもしれない……いやむしろ、そのためにあんたが隔離されたんだとしたほうが、辻褄は合うな。
こりゃいい、下手くそな猿芝居に付き合ってやった甲斐があった』
彼は楽しそうに笑っていた。この状況でそこまで余裕があるのは不気味だが、今は彼を信じるしかない。
あとは待つのみ。
彼が言うところの"時機"が来るのを、このいずことも知れぬ結界の内で。
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