102 名前が重い
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そういえばこの忌神は、初めて会ったときもシッカを喰おうとしていたような気がする。
もちろん喰べられてしまっては困るわけだが、ララキは今さらながら、その理由を知りたくなった。
今のところガエムトと同時に顕現したことがあるのはフォレンケとタヌマン・クリャぐらいで、敵であるクリャを喰おうとしていたのはわかるが、彼はフォレンケには攻撃的な部分を見せていない。
同じクシエリスルの神なのにシッカは襲う、フォレンケは襲わない、この違いはなんなのだろうか。
どきどきしながらガエムトを見つめ返す。
果たして言葉は通じるのだろうか。少し無駄な気がしたけれど、どのみち目覚めるまで暇だったので話しかけてみた。
たぶんまた襲われたらフォレンケが出てきてくれるだろう、……たぶん。
「えっと、ガエムトさん?」
『……』
「なんかよそよそしいな。ガエムっちゃんでもいい?」
『……』
勝手に変な渾名をつけてみるが、反応なし。大人しすぎて逆に怖い。
「あの、ガエムっちゃんは、どうしてシッカ……ヌダ・アフラムシカを喰べようとするの?」
『……強い神、喰う』
「うん? シッカが強い神さまだから喰べるの?」
『力、得る……ガエムト、強くなる』
思ったよりは会話になった。ガエムトの言葉はちゃんとララキの質問に対する回答の形になっている。
つまり、たぶん、ガエムトはシッカのことを強いと認めている。だから喰べようとする。
たぶん喰べることで相手の力を手に入れられるということだろう。
力というか、紋章を、だろうか。
改めてガエムトの異様な姿を見て、その結果がこれなのだろうかと思ったりもした。
何にも似ていないが、ところどころが何かを模したような姿は、かつて彼が喰らった神の面影なのかもしれない。
まあそれはララキの勝手な想像だけれども、ともかくもう少しガエムトと話をしておこう。
彼が強力な神であるのは確かなのだ。味方までは難しくても、とりあえずいざというときに頼る候補を増やすのは悪くない。
「じゃあさ、フォレンケを喰べないのは、彼があんまり強くないからってこと?」
『……ヌウ』
この質問にガエムトは俯いてしまった。
いいえ、でもなさそうだが、かといって肯定しているふうでもない。どちらかというと、悩んでいるように見える。
「もしかして、そのへんガエムっちゃん自身も曖昧なの?」
『ウウウ……』
「まあフォレンケがいないとあたしも困るし、あ、あとシッカも食べちゃダメだからね。あたしの大事な人なんだから」
『だい、じ?』
「とっても大切で大好きってこと。
……ところでさ、ここってガエムっちゃんの結界だよね。なんか寂しいとこだねえ。このへんに転がってる骨って、やっぱりヴレンデールで亡くなった人や獣なのかな。それとも世界中のが集まってるのかな」
『寂……しい……?』
首を傾げていると、片言の喋りかたもあいまって、小さい子どものようだった。
いや図体はクマよりでかいし毛むくじゃらでかわいらしさは微塵もないが。
どうもこの神、知っている語彙がかなり少ないらしい。
そういえばフォレンケも頭が弱いとか言ってたなと思い返して、ララキは空を見上げた。
月は満月ではなくなっていた。融けるように欠けてから、そして滲むようにふたたび満ちようとしている。そこだけすごい勢いで時間が経っている。
あれ、これ夢だよな、起きたら一週間経ってたっていう落ちじゃあないよな、と一瞬不安になった。
果ての見えない沼地に、それが見えないほど降り積もった大量の骨。
それが意味するのは数多の死。
ララキにとっては寂寥感に満ちたとてつもなく暗い場所だ。でも、忌神である彼にはそういう感覚はないのかもしれない。
もともと死者のために存在している神なのだから、彼にとってはこの光景が当たり前で、むしろ温かくすら感じられるのかもしれない。わからないけど。
また骨を噛みだしたガエムトを眺める。
こんなにたくさんあるのだから、ぜんぶの骨を噛み終えるのにはだいぶ時間がかかるだろう。
その間にきっと新しい骨が増えることだろう。
やっぱりここは、寂しい。そしてあまりにも悲しい。
‐ ‐ ‐ +
その朝、ララキはなかなか眼を醒まさなかったが、起こさないでいいとミルンが言うのでそっとしておいた。もしかしたら夢の中でどこかの神を会っているかもしれないから、と。
ともかく全員分の朝食を運ぶ。これは厚意で寺院の調理場を貸してもらい、スニエリタとロンショットとで用意したものだ。
といってもスニエリタに料理を習った経験はなく、実家でも家事はすべて女中に任せていて一切手伝ったことがなかったため、大半はロンショットの仕事になった。
彼は十代の初めごろに両親を流行り病で亡くしていて、しかもそれほど資産のある家庭でもなかったため、若いころから自活を余儀なくされていたというので、家事に関してはひととおりそつなくこなせるのだ。
マヌルドにいたころも、クイネス家の女中が困っているのを見て何がしか手伝っているところをよく見かけた。
女中たちから評判が良かったのは言うまでもない。
まだ若い厨房女中など、真剣にお付き合いすることを考えていた者も少なからずいたようだ。
主人であるクイネス将軍が許さなかったのでそういう話はすぐ消えたが。
そういうわけできっと今日の朝食は美味しい。
ヴァルハーレとロディルにも起きてほしいが、無理強いはできないし、とりあえず枕元にお盆ごと置いてようすを見る。
一応布団でそのまま食べられるように木製の軽い机もあって、ミルンはそれを使ってすでに食べ始めている。
「あ、美味い。……なあ、これ、スニエリタが?」
「いえ、ほとんどすべてディンラルさんです。わたしはお料理をしたことないので……」
「へー……人は見かけによらねえなぁ。ああいやおまえじゃなくて、あの人が」
なんて話をしていると、隣で呻くような声がした。
はっとしてそちらを見るとロディルが顔を顰めている。まだ意識はないようだが、どこか痛むのだろうか。
失礼して布団を剥ぎ、手当てをしたところに何か異常がないかを確かめる。ざっと見たところ傷口が開いたりしているような部分はなさそうだ。
痛み止めは経口薬しかないので意識のない人間には与えられない。
どうしたものかとおろおろしているうちに、ロディルの眼がうっすらと開いた。
「う……あ……ここは……?」
「ようやく起きたか。サーリ町内の寺で寝かせてもらってんだとよ」
「ああ、……そうか……」
ロディルは瞬きを繰り返しながら、なんだか泣きそうな顔で、そうか、ともう一度言った。
何かを確かめているような口ぶりだった。まるで、さっきまでそこにいた誰かを探しているような。
意識が戻ったのはいいが、ロディルは起き上がることができなかったので、ロンショットに手伝ってもらって彼の身体を起こした。
さすがに横たわったままで食事はできないからだ。
腕もまともに動かない彼のためにスニエリタは匙をとり、一口ずつ掬って顔の前まで運んであげることにした。
たぶん慣れない作業でスニエリタの手つきが危なっかしいのだろう、ミルンがちょっと険しい表情でこちらを見ているのが気にかかる。
「……ごめんね?」
「いえ、お気になさらないでください。わたしこそ上手くできないかもしれませんけど……」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
そんなに危なっかしいのか、ロディルも苦笑いしていた。火傷なんてさせないように気をつけなければ。
「……うう……だめ、ガエムっちゃん……それはさすがに……だめだと……うーん……」
スニエリタが必死で粥を掬っていたころ、ララキがうなされ始めた。
そろそろ起こしてあげたほうがいいような気もするがそれどころではない。
ひたすら粥を掬うのに集中していないと、どこでどんな間違いを犯すかわかったものではないので、スニエリタは必死でララキの寝言を無視した。
それにきっとほんとうにまずくなったらミルンが起こすだろう。……あ、でも布団同士は身体を起こしても手の届かない距離まで離しておいてある。
いやいやいや余計なことを考えている場合ではない。もうひと匙ロディルの口に届けなければ。
「……ぁから、だめだってば! ……はえっ!?」
しばらくしてララキは跳ね起きた。どうも自分の叫び声で眼を醒ましたようだった。
彼女はしばらくあたりをきょろきょろ見回してから、ここがサーリの寺院であることを確認し終わったのか、はあと大きな溜息をついた。
「あーよかった起きれた……おはよ、ミルン、スニエリタ。あとミルンのお兄さんも」
「おはようございます」
「おはよう。なんか魘されてたけど大丈夫?」
「はよ。なんでもいいけどガエムっちゃんてなんだよ」
「あ、それね、ガエムトのことこれからそう呼ぶことになった。っていうかした。
んーっ……顔洗ってこよっかな……スニエリタ、ここ洗面所ってある?」
「はい、ご案内します。……あ、ごめんなさい、あと一口だけ待ってください」
「へ? ……ああ、なるほど」
なんとかロディルに食べきってもらい、ミルンの食器とまとめてお盆に載せる。
大丈夫かとミルンに言われたが、ふたりともしっかり完食してくれたので空の皿数枚だけだ、ちっとも重くない。大丈夫です。
廊下に出て、調理場へと向かう。
洗面所といっても独立した部屋があるわけではなく、水資源に乏しい土地柄のため、水道は一箇所に集約されているのだ。要するに調理場の隅で顔を洗うしかないのである。
ということを歩きながらララキに説明した。
それにしても昨日は歩くのがしんどそうだと思ったが、今日はすたすたと元気に歩いている。回復が早い人だなあとスニエリタは感心した。
ミルンも早く元気になってくれるとよいのだけれど。
調理場ではロンショットが片付けをしていた。何から何までほんとうに彼の世話になりっぱなしだ。
「あ、ロンショットさんおはよー」
「おはようございます」
「……昨日から思ってたけどさ、真面目だよねえ。あたしには敬語遣わなくてもいいのに」
「ああ、これはもう癖のようなものなんですよ」
「スニエリタもそう?」
「はい」
ララキの質問に頷きながら、食器類を洗い場に出す。
きれいな言葉遣いをするように、と言われて育ってきたので、家でも外でもこの口調で通している。そのほうが楽だからだ。
独り言とか、遣獣相手だともう少し砕けて話してもいいかなとは思うけれど。
せっかくなのでロンショットに習って食器を洗ってみることにする。
こんな機会は今までなかったし、たぶんこれからもほとんどない。
いろんなことをやっておきたい。
それに、こうしているとなんだか家の女中にでもなったようで、こんなことを言うのはおかしいかもしれないが、楽しかった。
お嬢さまと呼ばれることが、それだけでこんなに重苦しいのだと、昨日初めて気がついた。
ロンショットがそう呼ぶたびに世界に亀裂が入るような感覚だった。大袈裟かもしれないがスニエリタはそう感じた。
ミルンやララキのいる世界と、自分の世界とが音を立てて分離するような気がして、悲しくて苦しかった。
ふたりと同じ道を歩きたい。
同じ世界に暮らしたい。
そんな淡い願いを許さないのはスニエリタ自身が肩にかけている名前そのもの、クイネス家の血と父の威光だ。
それをこんなに疎ましく思う日が来ようとは夢にも思わなかった。いつか死のうとしていたあの日のスニエリタでさえ、それを苦にしていたわけではなかったのに。
どちらかというと、あのころは肩書きに相応しい人間になろうとしてもがいていた。そして、それはもう不可能だと悟ったからこそ、もはや命を捨てるしか道はないと思ったのだ。
今はほとんど逆だ。
誰かにクイネス家の娘として認められなくてもいい。そんなものはどうだっていい。
ただのスニエリタを受け入れてくれた、ふたりとともに歩いていくには、むしろその名は荷物にしかならない。
捨ててしまえるならそうしたいとさえ、思ってしまうスニエリタがいる。
そんな自分への情けなさと、ふたりと離れることの寂しさで、昨日は泣いてしまった。
別れたくない。ずっと一緒にいたい。
そんな想いが溢れて止まらなかった。
その気持ちは今でも少しも変わらないし、どうにかして帰らない方法はないかずっと考えている。そんなもの思いつけるわけがないのに、考えずにはいられないのだ。
流れ落ちる水と泡を見下ろして、まるで昨夜の涙のようだと思う。
これからもふたりの旅は続くだろう。スニエリタだけ先に帰るのなんてやっぱり嫌だ。
ああ……それにまだ、頭を撫でてもらっていない。
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