117 ようこそモロストボリへ
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少女の髪は銀色で、頭頂部を向かって右に少し下ったあたりで、大きめのお団子をひとつ作っている。
しかもそこからさらに三つ編みにした髪がひと房流れており、下ろせばかなりの長さがあるだろうと伺える。
くりくりとした大きな瞳はきれいな紫紺色で、歳は十代の初めだろうか。
室内に吊るされていたのと同じようなシャツにこれまた刺繍がたっぷり施された厚地のスカートと、綿入りと思われる柔らかそうな上着を羽織っている。
手にはお盆とお茶らしき液体の入った器がひとつ。
服装もそうだが、まず鼻筋を見て思う。この子はハーシ人だ。
扉の前に突っ立っていたララキを見るなり、その女の子は子犬が鳴くような声で驚いたように言った。
「びっくりした! 起き上がって大丈夫なの? あちこち痛くない?」
「えっ、あ、うん、痛い……けど……」
「ほらー、まだ休んでて。とりあえずスニエリタちゃん呼んできてあげるねっ」
ララキが勢いに圧されてとりあえず頷くと、少女は頷いてくるりと踵を返した。そのまま廊下へと消えていく。
見知らぬ少女の口から名前が出てきたということは、少なくともスニエリタは一緒に運ばれてきたようだ。
そうなればきっとミルンも、と思いたいところだが、ララキが相談したのはあくまで彼女がララキと別行動を取ることについてだ。
本人の意思以外アンハナケウにもタヌマン・クリャにも関係のないミルンは、取りこぼされてしまっている可能性はないとはいえない。
それにここがどこなのかもまだわかっていないし、さっきの女の子が何者かも不明だ。
そのへんはスニエリタに聞いたほうがいいのかな。
と思いながら寝台に腰掛けて待っていると、廊下をふたり分の足音がこちらに向かってくる。
そして扉が滑り、そこから覗いたスニエリタの顔を、なぜか無性に懐かしく感じてしまった。まるで何年も会っていなかったみたいだ。
そして、ふいに夢のことを思い出して、ララキの眼からまたぽろぽろと涙が零れた。
まさかスニエリタを前にララキが泣く側に回る日がこようとは。
もちろんスニエリタは驚きと心配の入り混じった顔で駆け寄ってくる。
背後にはあの女の子もいて、ララキがいきなり泣き出したのを見て何事かとあわあわしているのが見えた。
「ララキさん! 大丈夫ですか、その、どこか痛むんですか?」
「ちがうの……なんか……ひどい夢見てたから……。ごめん、身体はたぶん大丈夫、ふつうに歩けるし……っ」
「そ、そうなんですね。あ、あの、何か欲しいものとかありますか?」
「……しいて言えばお腹減ってるかなぁ……」
涙を拭いながらえぐえぐとそう言うララキに、女の子がそっと布を差し出す。
これで拭けということらしい。遠慮なく受け取って顔全体を思い切り押しつけ、とりあえず深く息を吸って吐いた。
なんか花の匂いがする。
「とりあえず台所に行って何か食べる? 昨日の残りものしかないけど」
「あ、もう何でもいいよ。ありがとう。えっと……」
「私の名前? アレクトリア」
どこかで聞いたような名前だな、と思った。
そして、それになんとなく、この女の子は誰かに似ている。
少しつり上がった眼の形といい瞳の色といい。
あとよくよく見たらお団子からリボンが生えているが、その色と形にも見覚えがある。
そう、それは確か、ワクサレアはレルヴェドの街で購入したお土産のかんざしではないか。
ということはつまり、この子は。
「……ミルンの妹!? だよね!?」
「あ、うん。うちのお兄ちゃんたちがお世話になりました」
アレクトリアはにっこり笑うと、三つ編みを揺らしながら歩き出した。
その後を追いながらスニエリタに尋ねたところ、ララキたちが世話になっていたらしいこの家はミルンの実家で、ここは水ハーシの里らしい。
もちろん来た覚えはない。
どうしていつの間に、いやもちろんカーシャ・カーイの仕業なのだろうが、それでもなぜ行き先が水ハーシの里なのだろう。
食事の用意をしてもらいながらアレクトリアにも聞いたが、ララキたちの訪問は想像を絶する光景だったらしい。
「驚いたよ、四人揃って空から降ってくるんだもん。死んじゃってるかと思った」
「四人?」
「うちの兄ふたりとスニエリタちゃんとララキちゃん。しかもジーニャもミルシュコもいっぱい怪我してるし……一応スニエリタちゃんから話は聞いたけど、なんかよくわかんないし」
「すみません、上手く説明できなくて……」
「んーん。なんにしてもちゃんとふたりが帰ってきたから、とりあえずカーシャ・カーイさまにお礼しなきゃ」
いや、その神が空から四人を降らしたんですよ、たぶん。
とか言うのはなんか野暮な気がしたので、黙って差し出された器を受け取る。
器の中身はもうもうと湯気を上げる熱々のスープだった。
香ばしい匂いが食欲をそそり、そういえばミルンと最初に食事をしたときにスープの話をしたっけなあ、と思い出しながら一口啜った。
あのころララキはイキエスの常識に生きていたので、熱いスープを飲んだことがなかった。
なるほどこれは美味い、身体が一気に温まる。
一緒に出された異様に硬いパンを浸して食べるのもなおよし。というかこのパンは他に食べようがないぐらい硬いのだが、ハーシではこれがふつうなんだろうか。
あっという間にすべて平らげる。
おかわり、はさすがに遠慮したほうがいいかな、まだ余裕で入るけど。
「はー、美味しかった~。あ、ねえ、ミルンたちはどうしてるの?」
「ミルンさんは少し前に、外で身体を動かしてくると言ってましたよ。ロディルさんはまだ動ける身体ではないのでお部屋にいるかと」
「なんだ、元気そうね」
「……ねえねえ、ふたりにちょっと聞きたいことがあるんだけど」
ララキの向かいに座ったアレクトリアが、なにやら顔を輝かせている。
なんとなくこの感じは知っているぞと思うララキであったが、隣のスニエリタはきょとんとして、ララキのほうをちらりと伺ったのが視界の端に見えた。
なんでしょう、と答える構えを見せるララキに、アレクトリアは興味深げに尋ねてくる。
「どっちがどっちの彼女なの?」
案の定である。そうくると思っていた。
ミーに聞くかぎり、彼女は兄の遣獣に対して女性関係に注意しろという旨の約束を取り付けるような妹である。
旅に出ていた兄がふたり揃って帰ってきて、しかもそこに同じ人数の同年代の女子が一緒だとなれば、そこに何かしらの関係を期待したり邪推したりすることは容易に想像がつく。
ていうかララキが同じ立場だったら絶対そう思う。
でもまあ、残念ながら彼女の期待に応えることはできないララキは、正直に答える。
どっちも違います、と。
「とりあえず、まずお兄さんとはそもそもそんなに親しくないし、たぶん彼はもう別の相手がいるっぽい」
「ほんと? どこの誰?」
「わかんないけどたぶんハーシの人だよね。ほら、スニエリタが言ってた」
「ああ、留学生の方ですか。どうなんでしょう……あっ、でも、その方のために薬を探しているような話でしたよね……」
「うん。まあすごく仲のいいお友だちという可能性もなくはないけど」
「へー、なんかジーニャっぽい。ミルシュコは?」
「あたしは絶対ない……ない……けど……もしかしたらスニエリタがもしかするかもしれない」
「えっ、ラ、ララキさんっ!」
スニエリタが顔を真っ赤にしてこっちを見つめてきた。
もしかしてそれで睨んでるつもりなのだろうか、正直ちっとも怖くはない。
普段のララキなら、ここでもっとスニエリタにあれこれ聞いたり、あるいはアレクトリアの意見を頂戴したりしたいところだ。
改めて今ミルンについてどう思っているのか、根掘り葉掘り。
アレクトリアには妹から見てミルンとスニエリタはどのように映るのかなど。
だが、今のララキにその気力はなかった。お腹を満たして多少気は紛れたが、まだ脳裏にはさっき見た夢がどろどろとこびりついている。
もちろん、ひとつ断っておくが、あんな夢くらいで意志が揺らぐようなララキではない。
シッカに対する気持ちは少しも変わらないし、そもそもあれが現実だったのかどうかもまだわからないのだ。
なぜか夢の中ではそのように確信し、絶望していたけれど、眼を醒ましてみるとやっぱりただの夢だったようにも思えてくる。
いや、それはララキがそう思いたいからそう感じるだけかもしれない。
もしかしたら、ほんとうに単なるララキの思い込みで、シッカはララキに対して特別な感情などひとかけらも持っていなかったのかもしれない。
ヴニェクと男女の関係だったのかもしれない。
でも、それでシッカのことを諦められるかとか、この旅を止めて故郷に帰るかと言われたら、答えは否だ。
この際シッカがどう思っているのかなんて関係がない。
というか、もともとシッカはただの一言もララキに向かってアンハナケウに行けとは言っていない。
ララキがやりたいからやるのだ。
見返りなんて求めていない。むしろこれはシッカへの恩返しのようなものなのだし。
ただ、まあ、無事にアンハナケウに辿り着いて、またシッカと話ができるようになったときは、それこそあれこれ聞き出してやろうと思う。
改めてこの気持ちも伝えよう。受け入れられても拒まれても、そうしないことにはけじめってものがつけられないと思うから。
と、むしろ旅への熱意というかやる気みたいなものは上昇している。
しているが、やっぱりシッカの女性関係について考えると落ち込んでしまうララキもいる。
ほんとうはヴニェクとはどういう関係だったのだろう? 夢で見た会話も、単に仲がよかっただけでそれ以上のものではなかったとか?
あるいは他の女神とはどうだったのだろう。
知っている女神といえばルーディーンとサイナだが、ルーディーンなんて盟主だし声からして美人そうだったし、まあお似合いというか釣り合いは完璧だよなあ、とか思ってしまったりなんかして……どっちも性格は真面目系だし気は合いそう……。
サイナはちょっとしか話したことがないからよくわからない。
その他のララキの知らない女神についてはもう想像のしようもないが、なんにせよ、そんな可能性にそもそも気づきたくなかった。
神々といえば人間など及ばない遥か超越的な存在であって、恋とか愛とかそういう俗的な関係を作ること自体を今までまったく考えもしなかったのだ。
その一方で自分はシッカに懸想してるんだから変な話だが、まあララキも人間なので、都合の悪いことには無意識に眼を瞑っていたのだろう。
「……ララキさん?」
スニエリタが心配そうな声音でララキを呼ぶ。
いつの間にか彼女をほっぽって妄想に耽ってしまっていた。
「うん……ごめん、なんでもない。それより散歩がてらミルンのようす見にいかない?」
「そうですね」
「私はお留守番してるね。いってらっしゃーい」
アレクトリアに見送られ、外に出ることに。
台所から玄関までの廊下の壁は、またしても刺繍だらけの布製品や木彫り民芸品の数々、埃を被った古めかしい絵画やらがところ狭しと飾られており、いかにも田舎の古い民家という感じがした。
あとこの家の床はすべて絨毯が敷き詰められていて、その下の床板が覗いているところがほとんどない。
基本的には木造のようだが、ところどころ泥や土で補強されている。そしてけっこう広い。
だが、たとえばハーネルの街でお世話になった地元の名士の家と比べると、面積ではそう大差ないのではないかと思う。
だからたぶん部族長の家としては小さいのだろう。他のハーシの部族長の家を見たことはないけれども。
ちなみに現部族長であるこの家の長男ヴィトレイ氏は不在のようだった。
スニエリタに聞いたところ、日中は役所などに行っていて夕飯ごろになれば帰ってくるらしい。
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