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少し短いです。
「はぁ、また駄目だったわ。どうしてなのかしら」
「それはどうしてヴァニッド様はテレアが髪を触ると逃げ出すのかってこと?それともそれが分かっていながらどうして髪を触ってしまうのかってこと?」
「どっちもよ・・・」
テレアはふてくされて机に突っ伏したまま、力なく答えた。
自室に戻ってからずっとこの調子で、勉強などしていられない。
食べられることのなかったヌガークッキーを消費しなくてはならないが、全く手につかなかった。
メリザがいくつか消費してくれているが、余ったら後で使用人達に配ろう。
貴族界では、癖とはあってはならないものだ。
腹の探りあいが必須の貴族同士の会話では、それが例えつぶさに観察していなければ分からないと言っても、心情を悟られかねない癖というのは致命的。
また、感情によって表れるものではなくとも、マナー違反に繋がるような癖を持つとそれもまた厄介である。
よって、尊い血筋の子息令嬢方は幼い頃から癖が付かないように厳しく教育を施され、万が一癖がついたとしても多くの場合デビュタントまでにはきちんと矯正されている。
しかしそれはあくまで「多くの場合」だ。
なくて七癖とはよく言ったもので、いくら厳しい教育を受けたと言っても、完全に癖が治る者ばかりではない。
そして、テレアもその例外の内の一人であった。
テレアの癖は、緊張すると髪を握ってしまうこと。
テレアの住むミスリラ王国では、髪を手入れしたり髪型を整えたりすることは使用人の仕事なので、貴族が髪を触ることははしたないことだとされていた。
髪を触らないように結い上げられれば良いのだが、髪を全て上げるのは既婚者の髪型であり、未婚のテレアはどうしても髪を下ろさなくてはならない。
長年の教育を通して何とか緊張しないようになり、大分癖も落ち着いてきたかと思われていた。
しかし、彼女の癖はやはり完全には治っていなかったのである。
慣れない恋心を抱いた相手を誘うというのは、他のどんなことよりも緊張してしまうようだ。
ここの所、テレアはヴァニッドとの距離を縮めるために何度も外出に誘おうとしているのだが、その度に緊張する。
緊張すると、髪を触ってしまう。
髪を触ってしまうと、何故かヴァニッドは色々な理由で立ち去ってしまうのだ。
「というか、本当に私が髪を触ることでヴァニッド様が出て行ってしまうのかしら」
「まあ、それはそうだけど、今のところ毎回そうよ?始めの方はちゃんと見てなかったから、分からないけど」
「そうよねぇ・・・」
始めは、ただ本当に用事があったりハプニングがあって席を外しているのだと思っていた。
しかし、何度もそんなことがあれば疑いもする。
二人の様子を傍から見ていたメリザが、ヴァニッドはテレアが髪を触ると途端に出ていこうとしているのではないかと言い出したのだ。
半信半疑だったテレアだったが、今日の様子では本当かもしれない。
でも、仮に本当だとして、わざと自分に紅茶をかけてまで退出する理由が分からない。
もしかしたらダナン公国特有の文化があって、髪を触ることが何かしらのシグナルになっているのかもしれない。
そう考えたテレアは勉強の合間にダナン公国の文化も調べたが、そのような記述は見られなかった。
しかし、ミスリラ王国でも貴族特有の作法というのは民間に出回ることはない。
同様にダナン公国にも、文献にはないだけで、貴族同士の暗黙の了解のようなものがあるのかもしれない。
ダナンの習慣や言い伝えなどにはやたら詳しくなったが、髪を触ってヴァニッドがいなくなる理由は結局分からないままであった。
「はぁ、どうしてかしら・・・」
「だから彼に直接聞いたらいいのよ。どうして逃げるんですか?って」
「駄目よ!そんなの、できないわ」
ヴァニッドに聞こうと思わなかったわけではないが、そうなるとテレアの癖について説明しなければならないだろう。
曖昧に濁せば、彼が勝手におかしな勘違いをして突っ走ってしまうのは経験済みである。
外出に誘うだけで緊張してしまうなんて、貴方のことを男性として意識していますと言っているようなものだ。
メリザはそのまま告白してしまえといつも言っているのだが、初めての恋に怖じ気づいているテレアには、とても出来ないことだった。
「はぁ・・・」
今日は早く決着をつけようとして、休憩の初っ端で言ってしまったのも良くなかった。
結果としてヴァニッドと過ごせる貴重な時間をほとんどふいにしてしまったのだから。
せっかくの休日だったのに・・・。
憂鬱なテレアは、その日は勉強も、趣味も、何も手につかなかった。
何をやっても思い浮かぶのは、褐色の肌に深緑の瞳を持つ、テレアの想い人ただ一人だけだった。