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テレアは元々語学は大の苦手だった。特にダナン語は複雑で、「ダナン公国には一生行かない!」と叫びだすほど。
そうは言いつつも、先程述べたように、ミスリラ貴族の子息令嬢が通う学習院ではダナン語は必修である。テレアも例に漏れずダナン語の講義を履修している。試験の度に一生懸命勉強するも、結果はいつも芳しくなかった。
転機が訪れたのは、ダナン語の試験が2日後に迫っていた二ヶ月前のある休日の昼過ぎ。テレアは自室で教科書に囓りついていた。
「あぁ、駄目。メリザ助けて、分からないわ」
「あんた自分でやるって言ったんじゃなかったっけ?」
テレアは、基本的に勉強は真面目にやるタイプで、かつ人に頼らず一人で勉強したい人間だ。自分で考えて色々と模索したいそうだが、だからこそ、思考のプロセスが一つしかない語学が苦手なのかもしれない。
「それはそうだけど、どうしても分からないんだもの」
だが今回だけは別だ。学習院にこそ通っていないが、メリザは侍女教育として彼女の母親にあらゆることを仕込まれており、ダナン語も日常会話なら問題なくこなせる。だから、彼女に頼りたかったのだが。
「だーめ、一度言ったことは最後まで貫き通す!」
「メリザぁ、お願いよ」
「だめ。どうしても分からないなら、図書室にでも行けばいいじゃない」
と言ってもテレアには甘いメリザである。図書室に行っても分からないようなら、教えてあげるつもりでいた。
「うーん、図書室か。それもそうね、行きましょ!」
「はいはい」
アドレーゼ家は代々武人の家系だが、現当主のリチャードはどちらかというと頭脳派で、大変博学である。剣術の指南書や戦術書などの軍人向けばかりで蔵書の乏しかったアドレーゼ家の図書室は、彼のおかげで随分豊かになった。
ありとあらゆる言語の教本や、何のために購入したのかも分からないような専門書。古今東西のポエムや詩集が並んでいるかと思えば、その隣には『人は何故生きるか』という題名の哲学書があったりと、とにかく雑多だ。
『愛らしき幼女 ~その魅力はとどまることを知らない~』という題名の本を見つけた時は、本気で父親の趣味を疑ったものだ。
テレアがメリザを連れてそんな蔵書がカオスな図書室に足を踏み入れると、中から本のページをめくる音がした。
一体誰だろう?テレアの兄と父は共に書斎にいるはずだ。使用人が図書室を利用しているというのは、ありえないことではないが、大抵日中は仕事をしているので夜に訪れていることが多い。
テレアは恐る恐る足を進めた。護身術の域を越えた体術を会得しているメリザも、テレアを守りつつ不審者を捕らえるシミュレーションをして備える。
心の中で自らを鼓舞しながら、テレアは本棚の影から音がする方をそっと覗いた。するとそこにいたのは、不審者というには綺麗すぎる身なりの褐色の肌の青年。本を片手に難しい顔をして立っていた。
テレアは、その人物が誰なのか始め分からなかった。しかしじっと見つめると、そういえば見たことがある気がする。あぁ、そうだ、確か、兄の友人の。
「ヴァニッド・モルターニ氏よ、テレア。モルターニ伯嫡男。つまり、モルターニ次期伯様ね。一ヶ月前ミスリラに留学しに来て、アドレーゼ家に滞在しているダナン貴族。ついでにレナード様の御学友」
すかさずメリザが小声でそっとテレアに教える。それを聞いて、テレアは一ヶ月前の不思議な訪問を思い出した。
一般的には、屋敷に滞在客がやって来たら、家族全員で盛大にもてなすものだ。ディナーを共にし、しばらく談笑に興じて、場合によってはレクリエーションもして仲を深める。
しかし、ヴァニッドの滞在はえらく様子が異なった。
到着した日は、到着時間が遅くなるので先に食べておいて欲しいとレナード経由で伝えられ、実際屋敷に着いたのはすっかりディナーを食べ終えて、湯あみをしようかといった時分だった。
もう夜も遅いから明日改めてと言おうとすれば、リチャードが、明日から忙しいだろうから今日簡単に済ましてしまおうと提案し、本当に名前を名乗るだけの歓迎となってしまった。ミスリラ語がやたら上手いことと、初めて見た褐色の肌に驚いたことしか記憶にない。
疑問に思いながらも、見知らぬ年上の男性と話すことに不安を覚えていたテレアは、交流が少なく済んで内心ほっとしたのだった。兄がそちらの対応にかかりきりになり、しつこいほどあった兄の訪問が激減して少し感謝したことを思い出す。
それ以降屋敷の中でも一度としてすれ違うことなく、気が付けば一ヶ月経っていた。食事を共にしたことがないのだが、一体どうしているのだろうか。今日図書室に来なければ、もしかしたら滞在が終わるまで会わないまま、彼の存在自体忘れてしまっていたかもしれない。今だって、彼の特徴的な褐色の肌がなければ、分からなかったに違いないのだから。
ヴァニッドのことを思い出したテレアだったが、どちらにせよ簡単に紹介されただけの年上の男性など、いくら美形であろうとあまり関わりたくない。少し緊張するが、メリザの指導のおかげで、癖が出ること自体減ってきたし、今は両腕で本を持っているので癖が出ることはないだろう。もっとも、髪を触ることがダナン公国でもマナー違反に当たるかどうかは分からないが。
簡単に挨拶だけして、すぐ奥の席に行こう。テレアは勇気を出してヴァニッドに声をかける。
「ごきげんよう、モルターニ次期伯様。今日はどのような御用でここにいらしたのですか?」
「あぁ、これはテレア嬢。折角ミスリラ王国に来たので、こちらの歴史書を探していたのです。ダナンにはあまり詳しい物はありませんので。それと、私のことはヴァニッドとお呼び下さい。モルターニ次期伯ではあまりにも堅すぎる。貴女はどうしてここへ?」
「いえ、モルターニ次期伯様。お名前でお呼びするなど恐れ多いことです。私は試験が近付いておりますので、そのために勉強を」
モルターニ次期伯様と呼ぶと少し居心地が悪そうな顔になったが、テレアとしては親しくなるつもりはないのでそのまま通す。名前で呼ぶなどもってのほかだ。ダナンでは名前で呼び合うことが当たり前なのかもしれないが、郷に入っては郷に従ってもらおう。
テレアはこのまま御座なりな激励の言葉を掛けられて別れるつもりで、既に半身を引いていた。
「そうですか・・・。良ければお教えしましょうか?ダナンとミスリラでは学習要項が異なるかもしれませんが」
テレアはヴァニッドの提案を聞いて、より彼を敬遠したくなった。
貴族間では社交辞令など息を吸うように使い、また受け取らなくてはならない。一応テレアも貴族の令嬢なので社交辞令の受け答えなども仕込まれてはいるが、癖のこともあって本心の探り合いというのがテレアは苦手だった。
また、もし本当に教えてくれるつもりだったとしても、テレアにはなかなかすぐにうんとは言えない。
メリザに自分でやれと言われたのも理由の一つだが、華奢で中性的なアドレーゼ家の男子を見て育ったテレアにとって、筋肉質で肩幅も背丈も大きいヴァニッドはあまり得意ではない。そもそも彼に時間を割いてもらうのが申し訳ないというのもある。
なるべく率直に。ただし相手への礼儀は忘れずに。社交辞令にせよ本心にせよ、それだけは守って断らなければいけない。
もう少し距離を保ってくれた方がありがたいのに。
テレアは本を持つ手にぎゅっと力を入れて抱え込むようにしてから、背の高いヴァニッドを見上げて言った。
「いえ、結構です。自分でできますから。心遣いありがとうございます」
どうかあまり粘られませんようにという気持ちを込めて精一杯の笑顔を作る。しかし、そんなテレアの思い虚しく、ヴァニッドは抱えられたことによって見やすくなったテレアの教本の表紙に目をやって尚も続けた。
「しかし、その教本ダナン語でしょう。レナードが君はダナン語が苦手だと言っていました。それに、ご存知でしょうが私はダナン人ですので、母国語なら教えられます」
あぁ、もう、お兄様ったら何てこと言ってくれたの!!
今度会ったら文句を言おうと内心腹に決めるが、まずこの場をどうにかしなければならない。本など抱えなおさなければ良かったと後悔するがもう遅い。それに、更に困ったことにヴァニッドの提案はどうやら社交辞令ではなさそうだ。もしそうならわざわざ教本まで引き合いに出さないだろう。見えなかったことにして無視してしまえばよいのだから。
テレアは何とか教えてもらわないですむように考えを巡らせた。しかし、ダナン語が苦手なのは事実なので否定しようがない。嘘をついてもいいが、もう一度レナードに確認を取ったらばれてしまうし、ダナン語で話しかけられたらごまかしようがない。
テレアは困り果てて、つい肯定してしまう。
「それは・・・、そうですが」
「どうでしょう、私は久しぶりに母国語に触れたい。君は試験勉強したい。お互いのためにも、是非教えさせて下さい」
「で、ですが、歴史書をお探しだったのでは?」
このままでは教えてもらうことになってしまう。完全にヴァニッドのペースだ。ヴァニッドがここにいる理由を思い出し、何とか軌道修正を謀る。時間を取ってしまうのは申し訳ない、というのも確かに本心である。
「あれは・・・、口実です。部屋を出てくるための。あまりに暇なのでぶらぶらしてくる、じゃあ格好がつかないでしょう。それとも、そんなに私の指導を受けるのがお嫌ですか?」
嫌、というか、困る、というか・・・。
ここではっきり断れるのは、よっぽど嫌いで今後一切関わりたくない人が相手の場合か、友人との軽口を言う場合かのどちらかだろう。どちらでもない状況で、どう切り抜けろというのか。
ちらとメリザの様子を伺う。流石のメリザも、ヴァニッドの押し売りっぷりには肩をすくめて困り顔だ。お好きなようにとでも言いたげである。もし本当にテレアのためにならないとメリザが判断すれば間に入ってくるだろうが、そうしないということは、『そろそろ身内以外の男性にも慣れろ』というメリザなりの訓練なのかもしれない。
テレアの通う学習院は男女共学だ。しかし、男女で分かれて受ける授業が多いことに加えて、テレアは気の合う女友達とばかり過ごすので、年の近い男性と接する機会はほとんどない。メリザは学習院の中までついてくることはできないので詳しいことは知らないはずだが、テレアが男性に苦手意識を持っていることなどお見通しなのだろう。
だからといって急すぎる。心の準備というものがあるだろう。
「そ、そんな、嫌なはずはありません!ですが、本当に宜しいのですか?ご迷惑では?」
迷惑でしょう?ね?どうにか一人で勉強させてほしい。テレアは心の中で必死で訴える。
「迷惑ならこんな提案致しません」
・・・ですよね。
説得は諦めざるをえない。
「・・・・・それでは、お願い致します」
「喜んで」
テレアは頭を抱えたくなった。ダナン人はみんなこんなに押しが強いのか。ほぼ初対面の人にあんな風に言われたら、対人経験の未熟な15の小娘が拒否するのはなかなか至難の技だ。ヴァニッドは兄のレナードと同い年のはずなので、18か。3年の年の差が、経験の差となって表れているのかもしれない。
「では、まず貴女のノートや教科書を見せて頂いてもいいですか?」
ヴァニッドの深緑の瞳に真剣さが宿り、テレアはこれはもう逃げられないなと逃走を諦めた。
どうしてこんなことになったのだろう。
テレアの教材一式を流し読みするヴァニッドを横目に見ながら自問するが、答えはでない。
そうして仕方なしにヴァニッドの指導を受けることになったテレアだったが、かち合ったヴァニッドの力強い眼差しが、何故か目に焼き付いて離れなかった。