第二話 憑依して始まり
パチンと暗転した視界が元に戻る。
最初に目に入ったのは汚れの目立つ大きな鏡だった。
―――これは誰だ?
鏡に映っていたのは見慣れた自分の姿ではなかった。
そこに映っていたのは180cmほどのがっしりとした体にピシッとした黒スーツを身にまとった金髪青目の外国人。
年齢はまったく分からない、外国人の顔はよく見たことがないのだ。
顔をペタペタと触って見せるとそいつも同じ動きをした。
片手を上げるとそいつも上げる。
くるりと回ってみるとそいつも回った。
―――何が起きているのかは分からないがこれは僕のようだ。
体を触ってみる。
筋肉質でよく絞り込まれた体だ僕のとは全然違う。
「アーッアッアーッ、アアアア・・・・」
当然声も僕のものではない、とても低くて渋い声だ。
「そうだ、ここはどこだ?」
周囲を見渡すとそこは見知らぬ公衆便所のようだった。
汚れた便器に、壊れてヒビの入った洗面台。
寿命を迎えかけた蛍光灯がパチンパチンと点滅し壊れているのかカタカタと音を立てて回るファン。
鼻を刺激するアンモニア臭。
手入れは行き届いていない、床や壁のタイルがところどころ剥がれ落ち床にはゴミが落ちている。
―――うおっ・・・
唐突に吐き気をもよおす。
突然のこの状況によるものか?ストレスからか緊張からか不安からか。
僕は急いでトイレの個室に駆け込んだ。
オロロロロロロロロロロ
腹の中にあるものをぶちまける。
するとすうっと胸の内にあった嫌な気持ちまで一緒に出て言った気がして、
僕は少しだけ楽になる。
が、脱力感、無力感が体中を包み便器の上にだらんと力なく座り込む。
全く動く気が起こらない、無気力、僕の中から生気が抜け落ちる。
それからしばらく僕はそのままの姿勢でボウっとしていた。
どのくらいたっただろうか?
少しだけ現実を受け入れる余裕が出来た僕はここに僕のことを送り込みどこかにいるであろう少女むけたずねる。
「ここはどこ? どうなってるんですか? 何をすれば?」
次々と疑問が湧き上がる。
―――そうだ、まだ何も説明を受けてはいないのだ。
すると待ってましたとでも言うかの様に頭の中でザッザッザーッとノイズが走る、
『あーあーあー・・・やあ、聞こえるかい?』
頭の中でソイツの声が響く。機械を通して喋っているような、そんな声だ。
直接頭に響くその声はとても不快で、
中からガンガンと思い切り叩かれるようでとても気持ち悪かった。
が、そんなこと今はどうでもいい。
「どうなってるんですか?何の説明もなしに・・・」
僕はそいつに抗議する。
『すまないね、時間がなかったんだ。それに今ので更に時間が・・・』
僕が落ち着くのを待っていたようだ。
『どこにいるか?だったね。ここは遠い異国の公衆便所の中だ』
こんなに汚いなんて清掃員の職務怠慢もいいとこだな。
それはまあある程度予想していたことだ、僕が今一番聞きたいのは僕がどうなっているか。
『でだ、君が今どうなっているかだね?君には遠くにいる人間の中に精神だけで入ってもらっている。どうやってるかって?簡単にいってしまえば魔法みたいなものかな』
―――これはどこかの誰かの体ということか、不思議な感覚だな。
僕はクルクルと回り体を確認する。
キュッキュッと靴底がすれる音があたりに響く。
―――これは?
ふと左脇の下に重みを感じそこに手を伸ばす。
手に鉄の冷たい感触があたる。
それを握り引き抜くとそこには映画に出てくるような黒光りする拳銃が。
「うわっ!」
思わず銃を手から離す。
それは想像していたよりもずしりと重かった。
いつでも人の命を奪えるとそんなことを実感として伝えてくるようだ。
―――本物、だよな?
ガシャンッという音が響き確かにそれがそこに存在するという事実を伝えてくる。
『おい、落とさないでくれよ。それは君の何をすればの答えに関係するものだ。それはこれから必要な大切な物』
―――これが必要になる?それって。
「僕が誰かを殺す?そんな、嫌ですよ。殺されて命の大切さを再確認したばかりなのに」
―――そうだ。僕はそんな事。
「自分の夢のために人を殺すなんてなんか違うでしょう?」
『君は契約したじゃないか。僕を手伝ってくれるんだろう? それに今からそいつを殺さなければそれは沢山の人の命が奪われる事につながるんだ』
ビクッと僕の体が震える。
―――たくさんの命?
ソイツとここに来る前に契約したことを思い出す。
―――僕は軽々しくとんでもないことを契約してしまったんじゃあないか?
「たくさんの命ってどういうことです?」
不安を振り切るよう問いただすような強い口調でソイツにあたる。
『それは今はいいだろう? 今必要なのは君が早く悪を殺すことだよ。手遅れになる前にね』
ソイツは早く早くと僕のことを急かす。
『話は歩きながらにしよう。時間がないんだ、本当に。さあそれを早く拾って』
下に落ちているそれを見つめる。
それは僕にとってあまりにも非現実的で、手をのばすことを躊躇する。
―――これをとってしまったら・・・
僕は人を殺してしまうだろう、そんな気がした。
殺してしまえと囁く何かが心の中にいるのだ。
―――この気持ち・・・あいつに植え付けられた夢のせいなのか?
どうしてもそれを拾うことが出来ない。
辺りに響くのはカタカタと回る壊れたファンの音だけ。
それが僕の耳にやたらと大きく聞こえた。
『どうしても嫌なのかい?』
嫌というよりは覚悟が決まらないのだ。
―――たくさんの命のためなら一人を殺したところで。
そう思う心が胸の中にある。誰だって持っているだろう?
僕は自分の中のそれがとても怖くてしかたがない。
人の命を奪う、それは人として決定的に何かを踏み外すことだと僕は思った。
そして何よりもし殺すのが悪人だったとしても命を奪うのは僕で・・・
それがそいつ自身にとって、そしてそいつを思う誰かにとって大切な命であることに変わりはないはずなのだ。
それを考えることを放棄すれば僕は僕でなくなるだろう。
『困ったなあ君がやってくれないと・・・むむむ、どうすべきか―――』
ソイツは少しの間考え込みそして、
『仕方ないな、そんなに嫌なのか。うーむ、そうだね・・・』
そいつは少しの間の後僕にこう告げる。
『仕方ない。なら君が、君が何もしないことによって起きることを見せてあげようか。ね?』
やむをえないといった口調でそんな声が頭の中で響いた。
それと同時に頭の中になだれのように映像がながれ込んでくる・・・
視界がそれまでいたトイレの個室から、見知らぬ市場へと変わった。